第2話

 結局アイダがうろうろとさまよってエリオットを見つけられたのは、礼拝堂の開け放たれた扉を通過しようとしたときだった。すっかりと見慣れた銀髪がパイプオルガンを見上げているのを見つけた。


「あ、エリオットさ……」


 アイダが声を弾ませて駆け寄ろうとしたら、すぐにエリオットが人差し指を自分の唇に押しつけた。静かにしろと言いたげに。思わずアイダは両手で口を塞ぐと、エリオットは少しだけ呆れたような顔をして寄ってきた。


「今日は神殿騎士も神官も出かけてるから門番くらいしかいないんだよ。だから静かにして」


 そういえば、何度もパイプオルガンの修理を申し込んでもすげなく断られたらしいことは、アイダもエリオットから聞き及んでいた。


(そっか……今はベネディクトさん以外の神殿騎士も神官もいないから……パイプオルガンに近付けるんだ)


 空の上にある学校だが、特に隔離されている訳ではない。特に熟練の奏者さえいれば精霊車を普通に手配できるのだから、地上への行き来も自由だった。

 特にここには神官だけでなく神官長……この国の王と呼べる人物……までいるのだから、首都でなにかあるんだとしたら、そちらを優先するだろう。


「ご、ごめんなさ……」

「うん、それでいい」


 エリオットに少しだけ口元を緩く笑われて、勝手にアイダはときめいた。エリオットは長椅子に道具箱を持ってきていた。ペンチが数種類、ハサミが数種類、ドライバーが数種類と、明らかに修理道具一式が揃っている。


「あのう……」

「僕だと精霊のことよくわからなくって、修理のことは手詰まりだけど。今日試しにパイプオルガンを鳴らしてみて気付いたんだよ」


 エリオットは鍵盤を人差し指で叩いた。

 その音は深く深く伸びるような音がした。


「……前は明らかに詰まった音がしていたのに、音が澄んでいる」

「私の故郷だとパイプオルガンはありませんけど、これは普通のパイプオルガンの音ではないんですか?」

「違うんだ。初めて触らせてもらったときは明らかに詰まった音がしていたから、僕も原因を探して探検していたんだから」


 だから地下に行ったり屋根裏に潜り込んだりして原因追及をしていたらしいが。なにもしないまま勝手にパイプオルガンの音だけ綺麗になっているのは不思議な話だ。


「だから君が歌ってみてくれないか?」

「えっ?」


 それにアイダはたじろいだ。今ちょうどベネディクトから、アイダの歌には神殿で禁止されている旋律が混ざっているという話を聞いたところだ。


(どうしてお母さんが教えてくれた歌に、神殿で禁止されている旋律が混ざっているのかわからないけれど……これをふたりだけでこっそり歌うならともかく、礼拝堂で歌って大丈夫なのかしら……)


 アイダがひとりで困って膝に視線を落としている中、じっとエリオットが見つめてきた。


「駄目?」

「え、ええっとですね……私は歌を歌って反省室に送られましたし、退学処分を食らいかけました……学校で習う歌を歌っていると、ピリピリして、具合があんまりよくないのに」

「それだけど。そのピリピリしているって部分が肝心じゃないの? 僕もここに来てからずっと調子がよくなかったけれど、君の歌に合わせて伴奏しているときはそうじゃないから。もしかしたら、それが精霊にとって都合がいいのかも」


 それにアイダは首を捻った。

 アイダは精霊に感謝を捧げ、少し力を貸してもらうために歌っている。学校で習う賛美歌だって本来は精霊に感謝を捧げるためのものなのに、どうしてそれを歌って調子を崩すのか、説明が付かない。

