西暦一九二五年 大寒の頃


「一番美しい愛の形、ねぇ……」

 火鉢を抱えながら黙って私の話を聞いていた恭介は、いつもの彼らしく、いかにも皮肉めかした笑みを浮かべた。湯呑みへなみなみ注いだ酒をがぶりとやって、「で、君は何と答えたんだい?」

「だから、答えられなかったんだ。何と答えるべきだったのか、今もって分らない」

「まあエログロ専門の三文文士にはちと、荷の勝ちすぎるお題ではあるな。それに今の君の状態から見ても、中々答え辛い問題だ」

「三文文士は大きなお世話だ。それに、エログロ専門は世間が勝手に認定しただけだよ」

 私にはその部分しか反論すべきところがなかった。世間の認識とこちらの自己認識のずれが自分の中で見過ごせぬほど大きくなり、その葛藤が私を東京から追いやったのだ。明治以降から始まったに過ぎない家柄とかいう狭量な枠組みを、やっとの思いで逃れられたはずだったのに、私は危うく、別の枠組みへ押し込められてしまうところだった。家柄を押し付けてくる父のような対処すべき相手が明確に定まっていないだけ、余計たちが悪かったかもしれない。

 この村を逃避先に選んだのは単に友人である恭介の郷里であり、湯治場に長逗留するよりは金もかからず人目も少なかろうと考えたからだ。実際、彼の誘いがなければ最早根無し草同然の私のこと、今頃大陸のアヘン窟辺りで身ぐるみはがれて死んでいてもおかしくない。とにかく私は私の属性を勝手に断定してやまない輩との交流を一切捨て去り、アイデンティティの揺らぎを収めたい一心でこの逃避行を始めたのだ。だがそれが、この辺鄙な集落でさらに揺らぐとは思ってもみなかった。私も少し飲んで、

「だけど、まじめに答えてやりたいじゃないか」

「そうだね」恭介は一転、人懐こく笑う。真摯な表情で、

「例え彼女がどんな問いかけをしようとも、弧川君だけはまじめに答えてやらなきゃならない」

 そうだろう? と片方の眉だけ跳ね上げて彼は問う。この表情を見るたびに私はなぜか、魔法使いとはこういう人間かもしれない、と思わされてしまうのだ。

 私などよりよほど都会の紳士然とした洒落者で、この村の入り口、峠の頂上へようよう辿り着いた最初の頃には、今風仕立ての和装が似合う本人と、鄙びが少々行き過ぎている郷里の様子とのあまりの落差に何度も、その横顔と遠景を見比べてしまったものだ。

 だが考えてみれば彼にはどこか〝境界の住人〟といった雰囲気がある。都会に在って都会に無く、田舎に在って田舎に無い。こちらに在ってこちらに無く、あちらに在ってあちらに無い。

 気さくな人物には違いないのだが、どこかあやふやで、不思議な気配を彼は常に纏っている。そんな男の見開かれた瞳に、こちらを見据えるあの、可憐な人が映っている気がして、私は顔を背けずにおれなかった。自分が年甲斐無く、ひどく赤面していると分かる。

 また普段の顔に戻った恭介がくぐもった笑い声を立てるから、

「君に照れたわけじゃないぞ」

「もしそうなら、僕は今すぐここを逃げ出すよ」

「だいたい君が悪いんだ、恭介。これまでの君のお土産だっていう本を見せてもらったがね、全部が全部、乙女乙女してセンチな少女小説ばかりじゃないか。小さい頃からあんなものばかり読まされていたんじゃ、内向きの変な恋愛観を持ってしまうのも無理はない」

「だがそのおかげで、彼女は幽世にいながら恋を知っているのさ。その点でも君は僕に感謝すべきだな。それに、世界を駆け巡る冒険小説なんぞを渡す方がよっぽど残酷だろう?」

