姥捨て山に墜ちた星

高木解緒(髙木解緒)

                            西暦一九二四年 初冬       


 森閑とした夜の山中で、のぼせとのぼせが絡み合う。

 澄んだ空気を貫く月明りは冷え冷えと鋭い。

 だが二人一緒に天然の湯船へ肩まで浸かり、肌寄せ合って見上げれば、湯気のベールが月光の切っ先を程よく和らげてくれる。冬の夜中も優しく見せる。

 どちらが後ろから抱いているのか。

 どちらが後ろから抱かれているのか。

 湯のうちへ目をやり、互いの肢体を眺めれば、水の中へ並行して絞り出された白絵具のように、二人の肌は今にも癒着し、溶け合い始めるようである。指先で互いへ触れれば双方の神経は全く同時に興奮して脳幹が痺れる。逆立つ産毛がそれを伝えあってやはり自他の区別がつかない。上気したうなじへ唇を押し当てたのはどちらであったか。己が己の乳房へ手をやったのか、乳房が弄ばれたのか。

「もうすぐだね」と言うから「もうすぐだよ」と言う。


 あなたはわたしの窓。

 わたしはあなたの窓。

 わたしがあなたを解き放ってあげる。

 あなたがわたしを解き放ってくれる。

 同じことかと思うけれど。

 決して同じことでもない。

 



     ※



                    西暦二〇二〇年


 夜毎の凌辱がまだ始まりの頃、ただ一度だけ反撃を試みたことがある。それもやはり当直の晩だった。昼のうちに簡易ベッドの裏へテープで貼り付けておいたペティナイフへ、彼女はこっそり、手を伸ばしたのだ。仰向けの自分へ覆い被さって乱暴に腰を振る男の、目出し帽の裾と襟の間に覗く白い喉元が、横一文字の切り取り線に見えて指先が震えた。ナイフの柄に触れた途端、怒りと憎悪が電流となって彼女の全身へほとばしった。

 その時だ。コツ、コツ、と音がした。

 無意識にそちらを向く。目が合う。少し離れて突っ立つ別の男が、やはり目出し帽の奥からこちらを眺めていた。手荒く犯される役を必死に演じ、しかし今まさに牙を剥こうとする彼女をさも愉快げに見下ろしていた。男の視線が彼女の視線を誘導する。三脚に乗ったビデオカメラが床へ据えられており、そのレンズもまた、こちらを見ていた。録画中であることを示す赤いランプが灯っていた。

 再びコツコツと、男の指がカメラのボディを弾く。

 また、目が合う。

 男の眼光が意味有り気に輝いている。

 彼女は理解した。夫はまだ生きているのだと。これはメッセージビデオの撮影なのだと。指先はあっけなくナイフから離れた。

 男が気やすい調子で仲間へ声をかける。どこの国の言葉かまるで分からなかったが、隠し武器を知らせたのだろう。

 警告を受けた大男は一度腰を止め、節くれ立つ手のひらで彼女の横面をしたたか叩いた。脳震盪を起こして朦朧とする彼女の両手首を片手で戒め、もう片方の手で喉首をきつく締めあげながら行為を再開する。白目を剥き、豚の嘶きめいて喘ぐ彼女を待機する男たちが笑っていた。順番決めで揉めた一人がもう一人を殴った時、その夜最初の男がその夜最初の絶頂に至った。体臭のきつい巨躯の重圧が離れるとすぐ、今度は小柄な男が手錠を持って近づいてきた。

 その夜から彼女は抵抗をやめた。毎晩ひたすら犯され続けた。

 男たちは彼女がどこにいても影のように近づき、交代で繰り返しその体をいたぶった。厳重なセキュリティが売りであるはずの自宅マンションはもとより職場の当直室にも当然のように現れ、凌辱の限りを録画して去っていった。ある夜、つい恐怖に耐え切れず逃げ込んだ深夜営業のファミリーレストランへは現れなかったが、翌朝店を出た直後に大型自動車へ引きずり込まれた。男たちは定型通り彼女を存分に犯し尽し、山深い車道へ放り出して姿を消した。暗い山道を彷徨いながら、彼女はルーチンワークにおける性衝動の飽和、暴力性のエスカレートを感じずにいられなかった。

