蒼の軌跡〜仮面貴公子の罠に溺れた囚われの盗人が王になるまで〜
はな
第一章 甘美な罠
1.盗人と仮面の貴公子
しくじった、と気が付いた時にはもう拘束されていた。
屋敷の者たちも知らないだろうと思われる隠し通路から、いとも簡単に侵入は出来た。出た先はほんとうに小さな隠し部屋。巧妙に隠されたその部屋を出ると、普通の小部屋になっている。そこで人の気配を伺っていた時に二人の男に踏み込まれた形だ。
部屋の外から足音などはしなかった。そう、まるで忍び込まれるのをずっと待ち構えていたかのように音もなく、あっという間だった。
盗みに入ったのは、フランセス王国の王子の屋敷。単身潜り込んで上手く行くと考える方が悪かったのだ。
とはいえ、この王子は
床に両膝をつかされ、容赦なく後ろ手を縛り上げられる。その痛みにうめき声を上げた。
「その汚い格好……物盗りか?」
冷え冷えとした声が頭上から降ってくる。それには答えず、頭を巡らせる。
違う、こんなはずではなかった。この屋敷は様子がおかしい。なぜこいつらは、まるで待ち構えてでもいたようにここにいる?
「ユーリさん、こいつどうします? 地下牢にでも放り込みましょうか?」
「そうしたいところだが、一応殿下にお目通りしていただこう。あの方も最近ここいらをちょろちょろしていたネズミに目を光らせていたからな」
「なっ……」
「お前だろう、汚いネズミめ。詰めが甘い素人が」
ユーリと呼ばれた方の中背の男が侮蔑の籠った視線を走らせた。あっと思う間も無く、彼の履く硬い靴底が上がり蹴り下ろされる。
「がはっ……」
容赦なく太腿に入った打撃に悶絶し床に倒れ込む。脳天まで届くかのような痛みを手でさすって誤魔化すことも出来ず、情けなく身体を丸めた。
「無様なことだ」
ほおにかかる赤茶の前髪の間から、ユーリの冷えた瞳が見下ろしてくる。
「立て」
唇を噛み締める。まさか自分がこんな目に合うとは。
「その足は使い物にならないのか」
ユーリが吐き捨てると同時にまた足を上げた。硬い靴底が勢いよく腰に入り、悲鳴を上げる間もなく後ろ手に縛られた指を踏みつけた。
「ああぁぁ……っ……ぁ」
あまりの痛みに息が詰まる。体重をかけられて潰れた指から刺すような痛みが脳天まで駆け上がり、脂汗が全身に吹き出した。
「ユーリさん、あまりやりすぎては……」
「盗人に同情などいらぬ」
「しかし」
「……仕方ない。骨を折られたくなくばさっさと立て」
踏まれていた指が解放される。しかし、痛みでぴくりとも動かすことが出来ない。折れたのだろうか。
しかし、このままでは一方的に痛めつけられてしまう。立たなければ。
「はぁ、はぁ……ぐ……」
歯を食いしばり、うつ伏せの状態になる。額で体重を支え、腰を浮かせて足をなんとか身体の内に折り曲げた。
自分が盗人であるという事実を置いても屈辱的な姿だった。姿勢を支える事が困難で体幹が揺れる。ありったけの力を腹筋に込め、なんとか上体を起こした。痛みに耐えつつよろよろと立ち上がる。
そっと視線を巡らせると、ユーリに睨み付けられた。歳は三十くらいで、パッと見は細い優男風だ。それもそのはず、彼は武装しているでもなく、着ているものもごく普通のシャツとズボンだ。
もう一人の男は歳若く、そんなに恵まれた体型ではないものの引き締まった肉体が目に見える。普段から鍛えている者の体つきだ。
「これからシルヴィエ殿下のところへ引き出す」
「シルヴィエ……殿下……?」
この国の者なら知らぬ人はいない、その名前。王となるべく生まれ、育てられ、そして堕とされた悲劇の王子。
「暴れるなよ。言っておくが、私もこのアルバートも武術の心得がある。お前では敵わない」
「……わかった」
この二人に敵わないのは、呆気なく捕まってしまった事で思い知った。二人がかりの奇襲だったとはいえ、抵抗する間もなかったのだ。あの無駄のない動きは手練れだ。
「アルバート、こいつを頼む」
「はい」
アルバートが後ろに回り、結ばれた手首を握った。踏まれた指に触り痛みでまた脂汗が噴き出る。
「ついて来い」
冷たく言い放ち、ユーリが背を向けて歩き出す。後ろから腕を押され、慌てて一歩を踏み出した。
(あいつが持っているのか……?)
