第36話「手放す」



 麻里奈はその日から学校に来なくなった。俺は彼女が自分の親に嫌がらせをされたことを伝え、学校にも知れ渡っていることを恐れた。しかし、彼女は意外にもそのことを誰にも伝えていなかった。重い足取りで学校に向かったが、普段と同じ当たり前の生活が待っているだけだった。

 だからといって、安心という感情は微塵も抱かなかった。家族も先生も誰も責めてこない普通の日常が、俺には異様な光景に思えた。


 その一週間後、俺は父さんの仕事の都合で遠方へ引っ越すことになった。麻里奈とはあの日の騒動以来、一言も口を交わさず、顔も合わせないまま別れた。引っ越し当日、見送りに来てくれたクラスメイトから聞いたが、彼女は風邪を引いてしまったらしい。涙で別れを告げるクラスメイト達の中に彼女の姿を探すも、期待するだけ無駄だった。諦めて父さんの車に乗り込んだ。


「……」


 罪悪感は胸を突き破りそうなくらい抱えているのに、俺は謝ることもできずに旅立ってしまった。最後に見た麻里奈の顔が泣き顔とか、どんな仕打ちだろうか。しかも、その泣き顔の原因が俺だなんて……。車の座席に座る俺の手には、麻里奈のヘアピンが握られていた。俺のくすんだ心とは違い、彼女の純粋さを表すように綺麗に輝いていた。








「ふぅ……」


 俺が引っ越してから、実に10年の月日が流れた。あんなに小生意気なガキだった俺も高校生になり、余裕と落ち着きを見せる青年となった。来年度には3年生になり、いよいよ大学受験を迎える。小学生の頃の思い出なんかすぐに消えて無くなると思っていたが、麻里奈と過ごした時間はあまりにも愛おしかったらしく、今でも鮮明に心に残っていた。

 特に、彼女への罪悪感は忘れることなど片時もなかった。彼女のヘアピンは常に筆箱に入れておき、目に入る度に彼女の泣き顔を頭に叩き込んだ。この罪は死ぬまで背負うべきだ。


「あっ……」


 その日、俺は校外模試のために電車を乗り継いで遠出をした。その帰り道、改めて模試の要項を読み返して気付いた。かつて自分が暮らしていた町がここから近い。見覚えのある町名が目に飛び込んできて、麻里奈との思い出がより鮮明に感じられた。


「麻里奈……」


 俺は降りる予定のなかった駅に、腕を引っ張られるように慌てて降りた。久々に麻里奈に会えるかもしれない。そんな根拠のない考えが唐突に思い浮かび、気が付けば俺は幼少期の記憶を頼りに彼女の家に向かっていた。俺も親も彼女と連絡先を一切交換していない。彼女が今もあの家に住んでいるという保証もない。しかし、それは俺の足を止める理由にはならなかった。

 逸る胸を押さえる俺の手には、あのヘアピンが握られていた。もしかしたら、もう一度やり直せるかもしれない。無邪気に笑い合ったあの頃に、また戻れるかもしれない。唐突に舞い込んできたチャンスを手放したくない。もし本当に彼女に会えたら、あの時奪ってしまったヘアピンを返したい。泣かせてしまったことを謝りたい。


 そして、ずっと変わらないこの思いを伝えたい。


「麻里奈……麻里奈!」


 都合よく麻里奈に会える可能性など、限りなく無に等しいことは承知している。それでも、幼い頃に通っていた小学校、麻里奈とよく遊んだ空き地、ヘアピンを奪った罪悪感に押し潰された公園……。かつて暮らしていた町の変わらない景色を目にする度に、あの時の記憶が鮮明に蘇る。

 麻里奈は俺のことを嫌っているだろうか。いや、そもそも忘れ去られているかもしれない。だが、ここまで来て引き返すという選択肢など思い浮かぶはずがない。僅かに残された希望を頼りに、俺は麻里奈の姿を探した。






