第5話

 あの後は特になにも無く、いつも通り一人で持って帰ることができる量の食材を持って帰って来た。




 もしかすると、自宅マンションの近くで待ち伏せされているかとも思ったが、菫には出会わなかった。




 それもそうだろう。菫の目的は自分の会社を大きくすることだ、もっと言うと競合他社である翠の会社に勝つこと。そのために碧を翠から奪おうとしたのだが、それも失敗。となれば碧に執着する理由は無い。危ないのは翠の方だ。




 ――気をつけてね。翠が帰ってくるのを持っているよ。




 表情の見えないメッセージでは、菫の話はしない方がいいだろうと判断した碧はあたり触りの無いメッセージを送った。




 送ったのだが、よく考えると、碧は菫がどのようにして翠の邪魔をするのかは知らない。令嬢であるだけで、別に碧は会社の経営のことなどなにも知らない。




 後を継ぐ兄は、幼少の頃からそういった教育を受けていたらしいのだが、碧は跡継ぎにもなる訳ではないため、一般家庭出身の翠と出会うぐらいには、幼少の頃は自由があった。




 だから菫がどんな手を使ってくるなんて皆目見当もつかない。もしかすると、小説や漫画みたいに暗殺者を雇うのだろうかと考えたが、やはりそれは無いだろうと頭を振る。




 なにも知らなすぎる。翠の恋人として、恥ずべきことだろう。だけど今更、翠に聞こうにも翠は答えてくれるのだろうか。




 そんな疑念が抱くが、自分が翠を信じなくてどうする。と言い聞かせて疑念を払拭する。




 買ってきた食材を冷蔵庫に入れ終え、することの無くなって碧は、干している洗濯物をなんとなく触りながら、翠が帰って来るのを待つ。






 日が沈み、そろそろ夕食時だ。




 といっても、翠が帰るまでまだ少し時間がある。だからといってなにもしない訳にはいかない。手の込んだ料理を作って翠を待とうと、早速仕込みに入る。




 今日は真面目な話をする予定だ。これが楽しい食事になるかは分からない。だから酒は出さないし、それに合う料理は作らない。




 それならなにを作ろうか、そう迷ったが、買ってきたものは翠の好きな食材ばかり。翠の好きな料理ばかり作ってしまうと、翠の機嫌を取ろうとしていると思われかねない、そんなことを思ったが、翠はそんな邪推しないだろうと信じる。碧自身、久しぶりに家で翠と一緒に夕食を共にできる。だから翠を喜ばせたい、ただその一心だった。




 翠が好きな煮物を作る準備をする。食材を切って鍋で煮込んで味をつける。




 そうやっていると、時間は溶けるように進んでいき、もうそろそろ翠の帰宅する時間が近づいてくる。




 他にもサラダや汁物を作って準備を進める。一汁三菜、基本のおかずを準備し終えたところで、丁度翠が帰宅する。




「……ただいま」


「あっ……おかえり!」




 なんてことないはずなのに、妙にぎこちないやり取り。互いに目を合わせられずにすれ違う。部屋に戻った翠はスーツから着替えて戻ってくる。




 そして黙って、既に料理が置かれているテーブルに座る。




 無言で料理を見つめている。なにを言う訳ではなく、ただ黙って夕食を見ている。恐らく、碧が前に座るのを待っているのだろう。




 間も無く翠の正面に碧が座る。それを合図に、二人は手を合わせて夕食を摂り始める。




 互いになにも話さない。様子を窺っているのではなく、なんと切り出せばいいのか分からないといった風に。




「「………………」」




 呼吸は重なり合うがただそれだけ。




 心地の良い時間のはずが、息の詰まる時間が続く。




 料理は美味くできたのに、あまり美味しいと感じない。いつもならなにか言ってくれる翠はなにも言わない。




「……ねえ」




 いつまでも黙っている訳にはいかない。意を決した碧が食べる手を止めて声を出す。




 黙ったままの翠だったが、手を止めて、目を碧に向ける。




 やっと目が合った。互いに不安に揺れる瞳を合わせながら。




「あの、ごめんね」


「……なにが?」




 なにかを期待しているような、だけど素っ気無く返す。




「えっと……昨日のこと。菫と連絡を取り合って……会う約束をしていたこと」




 それを聞いて、ギュッとこぶしを握り締めた翠。分かっている。あれは誤解だと。あの後碧の言っていたことが正しいと。信じられるはずだと。なのに、翠は返事をすることができない。




 碧の目は伏せられている。碧はこんな演技はしないし、こんな演技ができるはずない。だから、信じられる。……でも、本当にそうなのか?




