西暦二〇二五年


「さるのばけ、だよ」

 菅野老嬢がふと言った。鮠川と二人して床へ直接座り、彼の傷を手当てしている珠子以外の全員が一斉にそちらを見る。部屋の奥にある来客用ソファに体を横たえた老嬢は焦点が合わないようでいて、しかし、確信に満ちた眼差しで人々を見返した。

「さるのばけ?」

 相原の言葉に老嬢は頷き、

「けものを食べるおさるのお化け。まねっこがうまいの。牡鹿の鳴きまねをして谷へ迷い込ませた雌鹿を食べちゃったり、子猿の鳴きまねして助けに来た母猿食べちゃったり。人間の真似もうまいの。山で知った人の声が聞こえても、知らんふりしろ、ってさ」

 人々は顔を見合わせる。

 鮠川は菅野老嬢の話に耳を澄ませながら、自分の脛へくるくると、手際よく包帯を巻いている珠子へ視線を戻した。その冷静な表情に見惚れる想いがする。甲高い老嬢の声もどこか遠くなるようだ。

「あたしが子供の頃、おばあちゃんに聞いたことがあんのよ。もう随分と昔だけど。少し離れていた頃もあるけどね、私、小さい頃はここの麓町で育ったの。親の仲が悪くって、母方の家へ預けられてたのね。おじいちゃんは畑やら漁師やらやってて、おばあちゃんは家で畑と内職してた。その手伝いをしながら聞いたお話に、さるのばけがよく出たわ。捧げものの女の子を喰っちゃし喰っちゃししてたんだけど、偉い行者だか頓智の利く娘だかが退治したってさ……あら、退治されたなら、あれは別の奴てことかね?」

「日本昔話じゃあるまいし。しっぺい太郎でも連れて来るかね」

 相原が鼻を鳴らすと、菅野老嬢はむっとして彼を見た。

「じゃあ、あれはなんだっていうのさ」

「地球外生命体だと思うな」

 発言は野々村老人だ。ロイド眼鏡を拭き拭き、呟くように喋る。

「昨日の地震は、地震じゃなかったんだよ。考えてみれば、揺れ方がおかしかったもの。震源はとても近い感じだったけど、揺れる前に地鳴りとか聞かなかったでしょ?」

「あれが地震じゃなかったら、何なんですか?」

 外山婦人の問いかけに、

「隕石の落下じゃないかな」

 野々村は小声で、だがこともなげに答えた。

「あるいは宇宙船の墜落とか。僕らが断層があると思ってた辺りにきっと落ちたんだ。青白い光はその時の発光だったのさ。とにかくあんな生き物は今まで報告されていないから、外からやって来たと考えるのが自然だよね」

「妖怪かエイリアンか。まあ、大した違いはないわな」

 相原が肩を竦めた。

「奴が何かと言うことよりは、わしらがこれからどうするかの方がよほど問題だ。警察と猟友会に退治してもらわにゃならんが、外部との連絡手段が無い。かと言って、ここに籠城もな」