「それじゃあね、美波」

「うん、またね〜!」


 その時、俺は奇跡を目の当たりにした。


「さてと、早く復習しなきゃ……」


 俺は車道を挟んだ反対側の歩道に立つ彼女を発見すると、完全に動きが止まった。薄い桃色のミディアムヘアーに、まん丸としたつぶらな黒い瞳、小さな背丈から放たれる可愛らしい声。高校の制服を着用し、身長も伸びて大人びた雰囲気が感じられるが、間違いなく麻里奈本人だ。信じられない。まさか本当に再会できるなんて……。


「な、なぁ!」

「はい?」

「お、俺のこと……覚えてるか?」

「え、えっと……」


 俺は急いで反対側の歩道に回り、麻里奈に近付いた。友人と別れて一人になったタイミングを見計らい、勇気を出して話しかけに行った。麻里奈は首を傾げながら俺を見つめる。俺も背丈が伸び、声も低くなって大人びている。一目でかつての幼なじみだと気付くことは難しいだろう。


「これ……」

「え?」


 俺は例のヘアピンを差し出した。


「ずっと会いたかった。これを返して謝りたかった。すまなかった……麻里奈」






「ショウ……ちゃん……?」


 麻里奈の瞳がだんだん大きく開いていく。10年ぶりに彼女は俺のあだ名を呼んだ。ショウちゃん。そのあだ名は俺にとって彼女との絆の象徴であり、誇りであった。よかった……覚えてくれていたんだ。


「ショウちゃんなの!? 久しぶり! このヘアピン……もしかして返しに来てくれたの? ありがとう!」

「え……」

「本当に久しぶりだね! 凄い……すっかり男の子らしくなったね! ねぇ、今まで何してたの? 今どこに住んでるの?」


 麻里奈も懐かしい気持ちに包まれたのか、次々と和気あいあいに尋ねる。俺は身構えていた割には拍子抜けした。大切にしていたヘアピンを奪われるなんて酷い嫌がらせを受けたにも関わらず、麻里奈はそのことを忘れているかのように、明るく俺に話しかけてくれている。ヘアピンを見たらその時のことも否が応でも思い出すだろうに、どうしてあの時のことを責めないのだろうか。


「麻里奈、本当にごめん。俺、お前に酷いことを……」

「そんな……謝らなくてもいいんだよ。だって、あんなに優しいショウちゃんが、理由もなしに意地悪なんてするはずないもん。確かにあのときはちょっとびっくりして泣いちゃったけど、ショウちゃんもきっと何か事情があったんだよね? そうだよね?」


 麻里奈は優しく俺に微笑みかける。怒りに身を任せて責めるかと思いきや、むしろ俺の事情を察して許してくれた。しかも、わざわざヘアピンを返して謝りに来たことに感謝をしている。そうだ、実際彼女は俺に嫌がらせをされたことを、誰にも伝えなかった。俺には憎しみなど一切抱いていなかった。


「そんなことより、スマフォ持ってる? 連絡先交換しようよ!」

「……」

「ショウちゃん……?」


 俺は言葉を失った。感動を通り越して罪悪感が限界を迎えた。改めて、俺がしでかした罪の惨さを思い知らされた。

 こんなに俺のことを大切に思ってくれている純粋な女に、俺はなんて酷いことをしてしまったのだろう。どうせなら思い切り責め立ててくれた方が、すっきりしたかもしれない。自分の呆れる程の罪深さに苛まれる。ましてや、そんな純朴な彼女に恋心を抱いてしまうなど、おこがましいどころの話ではない。


 これではっきり分かった。俺のような罪人には、麻里奈と関わる資格はない。


「麻里奈……」

「なぁに?」






「これ以上俺と関わらないでほしい」


 これ以上麻里奈と一緒にいたら、俺はまた彼女に酷いことをしてしまうかもしれない。もう二度と彼女を傷付けたくはない。こんな落ちぶれた人間とは一緒にいない方がいい。俺なんなと関わらなければ、彼女は幸せになれる。何が「やり直せるかも」だ。何が「思いを伝えたい」だ。結局は自分本位じゃないか。


