アップライト・ピアノを買った日のこと。

はりか

1

 僕の目の前には漆黒のアップライト・ピアノがあった。


 試しにAの音を打鍵してみると、透明感のある鮮やかな音が耳を打つ。


 J.S.バッハのBWV808——「イギリス組曲第三番」で試奏したところ、バッハの明晰な世界が展開できた気がする。


 周囲があっ、とおどろいていた。


 ブラームスやリストやショパン、ラフマニノフといった作曲家をレパートリーとするから、バッハをあまり弾かないせいだ。


「か、柏宮かしわみやがバッハを?」


 パシャ、パシャ、とシャッター音が鳴り、フラッシュがたかれた。


 別に誰が何を弾いたっていいじゃないか、とその発言をした音楽誌の記者を一瞥する。前、てすさびで弾いてたら、真知子まちこさんが聞き入ってたんだ。


 演奏を終えると、僕は「買います」と微笑んだ。


「買います、これ」


 そろそろ真知子さんの誕生日だから、彼女に買ってあげよう、と思った。



 僕は真知子さんの本当の笑顔が見たかった。



 僕自身の所有するアパートではなく、東京の閑静な住宅地にある、日本家屋の極みみたいな実家へと帰る。

 真知子さんが微笑しながら玄関で迎えてくれた。


「お帰りなさい」


 雪のように肌が白く、睫毛の長い、切れ長の冴え冴えとした瞳を持つ彼女。

 黒く艶やかな髪を後ろで束ねて、スカートに白いブラウスに、割烹着かっぽうぎを着ていた。


 兄は「地味な女を妻に迎えた」といって華やかな秘書たちと浮気を重ねているが、僕はそうは思わない。


 僕は頬を染めて「……はい」というと、彼女の脇を通り過ぎた。彼女は僕の上着を受け取ろうとしたが、そんな家政婦みたいなことをさせるわけにはいかないから、すぐに二階の僕の部屋に向かってしまった。無愛想だったかもしれない。


 真知子さんはそんな僕を見て、のを視界の片隅で捉えてしまった。


 あああ、とむしゃくしゃしながら部屋に置いてある楽譜を開いた。


 F.リストのS. 145——「二つの演奏会用練習曲」。第一曲の「森のざわめき」。木漏れ日を思わすこの曲の世界に没頭する。


 僕はピアノ演奏というものを生業にしている不安定なその日暮らしの人間で、最近は縁があってそれなりに稼いでいる。

 真知子さんは由緒正しい家のお嬢様だったのが、政略結婚というもので、僕の兄に嫁いできた。


 兄に嫁いできた白無垢しろむく姿を見た瞬間に、僕は彼女に心奪われた。僕に嫁いできたかのように。


 しばらくして兄は真知子さんに飽きて彼女を見なくなり、別の家で好き勝手に過ごすようになった。

 たまにこの家に来ても彼女に暴力を振るうばかり。

 元々は大した家柄の出身ではない母も「お嬢様」の彼女を嫌っていて、ひどくいじめる。よく彼女が離婚を切り出さないものだと思った。


 いや、切り出せるわけがない。兄の援助がなければ彼女の実家は食べてゆけないのだから。


 彼女はずっと笑顔でいる。でも、その笑顔が本心からの笑顔だとは思えない。


 地獄のような人生を歩む彼女を陰ながら守りたかった。


 今日も演奏会があったモントリオールから帰ってきてすぐ、記者や音楽評論家や様々な人に空港で囲まれ、その足でピアノ店に行き、アップライト・ピアノを買って、彼女の顔を見るために実家に帰ってきたのだけれど……。


 彼女に素直に接することができない。

 接したら接したで、僕の今の気持ち上、まずいのだが。押し倒しそうな気がする。


 

 夕暮れどきになり、扉を叩く音が聞こえた。


「はい」


 返事をすると、真知子さんが扉の向こうから声をかけてきた。


「は、はるかくん……」


 僕は返事に詰まって両手で顔を覆った。録音しておけばよかった。久しぶりに名前を呼ばれた気がする。


「はい」


 ことさら不機嫌な声を出しながら返事をする。陰鬱なロ短調かよ。もう少しまともな音は出せないのだろうか。平和的なへ長調を目指せ。


「お夕飯ができまし」

「アップライト・ピアノを買いました。とても明晰な音が出ます。バッハがよく似合う」


 僕は扉をがらりと開けた。真知子さんがびっくりしている。


「そうですか」


 彼女は他人事のように微笑んだ。

 ここまできて僕は「……ん?」と凄まじい間違いを犯していたことに気づいた。


 真知子さん、ピアノを弾けたっけ?

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