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「もう閉店ですかー?」


 看板を片付けていると、少し離れた場所からしぐれが声をかけてきた。急いでやってくる車椅子の後ろには、ふくらんだマイバッグがある。買い物帰りに寄ってくれたようだ。


「大丈夫ですよ。少し風が出てきたから、早めに入れていただけなんです」


 立て看板を店の中へ入れると、しぐれは「また見に来ちゃった」とお茶目に笑う。


「何度でもどうぞ。私もしぐれさんにお会いしたかったですから」

「私に? どうして」

「もっとお話したいなって思っていたんです」


 きょとんとする彼女に、そう答える。少しでも自分の作品に興味を持ってくれた人は大切にしたい。未央はそういう気持ちで接しているけれど、意外なことのように思えたのだろうか。


「兄とも?」


 しぐれは自分のことよりも気になっているように尋ねてきた。


「もちろんですよ」


 そう言うと、彼女はほんの少し考え込むしぐさをした。朝晴から何か聞いているのだろうか。


 この数日、朝晴の誘いを断ってよかったのかと考えることはあった。人なつこい彼は初対面の相手だろうが、誰にだって親切だし、気軽に話をしてくれる。カフェへ誘ってくれたのも、特別な意味なんてなかっただろう。


 彼はあいかわらず、本当かどうかは別にして、近くに来たからと言っては店に顔を出してくれる。カフェへ行こうとはもう言わないが、切り絵の感想を必ず一つ言って帰っていく。


 そんな姿を見ていると、生徒の良いところを必ず一つは見つけて褒めてくれるような、思いやり深い先生を想像するのはたやすい。そのあけすけな人の良さに未央は救われたことがあるのだが、あのときの感謝の気持ちはなかなかうまく切り出せていない。


「何度も来たら、迷惑なんじゃないかなって思ってました」


 しぐれは肩をすくめてそう言う。


「とんでもない。私がそう思わせちゃったのかな」

「そうじゃなくて。兄が失礼ばっかりしてるみたいだから」


 やはり、朝晴から何か聞いているようだ。しかし、何をどう話したら、彼を迷惑がってることになるのだろう。


 中学校で行われたイベント以来、学生のお客さんが増えた。イベントに誘ってくれた彼のおかげの部分はたくさんあるだろう。朝晴の少しばかり強引なところに戸惑いはするけれど、感謝こそすれ、迷惑に思うことなど何もない。


「いくら大切に思っていても、伝えるのは難しいですよね」

「兄が大切?」

「しぐれさんも大切ですよ」


 しぐれほど、同じ作品を何度も見にくる客はいない。朝晴の妹でもあるし、これからも交流は続くだろう。大切という言葉を使ったけれど、やはりうまく伝えられていない気がしたのは、しぐれが物思いにふける表情をしたからだろうか。


「大切……か」


 しぐれはつぶやくと、車椅子のハンドリムを回し、名残の夕立の目の前へ移動する。


「彼のことは大切に思ってたけど、すれ違っちゃったんだよね」

「うまく伝えられない気持ちってありますよね」

「ちゃんと伝えられてたら、苦しそうな顔を見なくてもよかったのかな」


 お互いに好きだったのに別れたのだろうか。別れを決意するまでの葛藤を想像するのは難しい。けれど、未央にもそういうことはあった。いまだに苦しい日もある。きっと、しぐれにもあるのだろう。


「でも、この切り絵を見ると、彼との楽しい思い出がたくさん浮かんできて、何もかも全部、いい思い出にできるような気がするんです」


 ほんの少し、晴れやかな表情で彼女はそう言った。


 しぐれは以前、夏が好きになれそうだと言っていた。バイク事故に遭ったのも、歩けなくなったのも、恋人と別れたのも夏の出来事だったのだろう。


「兄が、そんなに気になるなら買ったら? って言ってくれて」

「井沢さんが?」

「貸してくれたんです」


 そう言って、しぐれは小さなショルダーバッグから財布を取り出す。


「アルバイトして返すからって言ったら、期待してるよって」

「優しいですね」

「兄は情けない私を見捨てずにいてくれてるんです。いつまでも過去にこだわってたらいけないですよね」


 さまざまあるであろう恋人への気持ちに区切りをつけて、前へ進む決心をしたのだろうか。


 未央は羨ましい気がした。自分はいつまでも、別れた婚約者になぜ裏切られたのかと、そればかり考えてしまっている。


「井沢さんは今日、ご自宅にいらっしゃるの?」

「病院に行ったおばあちゃんを迎えに行くって言ってました」

「じゃあ、そろそろ帰ってこられるかな」

「兄に用事ですか?」


 しぐれは興味津々な目で見つめてくる。何か誤解してるみたいだ。


「あ、いいえ。名残の夕立はサイズが大きいですから、井沢さんに迎えに来てもらった方がいいと思ったんですけど」

「ひざに乗りますよね?」


 すぐさま彼女はそう言う。


 新しい自分になるための第一歩として購入する切り絵だ。朝晴の助けを借りたくないのかもしれない。


「それじゃあ、途中まで一緒に行きますね」

「切り雨さんが?」

「両親に出したい手紙があるんです。いつも、図書館前のポストから出すので、そこまで」

「ご両親にお手紙?」


 メールで連絡取れるのに、と彼女はふしぎそうだ。


「毎月、連絡するように言われてるんですよ。せっかくだから、切り絵のポストカードを送ってるんです」

「へえー、ご両親と仲良いんですね」


 両親の反対を押し切って清倉へ引っ越してきた手前、毎月連絡するようにとの彼らの希望は最低限聞こうと思っているだけだったが、しぐれは純粋に家族仲が良いと思ったようだ。


「元気でいるのがわかれば、安心するんですよ、きっと」

「そっか。私も親に出そうかな」


 ぽつりとつぶやくしぐれをほほえましく見つめながら、


「すぐにご準備しますね」


 と未央は言うと、名残の夕立へ手を伸ばした。

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