「そんな……なんで……」


 麻里奈は受け入れられない様子だった。どうしてそんな悲しいことを言うのかと、瞳から溢れ出す涙で訴える。何十年かけて求めていた宝が入った箱を見つけたのに、それを開ける鍵をどこかに失くしてしまったような悲しみが、彼女の胸を酷く抉る。彼女の手足が幽霊に取り憑かれたようにプルプルと震える。いいんだ。頼むから、このまま離れてくれ。俺なんかに執着しないでくれ。


「嫌だ……私……」

「離れろ!!!」


 俺に近付こうとする麻里奈を、俺は無理やり怒鳴って突き放した。こうでもしないと、いつまでも俺に優しく寄り添ってくれる彼女を諦めさせることはできない。麻里奈は涙をそこら中に零しながら、その場を駆け出して離れていく。

 ヘアピンも返せた。これで俺の役目は終わりだ。やっと胸がすっきりした。これでよかったんだ。俺は麻里奈に相応しくない。もっと心が綺麗で、思いやりのある男と幸せになってほしい。


 俺は麻里奈とは逆の方へ向かう。


「じゃあな……麻里奈」






 ピー!


「……!」


 ふと、耳の奥にけたたましいクラクションの音が飛び込んできた。すぐに振り返り、通行人が騒いでいることに気付く。彼らが指差す方向には、車道のど真ん中で急停止したまま動かないトラックがあった。


「おい、誰か倒れてるぞ!」

「大変! 救急車!」


 俺は嫌な予感がして走り出した。何かの間違いであってくれと願っても、そうとしか考えられない可能性が現実を見せつける。


「まっ……麻里奈!」


 トラックの影から一人の女子高生が頭から血を流して倒れているのを発見した。もしかしなくても、麻里奈しか考えられない。彼女は反射的に駆け出したことで、気付かぬ内に車道に飛び出してしまい、迫ってきたトラックにはねられて重傷を負った。直前で急ブレーキはかけたものの、衝突は避けられなかったらしい。


「麻里奈! しっかりしろ!」


 俺は慌てて麻里奈の元へ駆け寄った。弱々しい体を抱き上げ、大声で叫ぶ。かなりの衝撃だったようで、頭部から流れ出た血はその辺のコンクリートや、彼女の制服、両手などを赤く染めていた。嘘だろ……こんなことって……。


「ショウ……ちゃん……」


 麻里奈の意識はどんどん遠退いていく。彼女は最後の力を振り絞りながら、血に染まった右手で俺の制服のネクタイを掴んだ。そして、魂が抜けたように腕が地面に垂れ落ちる。心臓の鼓動は微かに聞こえる。死んではいない。気を失っただけだ。だが、頭や全身を強く打ち付けている。このままでは命に危険が及ぶ。


「麻里奈……麻里奈ぁ!」


 俺は気を失っていると気付いていながら、それでも尚麻里奈に呼びかけ続けた。






 事故を見かけた通行人が119番通報し、麻里奈は救急車で運ばれていった。だが、気が動転してしまった俺は病院に向かうことはできなかった。今回の事故の責任は俺にあるからだ。俺が無理やり彼女を突き放さなければ、事故に遭うことはなかったかもしれない。傷だらけの彼女と顔を合わせるのが怖かった。その日、俺は逃げるように麻里奈の暮らす町を後にした。


「……」


 だが、いつまでも他人面ではいられない。事故から3日後、俺は密かに麻里奈が入院している病院へ見舞いに行った。本人と話すつもりはない。こっそりと様子を見るだけだ。俺が完全に悪いのに、きっと許してくれるであろう麻里奈の優しさが、逆に俺を苦しめる。顔を見られないように、フードを深く被って厚着をして向かった。