 禁止されているのはアイダが母から習った曲であり、神殿が教える曲ではないというのに。

 ただ精霊の力を借りて音を奏でる楽器の音が変わったというのは、不思議な話には思う。アイダはしばらく迷ってから、やっとエリオットに口を開いた。


「……あのう、これを人に聞かれないようにすることってできますか?」

「そんなの、正式な奏者じゃないと無理じゃない?」

「ですよね……ただ、これをいろんな人に聞かせるのはまずいんじゃないかと思いまして」「なるほど。怒られたくないの?」

「それもありますけど。私のせいでエリオットさんが怒られるのは嫌です」


 アイダの言葉に、エリオットは少しだけ考える素振りを見せた。そしてアイダがおずおずと声を開いた。


「……知り合いの方に、音避けの歌を歌える方いらっしゃいますけど、お呼びしますか? すぐそこにいらっしゃるから大丈夫だと思いますが」

「君そんなすごい人が知り合いにいたの?」

「神殿騎士の方ですけど……やっぱり神殿側の方に聞かれたら怒られますか?」

「うーん……」


 エリオットは少し顎に手を当てて考えはじめたが、やがて口を開いた。


「いいんじゃない? 呼ぼう」

「は、はい……!」


 アイダは慌てて彼を呼びに行った。まだ神官たちが帰ってきませんようにと祈りながら。アイダは彼がいるだろうかと思って探しに行った校舎の外れで、たしかに彼は見張りとして立っていた。

 姿勢が堂々としているが、ただでさえ白い甲冑に白い装束で重くないのかが気になった。


「ベネディクトさんっ」


 アイダが呼ぶと、ベネディクトはパチリと瞬きしてこちらを振り返った。


「どうした?」

「一緒に、来ていただけませんか? 先程の歌を、歌って欲しくて」

「……音避けの? どうして」

「パイプオルガン……弾きたいので」


 まさかパイプオルガンの音が直った原因を調べたいなんて、さすがに考えなしなアイダでも言うことはできなかった。怒られ慣れている人間はそうそういないのだから。ベネディクトはしばし考えると、なにか歌いはじめた。


──門に花を飾れ

 ──前門にはダリア、後門にはひまわり

  ──門に花を飾れ


 やがてしゅるしゅると精霊らしきなにかが出てきた。どうも見張り代行らしい。


「休憩で交代要員がいないとき用の処置だ。それじゃあ行こうか」

「あ、はい。よろしくお願いします」


 アイダはペコリと頭を下げると、そのままベネディクトを連れて礼拝堂へと言った。パイプオルガンの席には、普通にエリオットが座っていた。それを見て、ベネディクトは呆れた顔でふたりを交互に並べた。


「あまり規則に反することはできんぞ」

「ああ……君の知り合いって、彼だったの。まあ、他の騎士じゃないんだったら」


 エリオットは意外なことに、あっさりとベネディクトを信用して、パイプオルガンの鍵盤に触れた。彼は奏者ではなく、職人科としてずっと楽器の修理をしてきたらしいが、作曲科で音楽の基礎を学んできただけあり、指先の丸く鍵盤に触れる様、椅子に腰掛けた背中の伸ばし方まで音楽家と遜色がなかった。

 そしてパイプオルガンを弾きはじめた。その音にベネディクトは目を瞬かせる。


「……音が変わってないか?」

「うん。前は精霊が詰まっていたみたいなんだけれど、今はそうじゃない。なんでだろうと思って調べていたところ。消音処置してくれない?」


 エリオットの言葉に、ベネディクトは溜息をつくと、先程アイダに歌ってくれた曲を歌い、周りの音を打ち消してくれた。それにお礼を言ってから、アイダはエリオットの曲に合わせて歌いはじめた。


──きらきら光った星の海 舟を浮かべて眺めましょう

──あなたも一緒にきらきらと 水面に爪先付けましょう

──海は冷たく波は高いけど あなたといれば大丈夫


 滑らかなアイダの歌声が響く。アイダの声はラガートに通いはじめてから、見違えるように美しくなった。その声がもう子守歌と呼ぶ者はいなく、どこかの誰かの未来のために歌う奏者の歌声と呼んで遜色がなかった。

 やがて。コツコツコツ……という細やかな揺れがはじまった。


「えっ?」


 細かな音はなりをひそめ、だんだんと礼拝堂のパイプオルガンすらぐらつかせるほどの震動がはじまった。


「地震?」

「ありえないだろう! ここは空の上だぞ! すぐになにかに掴まれ!」


 ベネディクトの指示の元、アイダはパイプオルガンの下に潜り込み、エリオットもアイダを守るようにしてパイプオルガンの下に座る。ベネディクトは座席に捕まり、辺り一面の様子を窺った。