 だがそれでも、朝、鏡の前に立った彼女の裸体へ爪痕らしい爪痕が残っていないことは、男たちがある種のプロであることを示していた。それもただのプロではない。普段引きも切らない救急病棟の患者が彼らの出現時にのみ、全く搬送されてこなかった。その刻限が近づくと院内は異様なほど静まり返った。彼女が独り佇む宿直室の外で、世界が全て闇に呑まれたようだった。その闇から男たちが現れ、彼女を嬲る時、彼女は明らかに世界から遮断されていた。

 こうした事実は早くから黒い作為を予感させたが、一度、勇気を振り絞って駆け込んだ警察署の応接室周辺から、ふと、人の気配が途絶え、やはり現れた男たちに嘲笑われながら、いつになく優しく丁寧な辱めを受けた時、確信は決定的となった。彼女を犯しているのはこの世界そのものなのだった。

 動画の撮影は、その動画を送り付けられる相手がまだ、この世に存在することを示すはずだ。彼女はそう自分に言い聞かせて毎夜を迎えた。日没が近づくにつれ彼女は生きた屍となった。真夜中過ぎには呼吸する人形となり、醜悪な精と暴力で溢れ続けた。

 そしてある当直の晩、悪夢は唐突に終わった。

 だが、終わらない方が良かったとも彼女は思った。

 三人目の最中、電話の着信音が暗い室内に鳴り響いた。初めてのことだった。持ち主の男が携帯端末を取り出して応対していたが、やがてそれを仕舞い込むと録画を停め、

「仕事は終わりだ」

 流暢な日本語で言った。その言葉で男たちの数人が輪から離れ、一人が彼女の頭を放した。だが、腰を振り打つ最中の男と他に二、三人がそのままだったので、リーダー格の男は異国の言葉で指示を出しなおさなければならなかった。

 その鋭い声が彼女を現実へ引き戻した。倦怠と絶望へ抗いながら

彼女が立ち上がる頃、男たちは既に消えていた。その速やかな消失はいつもと同じだったが、残された雰囲気はまるで違った。恐らく彼らは二度と現れないだろうという冷静な推測と、それが導き出す望まない推論の両方を心の奥底へ封じ込めようとして、彼女は妙にてきぱき、衣服を身に着けた。長い黒髪を梳き、束ね終えたとき、内線がコールした。いつの間にか院内に音が戻っていた。

「先生、急患です」

 しかし看護師の口ぶりは、それが本当の意味での急患ではないことを仄めかしていた。果たして、搬送された男性患者は間に合わなかった。その体に刻まれた無数の拷問の痕跡を彼女は指先で優しくなぞった。だが涙は数粒ほど流れただけだった。それ以上流す前に、彼の内股のごく目立たない部位に不自然な傷痕を見つけたからだ。患者が自分で刻んだものらしかった。その意味を考えたとき、他にすることがある、と彼女は気づいた。

 しかし肌の上の暗号を解き、遺言を回収し終えてしまえばもう、それからどのように動き出せばよいのか皆目見当がつかなかった。

 数日後、彼女の前に現れた男女二人組は、とある防諜機関の攻勢要員リクルートだと名乗った。それぞれの目的を果たすため互いに利用しあおうという提案を彼女が即座に了承した時、二人は目配せを交わしていた。自分は利用されるのだろうと彼女は考えた。だが、なすべきことの道筋を得た爽快を久方ぶりに味わってもいた。



     ※



                            西暦一九二四年 初冬


 携帯式の電子端末が遍く普及した現在の子供たちにとっては想像もつかぬ冒険であろうが、ある世代の男性諸君について言えば、山や河原に産廃のごとく遺棄されたエロ本を探しに行った思い出を、今も変わらぬ健全な心の糧となった少年の日の玉璽として懐中深く大切に温め、心の奥深くへそっとしまわれている諸兄も多いはずである。

 そしてその精神は、もっと昔の少年たちにも確かに息づいていた。大正の、隣村へ通ずる峠道を除けば険しい山々に三方をぐるり囲まれ、本土から隔離されたこの海辺の集落、陸の孤島に住まう少年たちにもエロスへの渇望は生臭く満ち溢れていたのだ。いわんや見つかるのが雨と精液にまみれ色褪せた印刷物ではなく、本物の、見目麗しき柔肌であるとするならば、少年二人がたきぎ拾いの言い付けにかこつけ奥山へ分け入ったことは生命としての本質的欲求、自然の摂理、万物の道、無理もない当然の選択であったろう。

