そして祝福の歌が響く
石田空
ラガート音楽学校
第1話
空の上に城がある。白亜の城。彼女の故郷にはあれほど大きな建物はなく、大きな建物は全て城というカテゴリーに入れられていた。
「わあ…………」
アイダは初めて見たそれに、感嘆の声を上げる。
真っ黒な髪は癖っ毛であっちこっちに跳ね返ってピンピンとしている。素朴な翠の瞳は初めての光景を興味津々で眺め、息を吐く。
それに真っ白な甲冑の神殿騎士は苦笑したように笑った。
「あなたの故郷では城は見えませんでしたか?」
「は、はい。私の地元、森の中を切り拓いたど田舎でして……森の影に隠れちゃったらなにも見えないんですよ」
「それはそれは。それでは、精霊を呼びますから、精霊車に乗って上がってください。素敵な学園生活を、どうぞお楽しみくださいね」
そうアイダに告げた神殿騎士は、腰の剣を引き抜き、地面に突き刺すと、朗々とした声で歌いはじめた。
「あ……」
その発声は美しく朗々としていて、聴いているアイダの胸の中になにやらビリビリとしたものが走っていた。
(これが……
神殿騎士が一曲歌い上げたあと、つむじ風が巻き起こった。途端にそれは、真っ白な人の形を取った。風の精霊である。
馬のついていない馬車に、神殿騎士に見送られてアイダは荷物と一緒に乗り込むと、風の精霊が車を引きはじめた。
「うわぁ……! 飛んでる! 本当に飛んでる! すごいすごい!」
窓から身を乗り出したアイダは世話をしてくれた神殿騎士に手を振るが、どんどん見えなくなっていき、やがて広がる大地は絵のように視界いっぱいに広がった。
そして。空に浮かんでいた城が、どんどん近付いてくるのがわかる。
「あそこが……あそこがラガート音楽学校。私が奏者になるために勉強する学校……!」
白亜の城がどんどん近付いてきて、やがて先程聴いたビリビリする歌声と似たものが、たくさん流れてきた。楽器の音もするが、アイダは楽器には詳しくない。練習して的外れな音も、中には混ざっている。
それらを聴いて、アイダは目一杯笑った。
彼女の胸中には希望しかない。
(お母さん、待っててね。私、ここで一生懸命勉強して、お母さんを楽させてあげる奏者になるの!)
故郷に置いてきた母にいつ手紙を送れるか聞かないといけないと、ポツンと思った。
****
奏者。それは精霊に感謝と祝福の歌を贈り、その見返りに様々な恩恵をいただく者。基本的に神殿の管理下にあるが、歌が上手い上に、旋律で上手く精霊と交渉できる者は、神殿で歌を教わらなくてもやっていける。
歌が上手く歌えず、精霊とコンタクトが取れない村や町はそれはそれは悲惨で、神殿に高い寄付金を支払って奏者を派遣してもらえなかったら畑仕事や流行病の治療もままならないという有様だった。
しかしアイダの故郷には、神殿の伝手もなければ、寄付金を支払う余裕だってない有様だった。
「ラクスさん、頼んだよ」
「はい、お任せください」
アイダの故郷では、歌を歌っても皺がれて上手く旋律を辿ることのできない年寄りばかりで、とてもじゃないが奏者の代わりは務まらなかった。そもそも彼女たちの故郷の領主はすっかりとこの地を忘れてしまったらしく、頼むから奏者を送ってくれという嘆願書も梨のつぶて、税の取り立てがない代わりに領主の守護下の恩恵も与えられないのだから、自分たちで頑張って畑を守り、大きな町まで出かけて収穫物を売りさばくしかなかった。
だからこそ、アイダの母のラクスが奏者代行として歌い、精霊たちに感謝を捧げてきたのだ。彼女の声は澄んでいて、いつも陰気くさく説教くさい年寄り連中も、彼女が歌っているときだけは目を細め、心穏やかにしていた。
アイダもまた、そんな母の歌が大好きだった。アイダはラクスに歌を教わるようになるまで、そう時間はかからなかった。
植物を育てるために大地の精霊に感謝する歌。大雨の際にどうか止んでくださいと水の精霊に懇願する歌。冬の凍てつく寒い夜にほんの少しだけ火の精霊に部屋を暖めて欲しいとお願いする歌。アイダはラクスから次から次へと歌を教わっては、彼女自身も歌を歌うようになっていったのだった。
ラクスの歌は伸びやかで、年寄りの耳にも響く心地よい歌声だった。一方アイダの歌はまるで子守歌で、年寄りは聞くたびにうつらうつらと眠ってしまうため「仕事にならないから勘弁しておくれ」と苦情を言われてしまい、そのたびにアイダはなんとか母のような歌声を覚えようと、ひとりでこっそり練習するようになったのだった。
ある日のこと。
人がいない故郷に、本当に珍しく客人が現れたときは、アイダも驚いた。真っ白な甲冑も、その下から覗く神官服も、この故郷に暮らす住民にとって、ほとんど見覚えのないものだった。その人は故郷を見た途端に、驚いた声を上げたのだ。
「……こんなところが、緑で覆われているだなんて……」
「はい? こんにちは」
アイダは母以外では年寄りしか見たことがなく、皺のない男性の顔が物珍しく見えていた。腰に差している剣もまた、あまりに見覚えがなさ過ぎてアイダにはいまいちピンと来ない代物であった。
その人は慌てたように声を上げた。
「この緑はいったい……!?」
「緑? 森ですか? 森は昔からありますよ」
「そうか……なら畑は? これは奏者が毎日歌を歌っていなかったら、とてもじゃないけれどこれだけの規模の畑は維持できないだろう」
精霊に感謝を捧げる歌は、そこまで難しいものなのか。アイダには訳がわからず、聞かれるがままに答えた。
