6



 クマの形をした木製の目覚まし時計は、未央が時計の読み方を覚えたころ、家族旅行に出かけた先で、父に買ってもらったものだった。


 作家の名前は覚えていないが、まだ駆け出しの新人作家の作品で、これまでずっと手直しをしながら大切に使い続けている。


 心を込めて生み出した作品は、誰かの手に渡ったのち、大切な人と過ごした思い出とともに生きていく。その経験が、子ども心に作家へのあこがれを抱くきっかけになった。


 背を向けているクマの目覚まし時計に、未央は手を伸ばす。どのぐらい眠っていただろう。


「ああ、未央さん、起きましたか。今は夕方の5時ですよ」


 ひょいと時計をつかみ、クマの顔をこちらに向けてくれたのは、白いシャツを着た男の人の手だった。


 聞き覚えのある声に驚いて、勢いよく起き上がる。朝晴が起きるまでずっとそばにいてくれるだろうという安心感の中、眠りについたはずだった。それなのに、目の前にいるのは公平だ。


 あんなことを言ったから、朝晴は失望して帰ってしまったんだろうか。文彦に裏切られた自分に、幸せな結婚ができるわけない。そんな不安を彼にぶつけた。


 そんなこと言わなくていい。俺となら必ず、幸せになれる。そう言ってくれる期待があっただろうか。しかし、朝晴は誤解したかもしれない。情熱的な彼なら、いくら突き放してもそばにいてくれる。そういう甘えから出た言葉だと思われても仕方ない。実際、甘えていたから言えたのだろう。


「めまいは大丈夫?」


 黙り込む未央を心配するように、公平が顔を近づけてのぞき込んでくる。


 文彦にはあまり似ていない、くるりとした大きな瞳を見つめ返すと、公平は照れくさそうに目をそらした。しかし、未央は冷静だった。公平は義弟になる人だと思っていたから、文彦のいない今でも、恋愛対象としての感情が湧いてこない。


「井沢さんには会った? わざわざ来てくれたのに、お礼がまだ言えてなくて」


 そう言うと、公平はほんの少し、おもしろくなさそうな顔をした。ああ、知っている顔だ、と未央は思う。文彦も、公平との仲を疑っていたとき、同じ顔をしていた。


「妹さんを病院に連れていったよ。未央さんは必要なら俺が連れていくからって、帰ってもらったんだ」

「しぐれちゃんもどこか具合が?」

「さあ、この前は車椅子だったけど、今日は元気そうに走り回ってたよ」


 公平は、わからないと肩をすくめる。


「走り回ってた? そう言えば……」


 階段をのぼり切ったところでめまいがして、近くにあったチェストに手をつこうとしたら、手を滑らせて倒れてしまった。あのとき、しぐれが駆けつけてくれて、お兄ちゃん呼んだから大丈夫、って励ましてくれたのだった。


「歩けるようになったのね。よかった」


 ほっと息をつく。


 今ごろ、しぐれだけじゃなく、朝晴もあんどして、喜んでるだろう。はやくふたりに会って、喜びを分かち合いたい。


「私も、病院に行ってきます」


 ベッドから降りようとすると、手を差し伸べられた。


「一緒に行くよ」

「あ……、私は大丈夫だから。しぐれちゃんの様子を見に行きたいだけ」

「そんなにあの人に会いたいんですか?」

「どうしてそんな言い方」


 言ってもないことを疑って、不安になって、未央を傷つける。公平は、文彦と同じことをしてるって気づいてないのだろうか。


「未央さんが不安にさせるからだよ」

「私がいけないの?」

「いけないとかじゃなくて、今は俺の気持ちに向き合ってほしい。倒れるぐらい、この店の切り盛りは大変なんですよね。もう限界なんですよ。一緒に東京へ戻りましょう。俺と結婚しても、切り絵は続けたらいい。個展だっていくらでも。財前の妻として生きる必要なんてない。俺と一緒に生きていてくれるだけでいいんです」

「そんなに簡単に言わないで」

「簡単じゃないよ。兄さんが死んで、ずっと考えてたことだ。俺はずっと、どうしたら未央さんを幸せにできるか、それだけを考えてきた」

「だったら、もう私には関わらないでください」


 そう突き放すと、胸がちくりと痛んだ。しかし、公平はその何倍もひどく傷ついた顔をした。


 どうしてうまくいかないのだろう。自分を大切に思ってくれている人を大切にできない。


「ごめんなさい。公平さんに不満があるわけじゃないんです。でも、財前の妻にはなれません」

「どうしても?」

「もう不用意に傷つきたくないんです」

「傷つかない人生はないよ。だからこそ、一緒に生きて、乗り越えるために結婚するんです」

「わかってます」

「だったら……」


 未央は首を横にふる。


「もし、次に傷つくことがあるなら、好きな人のために傷つきたいんです」

「俺のことは好きになれない?」

「……ごめんなさい。こんな言い方しかできなくて」


 ひざの上でぎゅっとこぶしを握ると、公平は落胆したような息をつく。


「兄さんはよくて、俺がだめな理由はわからないけど、あの人を好きな気持ちはわかる気がするよ」

「それは……」


 違う。そう言いかけて、口をつぐむ。きっと違わないと思ったからだ。朝晴は魅力的で、心惹かれる。それは人として。そう思ってきたけど、ひとりの男性として好きな気持ちは、認めなきゃいけないところまできている。


 ただあと一歩が踏み出せない。朝晴を信用してないわけじゃないけど、過去の出来事が消極的にさせる。そんな気持ちまで見透かしたように、公平はあきらめに似た表情を浮かべる。


「あの人は未央さんにはつり合わないよ。きっと苦労する。でも、あの人はどんな苦労にだって立ち向かって、未央さんを守れる強さがあるよね」

「井沢さんに何か言われたの?」

「愛と執着を間違えるなって言われたよ。俺は間違ってるのかな。兄さんと未央さんと、三人でいた頃は本当に楽しかった。兄さんは真面目すぎる人だったけど、未央さんと一緒にいると本当によく笑ってた。俺は兄さんを変えた未央さんとずっと一緒にいたかったよ」


 公平は差し伸べていた手をようやく引っ込めた。どうあっても、未央の心は手に入らない。そうわかってくれたのだろうか。


「私も、文彦さんに執着してたのかな。もういないのに、私をどう思ってたんだろうって、ずっとそればっかり」

「手放しますか?」

「執着を?」

「はい。一緒に。未央さんとならできる気がします」


 未央はそっとうなずく。


 文彦はもうふたりにとって過去のものになる。それが怖くてさみしくて、いつまでも手放せないでいたけれど、そろそろ、眠らせてもいいのかもしれない。


 公平は腰をあげると、情けなさそうにほほえむ。それが今できる、せいいっぱいの笑顔だったのだろう。


「未央さんに会えなくなるのはつらいけど、婚約の話はなかったことにします。八坂のおじさんには、俺から謝っておきます」


 そう言うと、公平はスマホを取り出す。どこかへ電話をかけたようだ。


「ああ、もしもし、俺です。未央さんをお願いできますか? ……ええ、顔色もよくて、心配ないとは思いますが、井沢さんが来られたら、もっと元気になると思いますから。それじゃあ、失礼します」


 電話を切る公平に尋ねる。


「井沢さんに電話したの?」

「妹さんは問題ないようで、自宅に戻られたそうです。井沢さん、もう近くまで来てるみたいです。鉢合わせすると気まずいから、俺は帰るよ」

「近くって……」

「俺と未央さんをふたりきりにさせておきたくないんだよ」


 公平はくすりと笑うと、驚きを隠せずにいる未央を残し、帰っていった。

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