「誰か生贄になっとくれよ!」

「確かに、いつまでもこうしているわけにはいきませんわね」

 最初の興奮が収まり、人々は現在の状況を分析し始めたらしい。

 だが早くも部屋には閉塞感が漂い出していた。皆それぞれに互いを見比べ、そのほとんどが人任せに打開策を募るしかしない。

「逃げ出そうにも車が無い。わしの車は整備に出してしまったし、ここのバンは久賀の爺様たちが乗ってったままだ」

「歩いて逃げるなんて無理ですわね。山の中で襲われたら……」

「はい、オッケー」

 鮠川の手当てを終えた珠子が、救急箱を片付け始めた。

「思ったほど深くないわ。血ももう止まってるしね。感染症が気になるから、落ち着いたらもう一回見せてもらわなきゃだけど――」

「ありがとうございました」

「なによ、これくらい」珠子は一度胸を張るようにしたが、

「あ、私の方が助けられたんだった」

 ペロリと舌を出して見せた。「さっきはありがとう」

 鮠川の顔を正面から見据えて素早く言い、彼女はさっと立ちあがる。普段あまり見せることのない、本心かららしい表情に、鮠川は毒気を抜かれる思いがした。

「いえ――助かってよかったです。お互いに」

「そうだね」

 所定の位置へ救急箱を置き、珠子は再び戻ってくると彼の隣へ腰を下ろす。

「男の人に助けてもらったのって、初めてかもしんないな。私」 

「そうなんですか?」

 鮠川は何気なく横を見やる。彼女はこちらを向いていた。だから目が合った。彼はこれほど間近に珠子を見るのは初めてだった。 

「ほんとよ?」

「ええと……」

 なんと言って良いのか分からず、鮠川はそっぽを向いてしまう。自分の目に浮かぶであろうはずの、警戒と卑屈の色を、見られたくなかった。「――北見さんが、僕らの代わりに」

 うん、と珠子の頷く気配がする。

「たぶんそうね。彼があそこで逃げ出していなかったら、私たちがやられていたはず」

「ヒグマに猟師の集団が襲われた事件でも、逃げ遅れた老人が無傷のまま助かって、先頭を走って逃げた若者が殺された例があるそうですわ。追跡の本能、というのかしら」

 昔取材したんですけどね、と外山婦人が口を挟んだ。

 相原も頷き、

「妖怪だろうがエイリアンだろうが、あれが捕食性の動物ということに変わりはないようだな。背を向けて逃げるものを、つい追ってしまうんだ。リアクションバイトというやつだ」

 鮠川は納得する。あの時、彼があれへ背中を見せなかったのは、やはり正解だったのだ。 

「こうなることが分かってて、みこたん、逃げたんですかね?」

 小動物の第六感みたいな――、と彼が言いかけて、

「それはなんとも言えないな」

 打ち消すように珠子が答えた。

「逃げたのかどうかも分からない。逃げられるなら、もっと早くに逃げていたはずだし」

「どういう意味です?」

 鮠川は思わず珠子へ向き直った。途端、落ち着かない気分になる。

 彼女はまだ彼を見ていた。だがその両目からは、つい先ほどまでは確かにあったはずの温かい色合いがすっかり消え失せていた。

「野々村さんが言ったこと覚えてない? あのみこたん、六代目よ」

「六代目? 六代目みこたん、てことですか」

「まゆみちゃんがここへ来てから一年と、ちょっと――」

 珠子は指折り数える。鮠川は訝しみ、

「うさぎって飼うの難しいんですかね?」 

「さあ。でも飼育自体はそこまで難しくないんじゃないかな。設備も餌も悪くなかったはずだし」

「だって順番に一匹ずつ飼っていて、一年ちょっとで五匹死んだということですよね。今朝いなくなったのも含めれば六匹目だ」

「うん。まゆみちゃんが、殺しちゃうからね」

 あと、ウサギって一羽二羽じゃなかったかしら、と呟く珠子。

「確かに、そういう人いますよ。生き物飼うのが下手な人。自分では可愛がってるつもりでも、結局死なせちゃうんですよね。スキンシップが過多だったり、愛玩の方向性がおかしかったり……」

「ううん」と珠子は軽く首を振る。

「殺すのよ。虐待で」

 鮠川は口をつぐんだ。

「まゆみちゃんが嫌な思いでいっぱいいっぱいな時、ストレス解消欲求は虐待という形で歴代のみこたんに向かったの。最初はトイレ用洗剤を点眼したり熱したスコップを押し付けたり、それでも充分ひどいけど、最近は段々エスカレートして来ててね」

