第6話 語りし闇(2)
紫貴との暮らしは気遣いと優しさと愛で満ちていたのだと今になって気がつく。つまり、――
「は? なんでこんなクソ不味そうな肉食わなきゃならねえんだよ。魚のがまだまし。Hello,Can you clean this mackerel?(なあ、これ捌けるか?)」
「今日は豚肉食べたかったの! ちょっと……!」
「Can I look else? ...Thanks. I'll be back later.(他見てていいか? ……どうも、あとで戻る。)……スーパーでギャアギャア騒ぐんじゃねえよ、チワワちゃん。俺のしつけが疑われるだろ」
「コッ、ナッ、クッ……」
「お。ケーキ食おうぜ、美味そう。あ、薔薇だ。お前らの家って花瓶あるか?」
「勝手にぽいぽいカートに入れないで!」
――この男には気遣いも優しさもない。愛なんてもちろんない。だからこいつは人の話を聞かずに好き勝手に進める。しかも――
「うわ、つけられてるわ。ボコしてくるから、お前そこにいろよ」
「ちょ、……え、……うわ……」
「……ただいまー、何だその顔。日比谷もやってただろ?」
「するわけないでしょ、本当に怖いんだけど……」
「してるっつーの、絶対。お前が気がついてないだけ」
「逆に聞きたいけど、そんな野蛮なことを彼氏がしてて、気が付かないことあるわけなくない?」
――道端でいきなり人を殴って来たりする。しかも、そのぐらい紫貴もやるとか嘘をついてこちらの不安を煽ろうとしてくる。そうまでして別れさせたいらしい、最悪の性格。その上――
「お前の包丁の持ち方、なんなの。指切りたいわけ?」
「放っておいてもらえますー? 切ったことないんでー」
「見てる方が怖いんだよ。チワワちゃんにはネコちゃんの手は難しいのかなァ?」
「出来ますけどぉ!?」
「出来るんなら最初からやれ、馬鹿」
「馬鹿って言った!!!!」
「手元見ろ、馬鹿!!!!」
――いちいち人のやることに文句をつけてくる。挙げ句の果てに――
「死んで、変態!」
「マフィア相手にいい度胸だな、お前」
「マフィアなら他人の下着を丁寧に手洗いして干すな! エプロンつけて家事をするな! 出てって!!!」
「お前が『下着は手洗いだから勝手に回すな』つったんだろうが。ほら、他にもあんならとっとと……」
「関与するなって意味よ、馬鹿!」
――プライバシーという概念がない。
ついでに何故紫貴に家事能力が一切ないのかの謎も解けた。この人がいれば生活力ゼロでも生きてこれたのだろう。家事もそうだし、食卓の花もそうだし、部屋の温度設定もそうだし、生活用品さえも気が付いたら補充されている。
(この人が甘やかしたせいで、紫貴は何もできないのね……。もう、ばか! なんで連絡もつかないのよ! もう! もうー!!! なんなの! 声だけでも聞きたいのに、紫貴! 何してるのよ!)
