我鳴キ物譚
ろいひ
第1話 キ物
積み重なる汚れたビルの狭間を駆けていた。
なぜ
おそらく脚があるからだ。そして追う影があるからだ。
影は二つ。
一つは長身痩躯の黒衣の男。凄絶な色香をまとう
もう一つの影は少年。特徴に乏しくぱっとしないが、少女のように整った顔をしている。つぶらな眼は
卓は裏道から表通りに出る。並ぶ屋台と立ち食いをする人々。
大半は卓を避けたが、盛大にはねられる者も出た。泡を吹いて店先で伸びた客の様に、粥屋の店主が怒声をあげる。
「チェン! リャン! このイカれども‼︎」
卓を追う男が足を止める。
「お前らの物追いで客がこのザマだ! 商売の邪魔だ! どうしてくれる!」
男──チェン──は艶やかに笑う。
「お客様の懐をまさぐりなよ。きっと財布があるからさ。財布を盗ったら路の端にでも寄せとけば?」
チェンの
白けた目でその様を見届け、チェンは卓追いに戻る。
ここは
この街では『物』は動く。動く『物』は“キ物“と呼ばれる。
◼︎──────
『物』は黙々。限界がくれば物言わず壊れる。対して『生物』は「壊れる前に疲労を感じる」という防御機能がある。
息があがりはじめた養父にリャンは尋ねる。
「諦める?」
チェンは首を横に振った。
「
「でも、あいつ速いよ」
卓は速度を落とさず駆け続け、人の親子と距離を空け始めていた。
「『走る』のは卓の用途じゃないのだけどなぁ……」
ぼやくとチェンは、卓追いから外れ適当なビルに入った。ややすると、木製の椅子を担いで戻って来る。
「どうしたの、それ」
「拝借したよ」
「持ち主は?」
「寝てもらったよ」
チェンはリャンが担ぐ鉄の投網を受け取り、椅子を持たせる。
「お前だけなら追いつけるだろう? 卓の『用途』はわかっているね?」
「うん」
頷くとリャンは椅子を抱え、息を整え小さく跳ねた。次いで、韋駄天がごとき速さで駆け始める。
奇異な生まれのリャンは自身を『物』と認識している。それが故か『物』の扱いに秀でていた。特に自身の肉体という『物』の扱いに長け、必要に応じて身体能力を高めることができた。
「さて──」
遠くなる卓とリャンを見ながらチェンは思案する。子供だけを働かせるほど腐ってはいない。
現在地を確認し、頭の中に付近の地図を描く。幅のある卓なので、極端な峡路は通れない。となると逃走経路も絞りやすい。
容姿以外は凡庸なチェンだが、無法の街で生き延びる程度の狡猾さはあった。商いをしているから、人並み以上に街の情報も集めていた。
チェンは側の錆びた階段の上──歯科を眺めた。
「あの歯科の壁を
先回りのルートを考え、チェンは緩やかに走り出す。リャンに任せていた鉄の投網は大層重い。
メスは肉を切るためにある。ドリルは削るためにある。入れ歯は噛むためにあり、歯科標本も『噛む』構造を持っている。
──歯科の道具がキ物化してないといいなぁ──
心底思いながらチェンは歯科に入り、院内を突っ切った。
◼︎──────
キ物は動く。しかし『物』としての『用途』を満たそうとする。
箪笥のキ物は『収容』しようとする。洗濯機のキ物は『洗おう』とする。刃物のキ物は『斬ろう』とする。
そして、『用途』を満たせばキ物は落ち着く。動きが凪ぐ。
チェンが椅子を持ち出したのもこのためだ。
卓には椅子が付き物だ。そして椅子に座った人間が卓に着き、食事・仕事・娯楽・休養に使うのが卓の『用途』だ。
卓に追いつき抑えこむと、リャンは直ぐ側に置いた椅子に座る。卓の上で頬杖もついてみた。卓の動きはぐっと鈍った──が。
「何が不満なんだよ」
暴れ跳ね動く卓を押さえ、リャンはぼやく。
卓は満たされていない。
「ともがらの椅子が側にあって、俺が使っているだろう? まだ不満なのか?」
言って、リャンは思った。この状況は『卓を使っている』うちにはいるのだろうか。
リャンは卓の傍らで椅子に座り『卓に着いて』いる。だが卓の上には何もなく、リャンも頬杖をつく程度しかしていない。
おまけに卓はそこそこ大きく、明らかに一人用ではない。せめてもう一人『卓に着く』人間が必要なのではないか。
どうしよう──リャンは考える。
周りに助けを求めるのは危ない。金をせびられるのも困るし、解体屋に連れて行かれようものなら内臓が減る。
そも、まともにキ物の相手をする人間などそう居ない。事実、通りすがる者は奇異を見る目で卓とリャンを眺め、足早に離れていく。
どうしよう──腕の筋に意識を向け、ぐぐぐと卓を抑えながらリャンは思う。自分一人で状況を打開するのは難しいのではないか。
『物』の扱いはよく心得ている。リャンも『物』だし、養父から『物』の扱いや手入れの方法も習っている。
チェンは物が好きで、キ物を扱う
しかし、眼の前の卓のキ物をどうすればいいかわからない。
──父さんなら、こんな時どうするかなぁ──
思った次の瞬間──ダンッ! と勢いよく、卓の上に
卓を挟んだ対面に座したのはチェンだ。
ぜぇはぁと息をきらし鉄の投網を肩から下ろす。
深く息を吐いたチェンは、
二人の人間が卓に着き、飲食する。『用途』を満たされた卓のキ物は鎮まった。
リャンは酒を飲むチェンを見る。
「俺も喉が乾いているのだけど」
「瓶詰めの飲み物は酒くらい。お前が飲めそうなものは売っていなかったんだ」
「飲めるなら何だっていいよ。それ、ちょうだい」
「お前にお酒はまだ早いのです。あと二、三年経ったらね」
「それ、一昨年も言ってたよね」
まともな説教をする養父をリャンは不満げに見る。
饅頭を口にする。しっとりした饅頭は乾いた喉に詰まりかけたが、美味かった。
◼︎──────
後日、チェンの営む「
脚を戒められた卓の上にはフルコースの食品サンプルが並べられ、傍らには三脚の椅子が添えられている。
卓のキ物は時折動く。
買い手はまだない。
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