「お母さんが歌っています。お母さんは今は収穫物を売りに出かけてますけど、お母さんがいないときは私が歌っています」
「驚いた……! この辺境の地に、ここまで奏者の素質のある子がいるなんて!」
「そうしゃ?」
アイダはそこでようやく思い出した。
神殿では精霊に感謝を捧げる儀式を常に行い、田畑の管理や生の営みを正しく行えるのだと。奏者がいないというのは、今や死活問題に関わるのだが、領主にすら忘れられたこの土地では、そんな常識誰も知らなかった。
その人はアイダに力強く言った。
「君はぜひともラガート音楽学校に行ったほうがいい! 奏者として歌える曲の幅も増えるし、ご母堂からだけの独学よりも学べるものがある。なによりもここは」
その人はちらりとアイダの故郷を見た。
畑作業こそ行えるものの、どの家も明らかに手入れが施されていない。畑作業をしていれば当然ながら家の管理を行えない、ましてや年寄りと女子供だけでは屋根に登っての修繕作業すらままならない。
この故郷は領主にすら忘れられた土地なのだから、かろうじて若い母娘のおかげで朽ちるのが遠ざかっているだけで、いつなくなってもおかしくないほどに、生の気配のない場所であった。
「……まだ若い君が長いこと暮らしていい場所じゃない。同い年の友達をつくり、いろんなことを経験しなさい。ここじゃできることは年寄りの使いっ走りと農作業だけなのだから」
「はあ……ところであなたは誰ですか? ずいぶんと奏者のことに詳しいみたいですが」
「見たことないかね? 神殿騎士の装束なんて、どこも一緒のはずなのだけれど」
「まあ……! 初めて見ました! もしかして、あなたも奏者なんですか?」
アイダがコロコロ笑うのに、神殿騎士は頷いた。
「私はラガート音楽学校に素質ある子を送る役目を持っているから。ご母堂とよく話し合った上で、入学を決めるといい」
そう言いながら神殿騎士は、なにやら上質な紙の書類をあれこれくれた。アイダはラクスの買ってくる本以外で、つるつるとしてきちんと印刷されてある紙を初めて見て、うきうきしながら「ありがとうございます!」とお礼を言って神殿騎士と別れたのだった。
****
帰ってきたラクスに、アイダは興奮したまま声を上げた。
「お母さん、あのね。今日生まれて初めて神殿騎士に会ったの! その人奏者だったわ! 学校に行って奏者の勉強をすればもっと歌えるようになるって言っていたの!」
「あらあら、まあまあ」
アイダの興奮で紅潮した頬を眺めながら、ラクスはにこやかに笑った。ラクスは学校に通える程度の娘がいるとは思えないほどの美貌を保っている。その美貌で何故この辺境の地で娘とふたり暮らししているかはわからない。多少日焼けはすれどもそばかすひとつない肌、アイダと同じ黒い癖毛は三角巾でひとつにまとめ上げていた。穏やかな翠の瞳でじぃーっとアイダを見つめている。
「それで、アイダは学校に行きたい?」
「行きたい。私、同い年の友達をつくりたいし、もっと本があるんでしょう?」
「でも心配ねえ。本は古本屋でかろうじて買えるのだけれど、楽譜は高価で古本屋でも相当値が張って手が出せないのよ。アイダは楽譜が読めないけれど、大丈夫そう?」
「がくふ……?」
「曲の旋律を書き記してある本よ」
「ええっと……私は耳がいいから、耳でなんとかする。楽譜の読み方は学校で教えてもらう……」
「まあ、それがいいわね。学校に行ったら、お友達がたくさんできるとは思うけど、どういう学校も知らない文化には冷たいわ。アイダだって村の人たちにさんざんいじめられてたでしょう? 平気?」
「うう……が、頑張るっ」
「うん。さすが私の娘。最後に、だけれど」
そう言いながら、ラクスは歌を歌ってかまどに火を点けながら、鍋に残っているスープを温めはじめた。そして、天井を指差した。それに不思議な顔で、アイダもラクスの指差した天井を見上げる。古びた家は年寄りと女子供しかいないこの地では修繕ができず、嵐の日にはガタガタガタッと隙間風が吹きすさび、家ごとガタガタ揺らす。
その天井を指差す意図がわからず、思わずアイダは振り返ると、スープをおたまでぐるりとかき混ぜながらラクスは口を開いた。
「学校、空の上だけれど行けそう? 迎えには来てくれるはずだけれど」
「えっ?」
「数年前まではたしか地上にあったはずだけど、今は学校空の上にあるのよねえ」
「ええっ!?」
思わずアイダは悲鳴を上げた。
空の上にある学校なんて、この辺境の地で暮らす日常以外を知らないアイダに取って、見たことも聞いたことも……それこそラクスの買い与える本の中にだって……ない話であった。
アイダは驚きつつも、ラクスに訴える。
「空にある学校って……全然想像が付かないけど。行ってみたい」
「そうね。あの学校だったらいろんな人がいるでしょうし……あなたの歌を素敵だって褒めてくれる人だっているでしょうね。あちこちで歌を歌って、お友達を増やしてらっしゃい」
「うんっ!」
アイダは本当にたまたま出会った神殿騎士のことを思った。
(もしかして……空の上から見てたのかしら。ここのことを。森の中にあるから、森の外からだったら見つからないもんね)
アイダは自分を見つけてくれた神殿騎士に、心の底から感謝をしていた。その彼女の嬉しそうに顔を綻ばせるのを、ラクスはじぃーっと見つめていた。
その表情は優しい母親のものと一緒に、何故か冷たい女の視線が同居していた。
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