二日で私はこの同居に限界を迎えていた。が、おっさんは何も感じていないらしく、三日目の朝に「つーか、なんもねえな、この街。飽きた」と言い出した。
「じゃあどっか行けば? そのまま帰ってこなくて結構です」
「俺がここにいるのはあんたを死なせないためだぜ? 俺が側にいるだけであんたを襲うことの意味が『日比谷への嫌がらせ』じゃなく、『俺たちへの宣戦布告』になんの。で、そこまでするやつは今はいねえから……」
「私も紫貴も襲われた事ない。余計なお世話よ」
彼は、ハ、と息を吐いて笑った。
「とっとと化粧して、そのみっともない眉毛をどうにかしろ、ブス。出掛けるぞ」
あまりの暴言に私は唖然とした。
(この輩……打ち首獄門に処すぞ……)
しかし暴言を吐くおっさんの顔は、不本意なことにイケメンに属しているのだ。私は怒りに打ち震えるしかできない。
「……ブスじゃないもの、紫貴は美人って言ってくれたもの……イツカ、カナラズ、ショス……」
「はっきり喋れ」
「嫌いよ!!!!」
「俺も愚図は嫌いだ。とっとと動け」
絶対にこんなおっさんと出歩きたくなかったけど、このおっさんは話を聞かないので強制的にそういうことになった。私はおっさんに首根っこ掴まれ、ニューヨークに渡った。
「運転、荒すぎなんですけど……」
「はぁ? 運転してもらっといてな、お礼も言わないなんてな、今までどんな教育をだな……」
「ありがとうございました! さよなら、バイバイ! 私はニュージャージー大好きだからもう帰るわ! フェリーで!」
「ハイハイ。行くぞ、チワワちゃん」
「掴まないでよ、変態!」
紫貴の運転はボコボコ道路ですらいなす優しい運転だけど、おっさんの運転はスピードしかない。紫貴はいつも着心地の良さそうな黒い服装を好んでいたけど、このおっさんは家事の時でさえスーツを着てる。紫貴は手をつなぐ時でさえ気を使ってくれるのに、おっさんは勝手に人の手首を掴んで大股で歩き出す。
この人といると紫貴が恋しくなるばかりだ。
(もう、やだ……)
しかし私にマフィアに逆らう力などあるはずもないので、彼について早足で歩いた。連れて行かれたのは煉瓦道の通りだ。
「この辺は日比谷は来ないから、お前も来てないだろ?」
彼が私を連れてきたのはマンハッタンのダウンタウンで、たしかに紫貴と来たことはない街だった。建築物も中心街とは異なり、古く、美術館のよう。空気も中心街よりはきれいだし、治安もそこまで悪くなさそうだ。写真を撮りたい気持ちにはなったが『おのぼりさんかよ』とおっさんに思われたくなかったので、『全く興味ないわ』という顔をする。
「ここ、どこなの?」
「ソーホー。女はみんな行きたがるところだ」
「『女だから』なんて前時代的すぎ」
「フゥン……マア、有り体に言えばな、俺は美術館は嫌いなんだ。どれもこれも手に入らないからな。ここは手に入るアートの宝庫、要するにショッピング街だ。物欲皆無の日比谷とじゃ、つまんねえ街だな」
たしかに紫貴はショッピングが苦手だ。
例えば私が古着屋でパーカーを買うか悩んでいる横で『早く終わらないかな、もう俺が買うのに』と言う顔をする。でも私が感想を聞けば、『脱がしやすそうでいいと思う』となんとかひねりだして、答えてくれるのだ。
(そう、紫貴は努力してくれてるもの! だから、不満はない……でも、……)
でも、紫貴が楽しめないならいいやとスーパーにしか行かなくなった。観光もしなくなった。あの部屋で紫貴と二人きりでいいやと思うようになった。親や友人にも連絡を取らなくなり、……穏やかな毎日だった。
そのことになんの不満もない。
(ない……はずだけど……)
この二日、紫貴の声を聞いてない。それだけで日々から色がなくなってしまう。とても寂しくて、とても不安で、とても怖くなる。
そんな中、このおっさん。
嫌なやつだし、大嫌いだし、ぎゃあぎゃあうるさいし、ムカつくおっさんではあるけれど、買い物一つとっても心底どうでもいいと思っている紫貴と比べると張り合いがある。
「ほら、行くぞ、ワンちゃん」
「本当にいずれ殴る……」
とはいえ、このおっさんのせいでかかってくるストレスは段違いなので早めに消えてほしい。そんなことを思いながら、掴まれた手首を見る。彼の手は熱いぐらいだ。
(こんなところも、紫貴と違う)
