第1話 読んでもらえませんか

「兄さん、どうして編プロ辞めちゃったんですか。余は悲しいですよ」


 家族連れで賑わう真っ昼間のファミリーレストラン。テンションの上がった子供のキンキン声をBGMに、小林こばやしは開口一番そう言った。その言葉に、僕は沈黙で返す。今は理由を話したくないんだよ、突っ込むなよ。


「余はまだちゃんと空港で正社員として働いているというのに、兄さんはフリーターに逆戻りじゃないですか。今からでも戻った方がいいですって、編プロ。二十七才で今さらフリーターって、人生詰みますよ?」


 ぐっ……小林の言葉が刺さる、それはもうぐさぐさと。そうだよな、それが現実だよな。さすがにこの歳でフリーターはマズい。


「……分かってるよ、そんなこと」


 漫画専門の編プロを辞めてから、僕は一応、派遣社員として肉体労働で働いてはいる。まだ無職よりはマシだから。正直なところ、キツい。僕はそこまで体力に自信があるわけではないから。だから早めに、どこかで正社員にならなきゃいけないと焦ってる。


 でも、漫画編集の仕事以外、興味が湧かないんだよ。やる気が出ないんだよ。だって入社してから、僕は漫画編集に人生を賭けていたんだ。天職だと思っていたんだ。だから今さら他の仕事に命賭ける気がなかなか起きないんだ。


「……まあ、そこはちゃんと考えていくよ。それこそ真剣に。というかお前さ、いいかげん自分のことを『余』って言うのやめろよ。『余は、余は』ってうるさいんだよ」


「余は余ですから。変える気はないですの」


 こいつ、ブレないな。


 小林とは僕が編プロで働き始める前、映画館でアルバイトをしているときに知り合った、僕より二個下の男だ。何故かは分からないけれど、やたらと懐いてきて、僕のことを『兄さん』と呼ぶ。まあ、波長が合ったのは確かだ。お互いにアニメや漫画が趣味ということで、話も合うし。


 でも、せっかくだったら可愛い女子に懐かれたかった。女っ気のない人生を送ってきたから尚更だ。なのに、なんでお前なんだよ。僕は女の子と話がしたいんだよ! 仲良くなりたいんだよ! そしてあんなことやこんなことをしたいんだ。なのになんなんだよ。日曜の昼間っから、何が楽しくて野郎二人でファミレスで駄弁らなきゃいけないんだよ。


 ……まあ、今それを言っても仕方がないけれど。


「漫画編集をしていた時の兄さんはあんなに生き生きしていたというのに、今はなんですか。腐った魚のような目をしてるじゃないですか」


「腐ってねえよ」


「いや、腐ってます。目がどんより曇ってます。あと腐ってます」


「大事なことだから二回言いました、か?」


「そうです。兄さんに事実を伝えるのが余の役目です」


 事実、か。

 まあ、そうかも知れない。


 僕はもう人生に絶望している。絶望しきっている。はっきり言って、自暴自棄。大好きだった漫画編集を辞めてから、仕事と睡眠の時間以外はほとんどアニメや漫画漬けみたいなダメな日々を送ってるし。あと、夜中はほどんどエロ画像の収集。誰にも言えないけれど。


 そんな毎日だ。そりゃ目も腐るってものだろう。


「あ、あの、すみません」


 小林の言葉に肩を落としていると、不意に聞こえた声。

 その声はまるで鈴の音のように透き通った、凛として響く、心地の良い声だった。


「あの、あの……」


 最初は他のお客さんの声がたまたま耳に入ったのだろうと思ったら、違った。その声は、僕達に――いや、僕に向かってかけられた声だったのだ。


 僕と小林のテーブル席に影が出来た。肩を落としていた僕は、その影を作る方へと目を向けた。そこには、浅緑色のブレザーをまとった制服姿の女の子が立っていた。


 とても可愛らしい女の子だった。


 眉の上で切りそろえられた前髪が印象的な、すとんと落ちる綺麗なセミロング。大きな窓から差し込む陽が、彼女の可愛らしさを引き立たせる。髪は薄っすらと茶色味がかり、輪郭をぼやかし、それがやたらと幻想的に僕の目に映った。


 顔立ちはまだ少しのあどけなさを残し、しかし、とても美しく整っている。

 子供と大人の狭間に、彼女は立っていた。


 それにしても、どうしてこんな美少女が僕達に声をかけてきたのだろう。こんなむさ苦しい男二人に。何をされるか分かったものじゃないというのに。いや、当然僕はそんな変なことはしないけれど。小林はどうだって? コイツにそんな度胸はないからあり得ないね。


「えーと……そ、そのですね」


 その少女は少しおどおどしながら、ちょっと困ったような、そんな表情で僕を見ている。一体何の用だろうか。逆ナン? それはあり得ないか。


 少女は一度深く深呼吸。そしてゆっくりと息を吐き出しながら、覚悟を決めたような表情に変わり、言葉を紡いできた。


 この時、僕は全く予想だにしていなかった。まるで夢を見ているのではないかと錯覚する程楽しく、幸せな、でも少し切ない毎日。そんな日々がやってくるなんて。この少女との出会いが、僕の運命を変えることになるなんて。


 いや、運命なんかじゃない。


「どうしたの? 僕達に何か用?」


「あ、あの、お願いがあるんですけど」


 ――これは、僕に訪れた奇跡だ。


「よ、よろしければ私が描いた漫画、読んでもらえませんか」



 第1話 読んでもらえませんか

 終わり

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