 顔を合わせてしまうと余計なことを考えてしまう。




 碧は大手老舗企業の令嬢だ。本人はなにも知らないと言っているが、本当にそうなのか? もし、今のなにも知らない碧自身が嘘で塗り固められたものだとしたら。




 翠は立場上、社会的に身分のある者たちと接する機会が多い。そしてその全てが当然ながら自社、自分の利益を求める。そのため、口ではどれ程丁寧に言おうが、その中身を鵜吞みにする訳にはいかない。それに相手が、若く、後ろ盾のなんにも無い翠というのなら当然だ。




 気の抜けない会話、相手の顔色を見て辟易する。




 碧にはそのような感情を抱きたく無い。碧だけは、そういったものを無視して、ありのままで接したい。




「ええ……今日会ったわ」




 考えても分からない。だったら試すしかない。




「え⁉」




 翠の言葉に碧が声を上げる。




「会ったの⁉ 菫に⁉ 大丈夫⁉ なにもされなかった⁉」


「ええ……大丈夫だったけれど」




 あまりの迫力に面食らってしまった翠。




 翠にはなぜ碧が声を上げたのかが分からない。危ないのは碧のはずなのに。菫は碧を狙っているはずなのだから、心配するのは自分の身のはずなのに。




「よかったあ~」




 糸が切れたかのように椅子に沈み込む碧。




 菫が翠に会ったと聞いた時、まさかと思ったが、なにも無かったようで安心した。




 それをきっかけに、二人は言葉を交わすことに戸惑いは無くなった。




「どうしたの?」


「いや、翠が無事でよかったなって」




 そういえば、碧からメッセージが送られてきていたことを思い出す。




 あの時はいつも通りの『気をつけて』だと思ったが、菫が関係しているのだろうか?




「どうして?」




 分からないことは聞くしかない。




 純粋な疑問を覚えた翠が碧に聞く。聞かれた碧は、答えに窮したらしく、歯切れの悪い返答をするのみ。




「いやあ……翠と話したかったから、だよ」


「……そう」




 誤魔化すのが下手だ。感情がすぐに出る碧は噓なんてつけない。




 いい方向には信じられないのに、悪い方向には信じてしまう。自分でも最低だと思う。




 その苛立ちと、碧への不信感が翠の態度にも出てしまう。




 明らか不機嫌に翠の顔を見て、肩を震わせる碧。




 マズいことをしてしまった。碧がそう気づいたときには時すでに遅く。翠は席を立つ。




 なにを言っても碧ははぐらかす、勝手にそう思って、話し合うことなんてせずに、もう半ば諦めるように。




「待って!」




 碧は翠を止めようと立ち上がる。




 翠にそんなつもりはないのだが、人に強い感情を向けられることに慣れていない碧にとっては、今の翠は恐怖でしかない。足が震えるが、翠に本気で嫌われてしまうと終わってしまう。




「待って!」


「なによ‼」


「ひっ……⁉」




 慌てて翠の袖を摘まんだが、すぐに離してしまう。




 振り向いた翠の目に、恐怖に竦む碧の姿が映る。




 気づいた時には遅かった。




 碧は人に強い感情を向けられたことが無い。そんなことは知っていた。




 それに、そもそも碧に強い感情を向ける理由は無かった。




 だから向けたことは無かった。






 今、この瞬間まで。






 正直に言わない碧が悪い。




 話し合おうとせず感情的になる翠も悪い。




 どちらも悪くない、仕方が無いこと。




 互いが互いを思うあまり、起きてしまったこと。




 だけどそれは、翠から喜を解放したい碧にとっても、大切な人を信じたい翠にとっても致命的なこと。




 翠の感情が無くならないように、碧を傷つけないように、二人はこれ以上、向き合うことを避けてしまう。




「ごめんなさい……‼」




 歯が割れそうなほど噛みしめた口から絞り出した言葉、碧に背を向けて視界から消える。




 また一人取り残された碧はその場に力なく崩れる。




 せっかく話せそうだったのに、いったいどうすればよかったのか。正直に話しても、翠は話し合ってくれたのだろうか。




「違う……」




 そんなことを考える暇があるのなら、今すぐ翠に正直に話にいこう。




 腕に力を込めて、踏ん張って立ち上がる。




 翠はすぐそこにいる。少し歩けば、すぐに翠へ会いに行ける。




「なんで……‼」




 世界はまだ消えていない。翠の感情は消えていないということ、だからまだ大丈夫だ。




 大丈夫なのだが、もし話に行って、それで今度こそ翠の喜の感情が消えてしまったらどうしよう。




「動いてよ……!」




 それに、翠のあの目。今まで、この世界でも、元の世界でも、翠にあんな目で見られたことなんて無かった。




 初めて向けられた感情。強く、碧にぶつけられた感情。初めての衝撃に、足が震えて動かない。




「嫌だ……」




 言葉と共に涙も零れ落ちる。




 もう言葉は出ずに、止まらない涙を止めようと、無駄なうめき声だけが出る。

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