「ショウ……ちゃん……だめだ。思い出せない……」




「嘘……だろ……」

「あの〜、もしかして麻里奈に何か用でも……」

「……!?」

「あっ、ちょっと!」


 俺は麻里奈の病室のドアから、こっそり顔を覗かせて様子を確認する。だが、彼女の友人に声をかけられて、慌ててその場を離れる。麻里奈の独り言が耳に入って驚愕した。頭部に強い衝撃を受けたからだろうか。麻里奈は俺に関する記憶を完全に失っていた。俺の本名も、顔も、かつての思い出も、事故に遭った経緯も……。


「麻里奈……俺のせいで……」


 事故に遭う直前、俺に一方的に縁を切られたことにより、相当ショックを受けたのかもしれない。麻里奈の話しぶりから、俺に関する記憶だけがごっそりと抜け落ちている様子だった。

 神様は一体どれだけ俺を絶望に叩き落とせば気が済むのだろうか。嫌がらせをして謝れず終いで俺達を引き離し、久しぶりに再会できたと思いきや、麻里奈の純粋さを前にしてこれ以上関わせたくないと思い込み、突き放した挙句に彼女の命を危険に晒し、記憶まで奪ってしまうなんて……。


 でも、悪いのは全て俺だ。全部俺が救いようもなく愚かな人間であるからこそ、招いてしまった結果ではないか。また俺はとんでもない罪を犯してしまった。






「どうしたんだ、翔也? 最近様子がおかしいぞ。何かあったのか?」

「ちょっとな……」


 しばらくの間、学校を休んでしまった。授業などまともに受けられる精神状態ではなかった。数少ない高校の友人がしつこく俺の家に通ってくるものだから、呆れられる前に学校に復帰した。それでも、麻里奈への罪は酷く胸に伸し掛かる。


「まぁ、何があったのか聞く気はねぇけどよ。そんな落ち込んでないで、ほら! これ見ろよ!」


 友人は詳しく追求するつもりはなく、ただただ明るく振る舞って慰めてくれた。俺としてもそうやって接してくれる方が精神的にも助かる。やたらとしつこいのが玉に瑕だが。そんな中、彼は俺にスマフォを見せつけてきた。画面には、ファインディング・ラブの出演者オーディションへの応募サイトが表示されていた。


「これって……」

「この番組まだやってるらしいぜ。しかも、新作の出演者募集してるんだとよ。俺達で出てみねぇか?」

「え? 冗談だろ……」

「いやいや、お前ルックスだけは抜群だから、出演者したらいいところまで行けるって」

「ルックスだけは余計だ」


 容姿はよく褒められるから嬉しいは嬉しい。だが、恋愛リアリティショーに出演できる程かと言われると、そこまでの自信はない。ましてやファインディング・ラブのようなサバイバル系の恋リアとなると、余程の恋愛経験者でない限り優勝など夢のまた夢だ。


 でも……幼い頃に麻里奈と見ていた時、いつか自分も出演すると宣言したな。




『俺達で優勝しよう! 麻里奈!』

『うん! 絶対だよ……ショウちゃん!』


 笑顔で語りかける麻里奈の顔が頭に浮かんだ。彼女を交通事故に遭わせ、記憶喪失に追い込んだあの日から、彼女との関係は完全に断ち切るべきだと思った。だが、どうしてもかつての彼女の笑顔と可愛さが忘れられず、彼女と隣にいることを求めてしまう自分がいる。


「……」


 高校の帰り道、俺は一枚の写真を見つめながらとぼとぼと歩く。幼い頃に麻里奈と撮ったツーショット写真だ。引っ越し前に母さんに現像してもらった写真を、俺は自分の顔の部分をマジックで塗りつぶした。大切な彼女を傷付けた自分の顔など見たくもなかった。あの頃の俺はかなり自暴自棄に陥っていたらしい。今でも変わらないような気もするが。


「ファインディング・ラブ……」


 俺はピースサインを作る麻里奈の笑顔を見つめる。俺は彼女と約束した。一緒にファインディング・ラブに出演して優勝しようと。懐かしい記憶が頭に過り、久しぶりに胸の中に温かいものを感じた。そして、ズボンのポケットからスマフォを取り出し、友人が勧めていたオーディションの応募サイトを検索した。


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