 ベネディクトが膜一枚張った音避けの結界の向こうでは、ラガートの生徒たちの悲鳴が重なって聞こえた。


「なに、これ……」

「そんなのはこっちの台詞だ! アイダ、君は一体なにを歌ったんだ!?」

「歌ったって……これは、子守歌で……」

「ありえない。さっき君にも教えただろう」


 地震の揺れすら者ともせず、ベネディクトは低い唸り声を上げた。


「この旋律は、この国にあってはならないものだ……! 呪歌として、長らく封印され、この旋律を奏でる曲は全て禁止事項とされていたのに……」


 また、ぐらつく。だんだん礼拝堂の門が揺れで開閉をはじめた。上も下も右も左も、視界が掻き回される感覚に陥る。アイダは故郷ですら地震に遭ったことはなく、よりによって二回ほど味わった地震は空の上の学校でだなんて、シャレにならない。

 ベネディクトが吠える中、エリオットはただアイダの手を握った。


「そこまで怒る必要はないんじゃないの?」

「なにを……」

「僕が彼女の歌に対して責任を取る。僕が歌ってもらったものなんだから。このパイプオルガンの音が詰まってる理由を探すために。僕は作曲科から転向したから、僕の好きな旋律を奏でる権利はあるし」

「しかし、だな……」

「地震が原因でこの曲が禁止されたの? でも僕、ここに来るまでこんな地震に遭遇したことないんだけど。むしろ逆じゃないの?」


 エリオットの言葉は淀みがない。アイダを責めることもなければ、ベネディクトを糾弾する言葉もなく、ただ淡々と考えのみを伝える。


「このラガート音楽学校を空に上げているものに、問題があるんじゃないの?」


 彼の言葉の意味が全くわからず、アイダはポカンとしたままエリオットの端正な横顔を眺めていたのだった。

 エリオットの指摘に、ベネディクトは顔を歪めた。


「なにを言って……そもそもラガート音楽学校を浮かせているのは精霊の力だ。毎朝賛美歌を歌っているだろう? あれで浮かせて……」

「それも考えたんだけど、それってますますおかしくない? どうして精霊に感謝を捧げる賛美歌を歌っているのに、パイプオルガンの音が変質するほど、精霊の力が弱っていたんだろう? 精霊の力が弱っていたのに、神殿を付属しているラガートは浮くの?」


 エリオットの言葉に、ベネディクトはなんの回答もできないようだった。一方、アイダは首を傾げていた。

 そもそもアイダが母から習った歌とラガートで習う歌は、なにかが違う。なにが違うのかがアイダにはよくわからないのだ。


(歌っちゃいけない旋律があるってベネディクトさんは言っていたけれど。でもこの学校で歌う歌はなんだかピリピリして、体にあんまりよくない感じがして、それが原因で精霊が弱るって……もう、精霊に祝福したり感謝を捧げたりする歌じゃなくって、まるで……)


 アイダは怖いものが苦手だ。

 故郷の癇癪持ちの年寄りに癇癪を向けられるのも怖いし、入学早々いきなり真っ暗な反省室にひとりで閉じ込められたのも怖かった。

 そうだ。ラガートで習う歌は、怖いのだ。


(精霊を屈服させようとする歌じゃないかしら……)


 そこまで考えて、アイダは小さく首を振った。

 最初から仲良くしてくれたチェルシーは、神殿で歌う歌についてなんの疑問も持ってないようだったし、学校の人々も概ね親切なのだ。

 エリオットは最初から変わり者だったが優しいし、ベネディクトも強面ではあるが真面目なだけで基本的に悪い人間ではない。

 そんな人々がよってたかって精霊をいじめているなんて、アイダにとっては考えたくもないことだった。


(考え過ぎだわ。私、悪いことばかり考えるから……)


 アイダはもうひとつ疑問が浮かんできたが、それもまた、気持ちに蓋をすることでなかったことにしたのだった。


(お母さんは、どうして私にラガート音楽学校に行けって言ったの? お母さんは……どうして精霊をいじめない歌を歌えるの?)


 アイダが疑問を口にするということは、母に対して異を唱えることと同じだった。アイダは畑以外なにもない故郷しか知らず、偏屈な年寄りたちしか知らず、彼女の中でずっと優しかったのは母のラクスだけだった。

 その母を疑うということだけは、アイダの中で一番やってはいけないことだった。

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