第7話 月の道行き(1)
百々目さんは私が泣き止むと車を動かし、ボコボコ道を進み、川を越えて、山を越えた。そうして行き着いた先は、高い木々に囲まれた煉瓦造りの建物だった。
「どこ、ここ」
「俺んち」
「はぁ……?」
彼が扉を開ける前に建物の中から扉が開かれた。
そこから出てきたのは豊満な体つきをした妙齢の女性だ。真っ赤なアイシャドウ、金色の唇、天まで伸びそうなつけまつげ、まるでそのままショーにでも出そうな出で立ちの彼女は私の隣の男に手を広げる。
「Welcome back, sweetheart.」
「I'm back ,are you good?」
彼女のハグを受け止めた彼がゲラゲラ笑う。ふくよかな体に顔を埋めて馬鹿みたいに笑う。そして彼女もまた彼の髪をぐしゃぐしゃ撫でてゲラゲラ笑う。ゲラゲラ、何がおかしいのかというぐらい笑う。
彼らからは満開のバラの匂い。クラクラするほどのその香りが異世界に迷い込んだような錯覚を覚えさせた。
「Who's the girl?」
不意に彼女が私を手で品よく示した。それでようやく彼は私を思い出したらしく、振り向いた。彼は豊満な彼女の二の腕や腹を撫でながらニヤリと笑う。
「さぁて、みどりちゃん、この建物内には共通言語として英語が採用されてる。だから俺は基本的に英語で話すが、拗ねるなよ? あとこの辺一体ではスマホはカメラとしてしか使えねえが、録音、録画、その他もろもろ禁止だ。電源切ってくれ」
まるで舞台の始まりだ。
私は大人しくスマホの電源を落とした。でもスマホがないということは翻訳アプリも使えない。
「……分からなかったら、都度聞いてもいい?」
「もちろん。日本語話せる女もいるから、そいつに聞いてもいい。ようこそ、我が家へ」
彼はそう言うと、豊満な彼女と共に扉を開く。
――中は別世界だった。
「美術館……?」
「In English please, madam?(英語でな、お嬢ちゃん?)」
「え、……アメージング……」
入ってすぐに天井の高さに驚く。ゆうに五メートルは超えるだろう。中は間切りがないからか外から見た建物よりも広く見える。そしてその広い空間に置かれているのは美術品だ。どこかで見たことある絵画やどこかで見たことある彫刻が整然と並べられている。
天井にはシャンデリアだ。細かい花模様が入ったガラス細工と無数の電球が組み合わさってできているシャンデリアは、派手さはないけれど可愛いし、おそらく値段も高い。
「All the works on this floor are counterfeits. However, it is highly valuable.」
「へっ? へえ? なんて?」
振り返ると、入り口の扉の装飾が表と異なっていた。表はごく普通のものだったのに、こちらは一人の女性が髑髏を膝にのせて祈りを捧げている彫り物が入っている。多分、聖母マリアとかだろう。よくわからないけど……。
「Come in.(入れよ)」
「エァッ、ハイッ!」
足下は大理石、コツリと足音が鳴る。目の前には、長年の夫婦のように連れ添って歩く男女。彼女の歩き方や肘から年齢を感じるが、彼女が彼を見上げる瞳は恋をしているものだ。
(もしかして、この人が百々目さんの本命の彼女なのかな)
だとしたら好感度が上がる……などと失礼なことを考えていたら、彼らは一つの絵画の前で止まった。それから振り返り、私を手招きする。小走りで彼らに近づくと、彼女の赤い唇が開き、話し始める。
(……全く聞き取れない)
ゆっくり話してくれてるのはわかるのだが、発音の癖が強く文章として聞き取れない。
彼女が話し終わってから、私は百々目さんを見上げた。彼は『どした?』という顔で私を見下ろしていた。
「I'm sorry, could you speak again?(ごめんなさい、もう一回いい?)」
「In English or in Japanese?(英語、日本語?)」
「……in Japanese,please……(……日本語でお願いします……)」
彼はまず彼女に『この子、ヒアリングがまだ得意じゃないんだ。彼女の母国語で説明するが、今さっき君が話してくれたことだから内輪で盛り上がってるわけじゃない』みたいなことを英語で説明し、彼女が納得してから、私を見た。
「『つまり』ここは、駆け込み寺なのさ」
「何がどう『つまり』……?」
「この絵を見ろ」
彼の指した目の前の絵には一人の男性と一人の女性が描かれていた。男性は座っており、その男性の足を彼女が泣きながら口づけている。彼らの背後には光り輝く十字架があった。
(何の絵……?)