 聖蹟は村を見下ろす峠の頂上付近にひっそりとあるのだと言う。だから二人は黙々と登った。

 その年、例年ならすでに浜へ下りてきて小屋をかけ、冬の間は竹細工の修繕などをして村人と交流するはずの山人たちが、どうしたわけか、まだ姿を見せなかった。大人たちが眉を顰め、そのことについて囁き合うのを、集落の子供たちは不思議がった。なぜそんなことが重大なのか。汚らしい山乞食といつも自分たちで蔑んでいるではないか。子供が近づいてはいけないと口を酸っぱくして言うではないか。攫われると脅すではないか。そんな連中が下りてこないからどうだと言うのか。大人は、つまらないことを気にする。

「ザルが直せないからでねぇか」

 一人が言った。

「んなもん、おらでも直せる」もう一人が答えた。それからふと、

「女ってのはよ、山乞食の女でないかな」 

「なんの女だ?」

「バカ、これから見る女に決まってる」

「ふうん、山乞食か」

 峠の、脇道の茂みを少し入ったところに温泉が湧いている。規模は小さく湧き水に毛の生えたような温泉だが、寒中の湯あみをするには充分だ。もっとも、そんなところまで態々行く物好きは村人に居ない。村にはもっと真っ当な温泉が湧いている。だから、

「そうだ、山乞食の女かもしんねえぞ」

 年かさの少年が少し考えた後、確信めいて言い直した。

 峠の温泉で習慣的に白い肌を余すところなく晒し、温める若い女がいるッ、という噂がこの大冒険の発端だった。だが、

「山乞食の女かァ」

 ときめきが離れたものか、もう一人の少年はいささか興ざめした声を上げる。下りたての山人たちが多く身に纏う、洗わない着物のすえた臭いを思い出したらしい。鼻先をひくつかせ、

「わざわざ見に行くほどのもんでもねかったナァ」

 そもそもこの噂の出所は、峠を越えた隣村に住み、嘘つきあるいは粗忽として名高い学校の同級生だから、元からして話の信憑性に難がある。新たな気付きは否定的予感を彼へ与えたらしかった。

「タメの奴はよ、この間も山向こうに星が落ちるのを見たとか言ってよ、先生に叱られてたからな。それで家でも母ちゃんに叱られて、おん出されて、寒くって、温泉のそばなら多少はあったけえだろう、てんで行ってみて、それで、見たんだ。ナ?」

「うん。絶対見たって言ってた」

「月夜に天女様たちが降りてきたみてえだった、目が潰れるくれえ綺麗な裸だ、なんて言ってたけど、――なんだ、山乞食かァ」

 その溜息を聞いて、年かさの方が鼻で笑った。

 これだから、という目付きになり、

「もの知らずだな、おめえも。山乞食の女は具合が良い、ッてな、知らねぇのか」

「具合って、なんの具合よ」

「――具合は具合だろうが。オジが言うとった」

「佐竹のオジかァ」

 同級生以上にアテにならない名が出てきたので、年下の少年は更に渋い顔つきを見せる。

 その時だ。道脇の笹薮が大きな音を立てた。二人はぎくりと立ちどまり、顔を見合わせる。また鳴る。ただの音でない。それなりに大きな生き物の動く音だ。二人の腰が引ける。今にも逃げ出しそうになっている。寒風も通さない厚い笹壁が強引に引き裂かれ、陽の下へ大きな影がどたりと転がり出してきた時にはもう、背負いカゴだのなんだのを放り出して、二人は一目散に道を駆け下っていた。

 一時も経たないうちに村の男達がその場へ駆け付け、付近を捜索してみれば、道沿いの木の根元に山人の男が一人、息も絶えんばかりになって寄りかかっていた。大きな怪我はしていないようだったが、憔悴しきって、目の焦点が合っていなかった。普段は修験者か、鬼か天狗のようにも思われている大柄で逞しい山人の男が、泡を噴きながら震えていた。

 それからまた数時間たって、男たちが村に帰ってきた。母親や年寄り連中からこってり絞られたあの少年たちが、それでも結果を聞くと、ただ、埋めてきた、という返事ばかりだった。山人はすぐに死んだのだそうである。

 その日から、村は少し慌ただしくなった。

 少年たちは隣村にある学校の行き帰りを峠道ではなく、海へ出て小船で送り迎えされることになり、それがまた寒いながらも中々に楽しい経験だったので、幻の女体への渇望は、いつの日か見る夢のまた夢として、心の遥か向こうに忘れ去られた。

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