「そりゃ、まあ、そうだが……」

 そこでまた彼はガブリと飲み、

「で、質問に答えられなかった君がなぜ、彼女を怒らせてしまったんだい? アヤは君が答えられなかったくらいで怒る娘じゃない」

「全く君には敵わん。それでなぜ、あの探偵事務所が閑古鳥なのか分からない」

「大きなお世話だ。多分、立地が悪いのさ。それで――?」

「アヤさんは、心中じゃないかと言ったんだ」

「ドカンボコンの? 蓮の台でお会いしましょうってやつ?」

「そうだ。情死こそ最も美しい愛の具現なんじゃないか、ってね」

「ふぅん……まあ年頃の娘だし、得られる知識も偏っているだろうからね。完全に健全なロマンを描くのも中々難しかろう。それで、それに対して君は何と答えたんだ?」

「直接は答えられなかった」

「よくよく答えられない男だな。アヤはなんて?」

「色々と考えうるロマンチックな情死法を開陳してくれたさ。互い同時に首筋を切るとか二人を帯で一纏めに束ねて海に飛び込むとか。三原山の噴火口に飛び込んだら二人一瞬で燃え尽きるんでしょうねって言うから、噴火口と言っても縁のすぐ下まで溶けた溶岩があるわけじゃないでしょうから、冷え固まった溶岩へぶつかったりなんぞして飛び降りのごくひどいのと同じ状態になる可能性の方が高いですよ、と言ったんだ。そうしたら、課題は独りでやりたいから、部屋を出ていってくれってさ。……怒らせるのも当然だな」

「わかりゃいいんだ」

 恭介はグラスをかかげた。私は独り頷き、

「そうだ。考えてみりゃ、あの娘のロマンチズムをもっと尊重するべきなんだ。あんな風に養われているのに、あそこまで健全に育ってこられたのは純朴なロマンへひたすら縋っているからってことも充分考えられる。多少の歪みは仕方がない。なのに僕は……」

「そこまで自分を責めることはないよ。むしろ、外の新鮮な考えを彼女に吹き込んでやることだって大切さ。彼女の場合、それを消化するのに外の者より時間はかかるだろう。だが、そのプロセス自体やっぱり成長の糧なんだ。今は娘々した純朴なロマンチズムでも、独りきりで育てれば結局はいびつな夢想に終着する。そんなものは自辱のネタにしかならん」

「あの娘がオナニーなんぞするもんか」

「――君は馬鹿だ」

 その時だ。部屋の外に人の気配がして私たちは口を閉じた。

 案の定、障子がするすると開いてタヅが顔を出す。

「先生、アヤが呼んでる」

「ほら、仲直りのお誘いだ」

 恭介がからかう口ぶりで言い、最後の一口を飲み干した。



     ※



 長い廊下を我々は黙って歩いた。私は先に進むタヅの後姿をぼんやり眺める。粗末な単衣の上に肩骨の尖りが浮く痩せた背中、丈の合わない裾からは細く白いふくらはぎが大きく覗いている。

「下駄の痕、取れたね」

 突然彼女が言った。相変わらずぶっきらぼうな声だったが、それはまあ、致し方がない。

「君が加減してくれたおかげだな」

「足が滑ったから、しまいまで力がこもんなかっただけ」

 東京からの長々しい旅路もようやく終わりに差し掛かり、集落を見下ろす峠の頂上で一息入れようとなった時、恭介は、少し降りて脇へ入った処に小さな温泉が湧き出ていると言ったのだ。

「足湯くらいにしかならん、温い温泉だがね。一度村へ降りきってしまえば、向こうには本物の熱いやつがかけ流しであるんだから、態々この坂をまた上ってきて試そうという気にもならんだろう? だけど景色は折り紙付きだ。歓待第一号が無生物も悪かない」 

 こいつも空けてしまおうよ、と中身の残り少なくなったフラスクをこれ見よがしに振りながらの提案を拒否する理由は全くなかった。

 むしろ生来好奇心旺盛の私は、和装の彼に先立ち笹薮をずんずん漕ぎ降りた。人が入らずに久しいのだろうか、高く分厚い笹の茂みを掻き分け掻き分け、突如、秘境へたどり着いた。そして見た! 

