どんな短編小説がすばらしいのか
九月ソナタ
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今回はチェーホフの短編の中で、特に人気のある作品「犬を連れた奥さん」について書いてみます。
「犬をつれた奥さん」は不倫の物語です。
不倫と言えば、時々、有名人の密会などが週刊誌にすっぱ抜かれたりしますが、あれは「現実の不倫」で、こちらは120年前に発表された創作です。
十代に読んだ時には、これって何ですか。チェーホフっておもしろくない、なんて思いましたが、今読むとおもしろいです。
その時、チェーホフは三十九歳。これは彼が結核のためヤルタに保養していた時の作品で、この小説の舞台もヤルタです。彼は四十四歳で亡くなりました。
では、小説のあらすじと感想を書いていこうと思います。〇のところは、私の勝手な考えです。
主人公は四十に近いドミトリー・ドミトリッチ・グーロフというモスクワに住む銀行家です。時は十月頃で、モスクワはもう寒く、グーロフは二週間前から、保養地のヤルタにひとりでここに来ています。
〇彼は大学二年の頃に結婚をさせられて、と書いてありますから、見合い結婚なので、妻は資産家の娘のようです。妻の名前は小説には出てきません。
妻は背が高く、眉毛が濃く、性格も体格も強くて、インテリぶっている女で、子供も三人いますが、彼は妻にも家庭にも、うんざりしています。
それで、グーロフはかなり前からしょっちゅう浮気をし、そのことでは辛酸をなめたりもしたようですが、そういうことはすぐに忘れて、また別の女へと走りました。彼は男といると不愛想なのですが、女性といるのは好きなのです。彼は容姿もよく、女性に対する話し方とか態度などを心得ており、自分が女性にもてることを知っています。でも、彼は女性のことを「下級人間」だと思っているのです。
〇グーロフというのは、実はそういう女の敵みたいな、つまらない、心のない男です。ヤルタに来たといっても、バーで新聞を読んで、お酒を飲んでいて、他の客とは挨拶くらいで、話には加わらない、そんなタイプです。
ヤルタに来て二週間、グーロフは退屈しのぎに、いつも犬を連れて歩いている婦人に目をつけます。
公園でも、海辺でも、いつもひとりなので、連れはいないようなので、よし、遊んでみるのもいいかなと。
〇私が考えるには、プレーボーイには①イタリア男によくみられるマメタイプ、②フランス男のロマンチックタイプ、そして、③ハンサムな人に多いクールタイプがあると思うのですが、グーロフは③タイプで、こせこせはしません。
女のほうはモテルタイプとしては、①見かけが美しいとかセクシー、②話し方や行動が個性的、そして③家庭的というか、男が気がねしなくていいタイプ、があると思いのですが、この婦人は①や②でないのは確かです。この時、彼にとっては誰でもよかったのです。
さて、あるお昼時に、彼女が偶然に隣りのテーブルに来ます。
グーロフは犬をおどしたりして彼女の興味を引き、彼女が「ここは退屈です」と言うと、
「XXの何にもない片田舎の人も、このヤルタに来ると、退屈だ、退屈だと言うのですよ」と言って笑わせます。彼にかかると、まあ、こんなもんです。
ふたりは散歩をしたりして、ある時に関係ができます。
彼女はアンナといい、サンクトペテルブルクの生まれで二十二歳、二年前に地方の役人と結婚したのです。好奇心が強くて、人生はもっと楽しいものだと思っていたのに、夫は上司の顔色ばかり窺っているおもしろくない役人で、アンナはこんなはずではなかったと思っています。そして、ノイローゼみたいになって、ヤルタに休養にやってきたのです。夫は後から来ることになっています。
グーロフは「なんだか悲しいところのある女だ」とは思うのですが、だからといってどうしてあげようとか、そういう気持ちはありません。
アンナはひと月くらい滞在する予定でしたが、夫から、目の病気になったから帰ってこいという知らせをもらいます。
グーロフは駅まで送っていきますが、アンナは「もうお目にかかることはありません」と言いますし、彼もこれで彼女とはおしまいと思います。でも、べつに別れがさみしいということもありません。前に何度も経験したように、この女ともこれでおしまい、と思うわけです。
そして、グーロフもモスクワに帰ります。彼はモスクワでう生まれて育った人ですから、久しいぶりモスクワは楽しく、やはり大都会はいいなあと思います。
ところが、一か月くらいした時、突然、アンナのことがよみがえってきます。そして恋しくてならないのです。夢に出てくるのではなくて、どこへ行っても、アンナがついてきます。
時には、誰かにこの心を話したいと思います。
〇妻にはアンナの話を言えるはずはないのですが、たぶん「ヤルタには田舎臭い女がいて、ついてこられて参った」なんてそんな話をしたのでしょうか。「あなたはプレーボーイのつもりかもしれないけど、そんなの、似合わないわよ」なんてびしっと言われます。この妻はなかなかおもしろそうな人物なのですが、小説の中では、ネガティブなことしか書かれていません。
グ―ロフは知人にアンナのことを告げようとします。でも、その知人が全く興味がなかったので、グーロフは腹を立てます。
〇このあたり、女性遍歴があった人には全く見えません、まるで高校生の初恋ですね。
グーロフはどうしてもアンナに会いたくなり、彼女の住むS市に出かけます。
ホテルの最高級の部屋に泊まるのですが、といってもたいしたことのない部屋で、S市がどんな小町なのかわかります。
グーロフは彼女の家の前をうろついたりして、「こんな塀に囲まれていたら、飛び出したくもなるだろう」と人間的なことを考えたりします。そして、久しぶりに熟睡します。
やがて夜になり、どうしたものかと思っていた時、「芸者」という劇のオープニングのポスターを思い出し、その劇場に行きます。すると、案の定、彼女が現れます。その時、彼の心臓は締め付けられるのです。この小さくて、特別なところのない田舎くさい女のことを、心から愛しいと思うのです。
休憩時間に、アンナが席にひとりになったところをみはからって、そばに行きます。アンナは卒倒しそうになりますが、やっとふたりきりになる場所を見つけた時、「あれからの日々が、どんなに不幸だったか。毎日、あなたのことを考えていました」と言います。
〇ここで彼女がこんなことを言わずに、「帰ってください」と言えば、ことはデ・エンドになるはずでしたが、彼女も大胆です。彼も、もしかして、彼女は他の男を作って遊んでいるのか、なんと妄想したりもしていましたから、その心を聞いて有頂天です。
「私がモスクワに会いに行きますから、今は帰ってください」とアンナは言います。
それから、二、三月に一度、アンナがモスクワにやってきて、逢瀬を重ねます。
〇何度も来たと書いてありますが、この最後の場面のふたりは、初めて逢瀬をする若いカップルのようです。
その朝、ドミトリーは十二歳の娘と雪の道を歩き、学校まで送ってから、ホテルにやってきます。彼はよい父親で、娘の質問にも丁寧に答えます。子供に興味がなかった人ではなかった人とは思えません。アンナとの恋により、人間的になったということなのでしょうか。
ふたりで会った時、ホテルの部屋で、アンナは自由に会えない悲しい境遇に泣きます。
グーロフはふと鏡を見て、想像以上に老けている自分に気がつきます。
しかし、アンナは若い。そんな彼女はどうして、こんな自分を愛してくれているのだろうか。
彼はこれまで誰をも、愛したことがなかったことに気がつきます。
グーロフは初老になった今、初めて、人を愛したのです。
続きます。
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