だとしたらまだ奪えるかもしれない。なんとか隙を見つけて、とにかく手に入れなければ。
長い廊下を歩き、曲がり、やがて屋敷の出入り口へと出る。そこには中央階段があり、その階段の上を見上げ息を飲んだ。
そこに見たのは、光だった。後光が差したかのような輝く長いプラチナブロンド。胸元にたっぷりとフリルのついたシャツに、一目で王子シルヴィエだとわかる青を基調とした豪奢な刺繍のベストを着ている。
そしてなにより目を引くのは、額から鼻までの顔上半分を覆うアイマスクだ。仮面の貴公子と呼ばれる王子シルヴィエの象徴。なんの装飾もないアイマスクだが、それが異様に似合っていた。
「殿下」
ユーリが階下から礼を取る。
「先ほどアンリエッタが教えてくれてね。ネズミを捕まえたんだって?」
とんとんと軽快な足取りで階段を降りてくる若い男。アイマスクのせいで表情はよくわからないが、見えている口元はゆるく弧を描いている。アイマスクの中の瞳は、澄んだ青。背は自分よりも大きい。年齢は二つ下の二十三歳。
どこかふわふわとした印象を与えるのは、少しだけ高く緊張感のない声のせいだろうか。
(この声……)
記憶が胸の中に溢れかえる。
「ネズミは君かい? たしかに汚れているね」
ふふ、と笑った男が一段上で立ち止まる。
「なにか盗みに来たのだろうけど、生憎、あげられるものはなくてね。まあ、この衣装でも身ぐるみ剥がすならあげてもいいけど……裸になると私が困るなぁ」
わざとらしく困ったように左手をあごの下に当てる。その中指がキラキラと輝いた。
「————ッ‼︎」
そこにあったのは、小指の爪ほどの大きさがある、青緑に輝く宝石の指輪だった。伝説の、
思わず目が吸い寄せられる。その視線に気づいたのか、男が首を傾げる。
「ん? あぁ、これが欲しかったの? たしかにここで値打ちものはこの指輪くらいだね。でも、これは渡さないよ」
口角を上げ、男の瞳の青が輝く。
「これは正統な王が代々受け継いで来た、フランセス王国国王の証だ」
「ああ……」
知っている。だからこそ盗み出しに来たのだ。
「君も知っているだろうけど、現王は簒奪者だ。病の床に伏せる王を
不治の病で余命いくばくもなかった先王。それを襲ったのは、先王の異母弟だ。
「ただ奴らが誤算だったのは、発表こそまだだったが、弑逆の前に指輪が王子へと受け継がれていたことだ。その記録は公式発表を前に方々へと伝達され記録されていた。皆、正統なるアルセーヌ王を支持していたからね。弑逆を知るやいなや、指輪はすでに受け継がれていると触れ回ったくらいだ」
指輪を自分へ継承しろと迫り、それが出来ないとわかると逆上して殺した。これは王の側にいたシルヴィエの母が証言している。病床の義兄を襲うなど人道から外れた鬼畜の所業だ。
「だから王子は生かされた」
「そう。現王の娘と婚姻させれば正統な血を継ぐ者の一族として認められるから」
胸糞悪い話だ。それが今や罪人として軟禁されているなど。
罪人なのは、簒奪者である現王なのに。
「でも私が王に相応しくない罪人となれば、それを理由に奪えるわけだ。だけど渡さない。渡すくらいなら壊してやる」
力強く宣言し、彼は愛おしそうに瞳を細めて指輪にキスをする。
「アルバート。そのネズミくんを解放してあげなさい」
「えっ……、しかし」
「いいから。君、私を傷つけないよね?」
「……もちろん」
訳がわからないが、これはチャンスかもしれない。解放されなければなにも始まらない。捕えられてしまえば一巻の終わりだ。
