第8話 T君の痕跡

 綾乃の腰はしっかりと掴まれて、T君と共に窓の外が見える。


(聞こえてる? 亮介……)


 白くなった脳内。なんとか意識を保っている綾乃だったが、朦朧とする中で亮介のことを想っていた。


 綾乃にゆとりが出てきたようで、それにつれて声も穏やかになり聞き取りづらくなった。まったりピロートークでも挟んでいるのだろうか。


 数分もしないうちに、そんな亮介の顔にバケツで水をぶっかけるような声が突如として響く。

 


 ◆



 それから約10分後。


 綾乃から声がかかる。換気扇が回っているとはいえ密室に長時間いるのはなかなかの負担だった。ドアを開けざまに亮介が言う。


「お疲れ様でした……。綾乃だけでなく俺もすごく嬉しいです」


「こちらこそお疲れ様でした。すみません、大変なお願いしてしまって。狭かったでしょう? 大丈夫でしたか」



「もちろん大丈夫です」


 わざとらしいぐらい大きく伸びをして亮介が答える。



 綾乃のカマボコ型の目が全てを物語っている。ほぼ同室とはいえ心配な点でもあったので、杞憂に終わってほっと一息つきながら亮介は綾乃の背後に回る。他人のピロートークを眺めるというシュールなシチュエーション。自分が透明人間にでもなったようだ。


 綾乃はT君に、T君は綾乃に対して心の距離がグッと縮まっているのが見て取れた。会話は、感想や性的志向についてのものから、だんだんと世間話のようなものへと移ろいゆく。綾乃の表情はオンナのそれのままだ。嫉妬なのか、それとも悦びか。どちらかはわからないが、興奮していることだけは確かだ。綾乃の少女のように活き活きとした様子を見るのは新鮮だった。



 ◆



 一樹ではない男性と綾乃。よそ様だからだろうか、事後の朗らかさはいつも以上だ。饒舌にさえ見える。違和感? いや、そうではない。いつかのように、胃の底にふつふつと湧き上がってくるタールのようなものが亮介の額に脂汗を浮かび上がらせる。


(なんだろう、この気持ち……)


「す、すみません、ちょっともう俺らは帰ります。さ、綾乃、急いで服着て」


「え、ちょっと待って、いきなりどうしたの?」


 見たことのない様子の亮介に驚きつつも、慌ててワンピースに袖を通す綾乃。


「俺、綾乃を今すぐ独り占めしたくなったんです。そんなこんなで、本当、マジでありがとうございました」


「え、あ……はい」


 突然の様相の変化に目を白黒させるT君。なんとか着替えを完了して、二人はスリッパを履き出口に向かっていく。


「また連絡します、おやすみなさい」




 エレベーターに乗り込んだ亮介はすかさず綾乃にキスして言う。


「綾乃、なんか俺すごく泣きたいよ。こんな気持ち初めてかも、寂しい悔しい苦しい!」


「あ、うん、わかったから、わかったから落ち着こうね、もうすぐ、うん、もうすぐ着くからね」


 充血した亮介の目に驚いたことは口にせず、姉さん女房として夫をたしなめる綾乃だった。

 



 ◆




「どうだった? 俺の形、ちゃんと覚えてた?」


 そんな言葉を投げかけながら、綾乃の腰を掴む亮介。エレベーターの時とは違って、オスの暴力性を押し出していく。腰の動きは不規則な動きとなりながらも、綾乃の左肩に噛みついたりしてT君の痕跡を必死に消そうとしているかのようだった。


「りょ、亮介ちゃん、……そんなに、そ、そんなにいちゃったの?」


「うん、うん、だって……ぁあ、あんな綾乃見たことなかったもん」


「あたしもよ、あたしも亮介のこと考えてた……」


「嬉しい……綾乃、絶対、ぜったいに、俺だけの綾乃だからね」


「わかってるわ、あなただけ……あなたのもの……よ」


「綾乃、綾乃!」


 全身がビクつく亮介。後ろから綾乃を抱いたままその背中に顔を埋めている。

 こぼれた涙はワンピースににじみ、やがて綾乃の汗と混じっていった。

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