彼からする香水の香りは紫貴の甘苦いものよりも軽く、この海の街に似合う潮の香りがする。その軽やさかと爽やかさは、悔しいがこの人に似合っている。おっさんではあるけど色男には間違いないのだ。だからこそ、より嫌いだ。
(……こんな人に預けてもいいと思われてるのは、私への信頼の証じゃない。きっと紫貴は……私よりこのおっさんを信じているのね……)
不意に彼が止まった。
「この店、可愛いんだよ」
そこはジュエリー専門のセレクトショップだった。外観のベースは深い焦げ茶色、各所が金で装飾された、シックでシンプルで高級感がある店構えだ。その金色の取っ手をひねって、彼が扉を開ける。
「ここの指輪可愛いから好きなんだよな。ほれ、これもここのやつ」
彼の左手の小指にハマっていたのは『M』と筆記体の刻印の入ったリングだった。少しくすんだゴールドのリングのモチーフは蝋印のようだ。大きすぎないデザインはシンプルで可愛い。
いや、よくよく見たら、めちゃくちゃに、可愛い。
「えっ、可愛い……」
「なー、可愛いよなー、アメリカのいいところはサイズ展開が豊富なところだな」
「たしかに……え、可愛い……えっ……」
フラフラと店内を見渡す。
華奢なものから派手なものまで、全部可愛いのだ。おっさんは後ろから「いいだろー?」とのんきに問いかけてくる。
(一万円ぐらいのもある……え、お手頃……)
「こういう店たくさんあるぞ、この辺。嬉しいだろ?」
反論しようとしたが、もう胸はときめき始めていた。
「可愛い、ムカつく、可愛い……可愛いんだけど!」
逆ギレしながら背後のおっさんを振り返ると、彼はニヤァと笑った。
「日本帰るなら好きなだけ買ってやるけど?」
「黙って死んで」
「ケケケ。ここのものは一期一会だぞ、どうすんの?」
私は頭の中の貯金表を取り出した。
「……シンプルなリングセットなら買えるわね、よし……」
「俺のみたいにモチーフ付いてる方が好みなんじゃァないの?」
「うっさい、おっさん、ばか!」
「ケケケ」
意地悪く笑うおっさんを無視して、私は店員さんに指のサイズを測ってもらった。それから悩みに悩んで、シンプルな三連のリングを右手の人差し指のサイズに合わせて購入した。
(可愛すぎる)
写真を撮って、紫貴に送る。既読にもならないから、とても忙しいのだろう。でも送っておいた。
(帰ってきたら見てもらおう。可愛いねって、紫貴はきっと言ってくれる)
次に連れて行かれたのは日本には展開していないおしゃれな服屋さんだった。ひいひい言いながらワンピースを買ってしまった。で、その次はランチにネパール料理。アメリカに来てまでと思ったけど、店は綺麗だし、値段は良心的だし、何より久しぶりのガッツリスパイス。美味しくて泣きそうになるぐらいだった。
ランチの後は街歩き用に買ったラテを片手に煉瓦道道を闊歩する。この足音の響きさえ楽しい。私の手首を掴むおっさんが振り返り、ニヤニヤ笑った。
「隠居老人みたいな生活にはない刺激だろ?」
「隠居老人じゃありません! 私達は毎日平和に……」
「なあに? 今日は楽しくねえってか?」
「……楽しいですよ!」
おっさんは私の答えにゲラゲラ笑った。
「素直なのはいいことだぜ、『お嬢ちゃん』」
「その呼び方やめてください」
「『パピーちゃん』?」
「殴りますよ」
「拗ねんな。だからガキなんだ。次行くぞ」
「エ、ちょっと、……!」
彼は私の手首を引っ張って車に戻ると、海沿いのジャズバーに連れて行ってくれた。紫貴も弾くことがあるお店らしい。彼はジンジャエールを頼むと、私にカクテルのメニューを渡してきた。
「飲めるんだろ。日比谷が飲まねえからってあんたも飲まないでいる理由はないぜ?」
「昼間から……」
「飲まない理由はないだろ? 俺相手に使う気なんかもってんのかよ、『お嬢ちゃん』。……俺様に惚れたわけでもねえよなぁ?」
「飲みます!」
カッとなって、「マンハッタン!」と注文してしまった。彼はゲラゲラと笑い、店員さんはくすくす笑った。結局、久しぶりに飲んだお酒は――
「……おいしいわ」
「なんで不満そうなんだよ」
そんなの理由は一つだ。
「今日のお店、全部、紫貴と来たかった……」
おっさんはゲラゲラ笑い、私は半泣きになった。
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