 私の目を奪ったものは広々した相模の海が澄んだ冬の光に煌めく様子などでは無かった。裸体だ。灰色の雲に覆われた相模湾を背景に、ふと降り出した小雪の中でより一層白く輝く、若い娘の美しい全裸身だ。温い湯でも長く浸かってのぼせたのだろう。全く偶然に運命はかち合い、ほてる体もあらわに彼女が立ち上がるのと、勢いづいた私が茂みから飛び出すのとがほぼ同時だった。

「絶景……」

 娘がこちらを振り向き、目が合った。時が停まった。

「いや、その……、まことに申し訳ない」

 私はかなり呆けた顔をしていたはずだ。娘は間髪を入れず泉の縁に置いてあった下駄の片方を取り上げ、こちらへ思い切り投げつけた。普段から運動音痴な私がさらに呆けているのだから避けられるはずもない。女下駄が額を直撃し、私は昏倒した。跳ね返った下駄を彼女が素早く受け取る時の乳房の弾み、その次に私が見たものは心配げにこちらを覗き込む恭介の顔だった。娘は最早いなかった。ましらめく影が藪の中を駆け上がっていったと恭介は言った。猿でなく若く美しい娘だと言うと、彼はちょっと驚いた顔をした。

「美しい……だって?」

「うむ」私は立ち上がりながら、力強く頷いたものだ。

「淡く白い柔肌、ちょっと額は出ているが全体的に小作りな顔立ちに、眦の切れ込んだ大きな瞳、ちんまりした鼻と唇、清らかな乳房、なめされたように流れる腹部のライン、愛らしくこぶりな尻……、三保の松原へ降りたての天女様かと思ったよ」

「バカな!」

「目の覚める美人、いや美少女……」

「君も中々に気持ち悪いな。おい、涎を拭きたまえ!」

 その娘がこのタヅだ。私の泊まり屋の下女だったのだ。初対面が初対面なだけに顔合わせからぶっきらぼうなのは仕方がない。早めに機会を見つけてもう一度、独りで女中部屋へ彼女を訪ね、きちんと謝罪はしておいたが、完全に警戒を解いてもらうまでにはやはり時間がかかるだろう。歳は十七と聞いている。 

「オナニーって何?」

「なんだって?」

 私が驚いて立ち止まると、タヅも足を止めて振り返った。

 こうして見ると、羽衣伝説にありそうなあの美しい肢体はまるで想像できない。下働きが隅々まで身についた痩せぎすの田舎娘だ。

 ぱさついた髪の毛は大方ひとくくりにして高等部へまとめ上げているが、少し垂らした前髪の向こう、右眉の上から頬の中ほどまでを斜めに走る裂け目のような形をした痣は、幼い頃受けた火傷の痕だそうである。地が白いだけ、赤黒い傷が痛々しく目立っていた。

「さっき聞こえた。障子越しに、先生が恭介さんに言ってた」

「ああ……」

 私は動揺する。ある種の潔癖さを漂わせるこの娘に言語としての由来を説くことはできても、主体行為としての実践的説明は危険が伴う。下手すれば下駄でなく刃物あたりが飛んできかねない。

「アヤが絶対にしないことなんでしょ?」

「ああ……」

 再び歩き出すタヅ。私も渋々後を行く。しばし黙って歩いていた彼女だったが、

「あたしは? あたしはすること?」

「そうだな……、するかもしれないし、しないかもしれない……君にしか分らない」

「なのに、アヤがしないことは先生に分るの? なんで?」

「ああ……、そうだな……」

 その時すっと、タヅの気配が消えた。否、私の目の前にいることはいるのだが、それまで周囲へ発散していた険のある、しかし溌剌とした雰囲気を突然柔らかく押し殺したのだ。領域に入ったという無言の合図だ。彼女に続いて角を曲がると、いつものように小さな火鉢の傍に正座した女中が一人、白い息を吐きながら編み物をしていた。監視の当番なのだ。こちらを見上げたが、これまたいつものように何も言わない。目礼して奥へ進む。