よく分からず彼を見ると、彼の顔は『あんた、まじかよ』の顔だった。
「この絵はキリストと罪深い女だ」
「あ、……宗教画ってことね」
「そこからか? あとで俺の女紹介するから、一回案内してもらえ。キリスト教に限らずだが、モチーフを知らないと絵の価値は半減する。……これはな、ルカの福音書七章の場面だ。マァ、……いいや、とにかくだ」
彼は絵のキリストの足に触れた。
「この家には傷ついた女たちが住んでいる。俺は彼女たちを何においても愛している。だから……彼女たちに無礼を働くなよ」
彼は絵を押した。すると、パチン、と妙な音が立つ。それから足元が、ボコン、と音を立てた。
「つかまってないと落ちるぞ」
彼が私たちを抱き込んだ。突き飛ばしたくなったが、同じように彼に抱き込まれている彼女に老婆特有の優しい微笑みで「Little girl.(お嬢さん)」と諭されてしまったので、大人しく彼の腕の中に収まる。
ガコン、と足元が動いた。
「えっ」
私が立っている床と絵が、飾られている壁ごと『上っていく』。バコン、と音を立てて天井に穴が空いた。私たちはその穴を通って天井の上、つまり二階に上った。
「スパイ映画なの……何なの?」
そして着いた先はまた、別の世界だった。
「和!?」
そこは日本家屋の玄関だった。
あがりとがあり、その先には木張りの床の廊下がある。しかも廊下の両面は障子の戸だ。さらに大きめの松が飾られている。
(ハリウッド映画に出てくる、なんかちょっと間違えた日本家屋っぽい……)
「Take off your shoes. (靴脱げよ)」
「あっ、はい!」
彼があがりとに立つやいなや障子が開き、年齢も見た目も服装すら問わず、様々な女性がわらわらと顔を出す。
(包帯とかガーゼとか……怪我してる人多い……?)
どの女性にも何かしらの治療痕がある。どれも外傷を治療した痕に見えた。
(傷ついた女性って……もしかして、暴力で……?)
私が隣の百々目さんを見上げたとき、彼は笑顔で「This is Hibiya's girlfriend.(これは日比谷の彼女だ)」と私を指した。私が頭を下げると、ようやく彼女たちは安心したように部屋から出てきた。
「Fat Mama,when did you go out!?(ファット・ママ、いつ出たの!?)」
「Yu! Welcome home!(優! おかえり!)」
パッと見ただけで十人を超えていた。そしてまだ奥からも人が出てくる気配がある。
(いやいや、何人いるの……? というか子どももいるの?)
その中でも最も若そうな女の子が私達に歩み寄ってきた。勝ち気そうな表情とへそ出しルックにへそピアス、赤毛をポニーテールにした、ツンとした鼻が可愛らしい十四歳ぐらいの子だ。彼女は、左目を眼帯で隠していた。
彼女は私を『何、この女』と言いたげに一瞥してから、隣の百々目さんに満面の笑みでとびついた。
(なんか今、敵視された?)
「"The Return of the King!"(『王の帰還』!)」
「Am I Viggo? (俺がヴィゴってか?)」
「No way! My dear lovely kitty!(そんなわけないっしょ! 私のお気に入りのマブにゃんちゃん!)」
彼女は私には見向きもせず、全身で百々目さんに甘えている。百々目さんは彼女を左腕で抱き上げながら、他の女性たちも右腕でハグをしていく。彼女たちはみんな嬉しそうな顔だ。そして彼もまた嬉しそうだ。久しぶりの帰宅なのだろうか。
(……そういえば、普段はデトロイトにいるって聞いていたような……ニューヨークからデトロイトってどのくらいあるんだろう……)
靴を脱いであがりとをのぼると、一緒に来てくれていた妙齢の女性が私の右手を握ってきた。意図がわからないが、彼女は笑顔だ。とりあえず合わせて微笑もうとして、紫貴の言葉を思い出した。
――よくわかってないのに、そういう顔してると危ないよ
私は握られた右手を見てから、彼女の顔を見る。とても穏やかな、自分の祖母のようにすら思えるぐらい愛のある顔だ。
――彼女たちに無礼を働くなよ
私は、結局……微笑んだ。彼女は更に嬉しそうに笑うと、当たり前みたいに私を抱きしめた。それから彼女は女性たちに向かって声をかけた。
「Miko, tell her about Momoko.(ミコ、彼女に桃子のことを教えてあげて)」
彼女の言葉に赤毛の娘は「No. 」と言った。しかし彼女の後ろから出てきた黒髪の無表情の女性は「Sure as heaven. (わかりました)」と答えた。赤毛の娘は「Miko!!」と叫び、早口で何かをまくしたてる。
(彼女がミコ、さん? モモコって……誰のこと?)
彼女は赤毛の娘を無視して私の前にやってきた。
「私がミコ。
「あ、市村です。市村みどり。みどりはひらがなです」
私と握手を交わしてから、彼女は赤毛の娘に何かを囁く。すると、赤毛の娘は顔を真っ赤にして走り去っていった。
「あの……」
「いいの。あの子は調子に乗りすぎ。来て」
彼女が歩きだしてしまう。良いのだろうかと百々目さんを見ると、彼はヒラヒラと『とっとといけ』と手をふった。
(……どの道、一人では帰れないのだし……)
私はミコという女性に続いて、更に不思議の家の奥へと足を踏み入れた。
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