今は手が使い物にならない。しかし、全てのチャンスは今つかんでおかねばならないのだ。
「だそうだ。ユーリ、君もいい?」
「殿下がそうおっしゃるなら。アルバート」
「はい」
アルバートの手が離れ、縄を引っ張り出す。その度に手に走る痛みに顔が歪む。
やがて解放された腕を前に回した。動かすたびにいろんな場所が痛む。
目の前に両手を持ってくると、右の薬指と左の小指の様子がおかしい。あきらかに腫れ上がっている。それを目にした途端、痛みが増したようで歯を食いしばった。
「酷くやられたんだね。私の臣下が悪かったね」
なんとも答えようのないことを言いつつ、彼はアイマスクの紐に手をかける。
「私は現王の王妃をこの美貌で誘惑したことになっていて、マスクを外すのは許されていないのだけど」
頭の後ろで結んでいた紐をほどき、アイマスクに手をかける。
「軟禁されている今となっては、まあ、外から見られないならいいかな」
ゆっくりとマスクが取り去られる。
美貌、そう言われて頷かないわけには行かなかった。天使でさえ、これほど美しくはなかろうと思われるほど神々しい。プラチナブロンドと青い瞳は、この国では珍しくもない一般的な色だ。自分も例に漏れず同じ色を持っている。
それなのにこの圧倒的な違い。まさしくそこに居たのは王たる者の美だった。
「私は、シルヴィエ・ド・アルセーヌ。フランセス王国国王の正統なる血を継ぐ者だ」
自然と足が折れた。片膝を付き、首を垂れる。それほどの力があった。
悔しいが、シルヴィエという名がこれほどまでに似合う男はいないだろう。
「君の名は?」
「……マルセイユ」
喉の奥に声がこびりついたかのようにかすれる。
「そう……。マルセイユ。私のことはシルヴィエと呼んで欲しい」
「シルヴィエ……」
「うん。君、そんなに汚れて盗人をしているくらいだから行く場所もないんだろうね。ここで良ければその傷が良くなるまで居るといいよ。その手はすぐに診させよう」
「どうして……。その指輪をまた盗もうとするとは、思わないのか」
ぼうっとした頭でそう口に出し、しまったと唇を噛む。
あまりにもシルヴィエが自分を疑わないことで、逆にチャンスを潰してしまうなど。自分はなんとしてでも、あの指輪を奪わなくてはならないのだ。
もしもの時は、その指を切り落としてでも。
「奪おうとするだろうね。でも奪わせないよ。ふふ……」
なにがおかしいのか、シルヴィエが楽しそうに笑っている声が降ってくる。
「顔を上げてみて」
言われた通りに顔を上げる。すると、目の前に身をかがめたシルヴィエの美しい顔が近づいて来た。彼の両手がマルセイユのほおに触れる。
今手を伸ばせば、指輪を奪える。そう思うのに、毒気が抜かれたように動けない。宝石のように美しい青い瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「君も綺麗にしたら美丈夫だと思うな。その髪も汚れているけどプラチナブロンドだね。いいねお揃いだ」
細い指先が、汚れも
「手当てをして、綺麗になったら話をしよう」
にっこりとほほ笑んだシルヴィエの手が両頬を包み、その唇が額に触れた。
「なッ————」
「お詫びだよ。ユーリ、後は頼んで良いかい?」
「はい、お任せください」
「ありがとう」
シルヴィエはさっと身を引き、再びアイマスクを付けた。そうして、颯爽と身を翻して階段を上がって行ったのだった。
* * *
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