「だって、あんなに可愛がってたのに」

「機嫌の良い時はね。あと、人の目のあるところでは」

「……」

「今朝居なくなった六代目はね、もとは雄。まゆみちゃんがはさみで虚勢したのよ。私が処置してその時は死ななかった。でも虐待は続いてたから、時間の問題だったはず」

「それを知っていて、なんで珠子先生は……」

「私、人間のお医者さんだもの」

 医者くずれだけどね、と珠子は曖昧に微笑む。

「私にとってはまゆみちゃんの方が大事だから。ウサギで欲求不満が解消されるのなら、それも仕方ないと思ってた。こんなところで一日こき使われて、夜は夜で汚らしい老人たちに犯されて。そんな子から唯一のはけ口を取り上げるなんて、できないでしょう」

「……そうですね」

 鮠川の脳裏に、まゆみの記憶がフラッシュバックのように甦った。それはどれも明るく笑っているものばかりだったが、彼女の境遇を考えれば、今更だがひどく不自然だ。それはそうだ――、と鮠川は思う。そうあるべきなのだ。結局はそれが〝普通〟なのだ。

「まあ仮に私がウサギの飼育を禁じても、まゆみちゃんにおねだりされたら、おじいさま方がすぐ買ってあげちゃうでしょうし」

 珠子が肩をそびやかした直後、

「先生はどうなんだい?」

 からかい調子の声がした。

 しわがれて下卑た声音は菅野老嬢のものだ。

「――私?」

 全く予期していなかったのだろう、怪訝な顔でそちらを見やった珠子を、唇を歪めた老嬢は嘲りの目付きで見返す。機を悟り、急に活力が湧いたらしい。たしなめる外山婦人を指先で振り払い、

「先生のウサギはどこにいるんだい、ってことさ」

 にやにやと笑いながら言う。珠子の顔がきっと険しくなった。

「仰る意味がよく分かりませんが?」

 そうかね、と老嬢は煙草を取り出した。一本咥えて思わせぶりに火をつける。深く吸い込み、ことさらゆっくりと煙を吐く。珠子が焦れるのを面白がっているのだ。

「先生がここへ来て、二年近くになるじゃないの。一年居たまゆみちゃんが大変なら、先生はもっと大変じゃなかったかしらね、ってことさ。まゆみちゃんが来るまでは夜の御世話も毎晩みたいだったでしょ。素人相手の物珍しさもあって、ひっきりなしの大わらわ」

 あはッ、と笑い、

「あんたの言う汚らしい老人どもに夜な夜な体中舐めまわされてさ。先生が始めたようなもんじゃないかね。先生がじいさまたちと寝るようになって、それで、ここでそういうこともできるってじいさまたちは気付いたんだ。商売女を呼ぶのでなしに若い子を飼うことができるってね。それで、どうせ飼うなら冷凍のマグロなんかでなく、もっと素直で可愛いのを、ってんでまゆみちゃんが来たのさ」

「菅野さん……」

「いいわよ」

 老嬢を止めようとした鮠川を珠子が制する。

「――それとウサギと、どう関係があるんです?」

 その声の冷たさに、鮠川は思わず珠子を見た。彼女の横顔、眼差しに感情めいたものは一切認められない。見えているのに見えていない。聞こえているのに、聞こえていない。 

「五匹だか六匹だかのみこたんが苛められたのも死んだのも先生のせいってことだわね。唯一のはけ口を取り上げることなんてできなかった、なんて殊勝な口を利くなってこと」

 いや、違うね――と菅野老嬢は、目を輝かせる。思いついたッ、という顔だ。もっと好い、もっと素敵な言い方を――。

「まゆみちゃんが、あんたのウサギだったんだよ。ウサギが弱るのを見て憂さ晴らしするまゆみちゃんを見て、先生は憂さを晴らしていたの。おかしくなってくまゆみちゃん、じいさまたちにおもちゃにされるまゆみちゃんを見ることが、先生のストレス解消だった。本部にいる園長へまゆみちゃんを注文したの、案外、先生なんじゃないのかい?」