 やはり毎度のことながら、私は唾を飲み込んだ。

 薄暗い廊下のずっと向こうまで、いつ見ても見慣れることのない光景が続いている。その中を歩くタヅの後ろ姿さえ歪んで見えるようである。足元で鳴る板の軋みが耳を刺す。

 上等な漆喰壁の、私の背丈程の高さへ横一列にずらり掛けられた数々の仮面。種類は何でも良いらしい。古ぼけた能面から南洋の神事にありそうな派手派手しい鬼仮面、果ては浅草あたりへ行けば子供の玩具として一つ数銭で売られている紙のお面まで、多種多様な仮面が廊下の一番向こうまで並び、その前を通り過ぎる私とタヅを見つめ続ける。あと数歩進めば目指す部屋の前、この屋の座敷牢というところでタヅは立ち止まり、背伸びして白い狐面を取った。

「今日は狐の気分なのかい?」

 彼女は答えず、軽く私を睨む。それから手早く面をつける。

「待て」

 小さな後頭部へ手を伸ばし、結んだ面の紐とほつれた髪の絡みを解いてやった私へ、彼女は無言で、しかし素直に頭を下げた。

 面装は下人の身分を表すのだという。よって客分である私は付けない。再び私たちは歩き出し、じきにその部屋の前へ立った。

 タヅが静かにくぐり戸の鍵を開ける。頑丈な木製格子の内へ先に入って私を招き入れ、今度は内側から錠を下ろす。格子のある前の間と居住空間の間には襖が取り付けられており、丁寧に膝を折ったタヅが向こうへ声をかけるとすぐ、返事があった。

 タヅが引き開けてお辞儀をし、私の来訪を告げる。

 一歩を踏み入れるとそこは別天地だ。部屋の作りそのものも和洋折衷の趣が強くなる。聞けばもう一つ奥からは完全な洋間で、部屋の住人はベッドで就寝しているのだという。だがそれらはあくまで別天地の付属物に過ぎない。では何が別か。空気そのものだ。

 恭介の部屋にすら漂うこの古屋敷独特の淀みが、この部屋にだけ皆無だった。外の天気は灰色の雲が垂れ込める重苦しい空模様だというのに、白い擦りガラスを羽目殺しにした大窓が大量に光を取り込んで、屋内の方がよほど明るく思われる。そしてその真ん中で、椅子に腰掛けた彼女は愛らし気に、輝くばかりに微笑んでいる。

 廊下側に残ったタヅが静かに襖を閉めた。私がこの部屋を訪れている間、彼女はずっとそこにいるのだ。それを煩わしく思う頻度が、このごろ少し増えてきている。

「まだ、お怒りですか?」

 問いかける私の喉は乾いた。

「少し」

 悪戯ぽく睨む目つき。しかしそれはすぐに緩み、

「でも、もう癒えましたわ」

「どうして?」

「……あなたが来てくださったから」

 立ち上がり、はにかみながら一息に言って、アヤは下唇を引き込みながらこちらを見つめる。私と彼女、少しづつ互いへ歩み寄る。

 家庭教師の私を普段は「先生」と呼ぶ彼女だ。「あなた」と呼ぶのに彼女がどれほどの羞恥を乗り越えたかは察するにあまりある。 

 陽に当たらないため肌がより白く、幾分かは肉付きも良いこと、艶やかな黒髪を下ろしていることと火傷痕が無いこと以外はタヅとまるで同じ顔の作りだが、目の中にある何かはまるで違う。こちらを見つめるつぶらな瞳はいつも、特異な温もりに溢れている。

 率直過ぎる言葉に戸惑い、私が感極まって見つめ返していると、アヤの顔にさした朱の面積がどんどん耳まで広がった。ついに耐え切れなくなったのだろう、さっと顔を伏せてしまう。

「……いじわる」

 悪いことをした。私は思わず彼女を抱きしめていた。アヤの体は一瞬硬直し、その後、徐々にほぐれていった。

 エヘン、と咳払いがして私たちは慌てて体を離す。お互いに顔を見ることができない。一瞬、頭の中に峠の湯場で見た裸身がちらついた。それはもちろんタヅのものであるはずなのだが、振り向いた顔はアヤの気がした。下駄なんぞ投げず、後光を背負い、ゆっくりこちらへ歩み寄ってくる光景がはっきり見えるとすら思った。

 二人は双子なのだ。

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