「ばあさん、いい加減にしないか」

 相原がうんざりした声を上げ、

「今そんなこと言ったって、なんにもならんだろうが」

「言える時に、言いたいことを言うのさ」

 老嬢が笑う。

「あんたたち男はただ、若いおっぱい吸ってヘコヘコしてりゃそれで好いのかも知れないけどね、私ら女はビクビクもんなんだ。いつウサギにされるか分からないからね」

「あら、私は向坂先生を信じていますわよ?」

 外山婦人の穏やかな言葉を「へッ」と、老嬢は下卑た笑いではねつける。

「外山さんは良い子だから。私みたいにガラの悪いのが一番、気を付けなきゃいけないの。動けなくなりでもすりゃ、ことなんだよ? みこたんと同じ目に遭わされるね。やる人間がバカじゃないだけ、なおひどいだろうさ。生爪剥がされたり、洗剤点滴されたり……」 

「そんなことしませんよ――」

 珠子の冷静な口調に部屋が静まり返った。それ以上、彼女は何も言わない。ただじっと、静かに菅野老嬢を見ている。しばらくの間にやにやしていた老嬢の顔が突然、きっと歪んだ。

「文句があるなら、さっさとここを出て行きなさいよ。被害者面しちゃってさ!」

「菅野さん、その辺でよしましょうよ」

「あァー、いやだッ。あんたも、いつもいつも、いい子ぶるんじゃないよッ」

 虫唾が走るとばかり顔をしかめ、老婆は自分の首筋を掻きむしる。

「菅野さん、いいかげんに――」

 外山婦人が強くたしなめようとしたその時、

「あ、そうだ。久賀さんの部屋に、銃があると思うんだよね」

 野々村老人が思い出した様子で呟いた。彼は今までのやり取りや部屋の雰囲気になんら興味を持っていないらしい。だがその台詞は周囲の膿んだ空気を一変させる力を持っていた。

「鹿狩り用に銃と弾丸がある、って久賀さん、言ってた気がするな。ウン」

 久賀は最近入ってきた元参議院議員の肩書きを持つ男性入居者である。今日は朝から町へ下り、この場に居ない有閑老人の一人だ。

「買ったはいいけど、試し撃ちもしないで買っちゃったから威力が強過ぎて、反動で肩を痛めるから、結局もてあましてるんだって」

「そりゃいい。猟をやるとは聞いていたが、ここに保管してるとは知らなかった」

 相原の目が輝いた。

「ここに立てこもって救援を待つにしても、武器があるならそれにこしたことはないからな。銃の種類は分かるか? 鹿なら散弾銃にスラッグ弾くらいかもしれんが」

 野々村は自らの禿頭を撫でながら、

「ええと、そういう話はあまり詳しくないんだけど……、でも名前は聞いたことあるよ。ミトン700、だったかな」

 相原は満足そうに頷き、

「レミントンM700か。メジャーなライフルだよ。弾によってはかなり、いけるかもしれん」

「相原さん、撃てるんですか?」

「防衛省時代も察庁に出向していた時も、ハンドガンから長物まで練習は欠かさなかったさ」 

 訊ねた鮠川に向かって相原は得意気に背筋を伸ばし、狙撃のポーズを取って見せる。意気揚々と、

「この際だ。無断で借用しても構わんだろう」

「分かりました。行きましょう」

 珠子が立ちあがった。それまでの確執をすっかり忘れたかのように、目の前の問題へ取り組む顔つきになっている。

「いや、先生にはここに残っていてもらおう」

 相原が制した。

「医療技術を持った人間は貴重だ。私と鮠川君で行く」

「彼は怪我をしています」

「それでも、他の老いぼれどもよりは素早く動けるだろう?」

 その問いは鮠川へ直接向けられたものだ。鮠川は頷く。

「大丈夫です。なんなら、僕一人だって行けますよ」

「それには及ばん」

 相原はにやりと笑った。若々しい笑みだった。

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