第3話
午前の仕事を終えた翠は、昨日碧のスマホを見たとき、菫が指定した場所へとやって来た。
やって来たといっても、堂々と現れるのではなく、身を隠して様子を窺っている感じだ。
指定された場所はオフィスビルが乱立している商業区。同じ様な場所が多く、本当にここで合っているのか不安になる。
スーツを着た人々が行き交い、誰が誰なのか見分けがつかない。翠もその中の一人だったのだが、道から外れた場所で様子を窺っているため、気づいていないが割りと目立っていた。
ここら付近は、翠の会社近くでは無いし、菫の会社近くでも無い。なぜわざわざここを指定したのか。
翠は腕時計で時間を確認する。もう間もなく正午だ、これだけ人がいても、もし碧が来たのならすぐに分かる。絶対に来ないはずだが、念のため。
今まで、碧にこういう感情を抱いたことはないのだが、昨日のあのメッセージは、翠がその感情を抱いてしまう程衝撃的なものだった。
碧だけはずっと自分のことを見てくれると思っていたのに、翠にとっての特別な存在では無く、碧もやはりそこらの人間と同じだったのだと。
あの時、碧は涙を流しながら否定した。あの涙は噓をついていないと信じたい。信じたいのだが、どうしても、一度疑ってしまうと、信じ切ることはできない。
そんなことを考えているだけでも、堪らなく胸が苦しくなってしまうのだが、どうにもならない。
「……最悪」
その言葉は誰に向けられた言葉か、口を衝いて出た言葉にハッと息をのむ。
微かに震える手は驚く程冷たくて、まるで魂が抜けてしまったかのようだった。
「翠さん……?」
突如として声をかけられた翠は、驚いた表情を隠せずに振り返る。
なぜこの声の主がここにいるのか、そう言おうとしたが――。
「目立つ場所にいらっしゃったので、声をかけさせていただいたの」
先回りして菫に答えられた翠は歯嚙みする。
「それで――どうしてここにいるのですか?」
ふわりとした菫の柔らかな印象とは程遠い、蛇のような鋭い目を向ける。
しかし翠は怯むことなく、毅然とした態度で返す。
「休憩していたのよ。あなたの方こそ、なぜこんな場所にいるのかしら?」
翠の氷柱のような視線を受けても、菫は気にした素振りをせず、ただただマイペースに、本気で困った様に頬に手を当てる。
「碧さんと待ち合わせをしていたのですが……まだ来ていないみたいですね」
菫のそんな態度に、翠はカッと頭に血が上る。今まで冷たくなっていた手に沸騰寸前の血が巡り熱くなる。
「碧があなたに会いに来る訳ないでしょう!」
きつく放った言葉翠の言葉に、本気で困った様な口調の菫が言う。
「約束したのですが……碧さんったら忘れてしまっているのでしょうか? 全く、困った方ですね」
最後の言葉だけは翠に目を向ける。
「あなたねっ!」
遂に耐え切れず、菫に掴みかかろうとした翠だったが、菫に軽く躱されてしまう。
この行動には、軽く躱した菫も驚いたらしく、一瞬だけ目を丸くしていた。
「まさか掴みかかってくるなんて、本当に困った方ですね。ではわたくしはこれで、碧さんが来ないのならここにいる意味は無いので」
にこやかに手を振る菫を睨みつけながら、翠は大きく舌を打つ。
菫の姿が見えなくなったのなら、翠もここにいる必要は無い。
「……碧は渡さない」
なぜ、菫が碧に近づくのかは知らない。だけど、菫が碧に迫ったとして、碧が菫に靡くとは到底思えない――はずだった。
思えないはずなのだが、今の翠は心から碧を信用できなかった。再び手が冷たくなるのを感じながら、なんとなくスマホを取り出す。
――今日は夕飯どうする?
とメッセージが来ていた。誰からの連絡かはすぐに分かる。碧だ。
今日は特に忙しく無い。昨日の今日で、翠も碧と話をしたいと思っていた。
――家で食べる。
端的に返信を送る。夜の約束だ、これで今日は碧が自分の下でいてくれることが確定した。
ホッと一息、冷たかった手が少しだけ温かい。なにがなんでも今日は碧と一緒に夕食を食べる。
菫がなにをしようが、碧は渡さないし離さない。そう心に決めた翠はとりあえず会社へ戻るのだった。
時刻は昼過ぎ、一通り家事を終わらせた碧は昼食の準備を始める。
冷蔵庫を開けると、中に入っていたのは、碧だけなら、昼食と夕食で足りる量だ。
しかし、翠も食べるとなると量が足りない。どちらにせよ、買い物には行かなければならないが、買う量も食材も変わってくる。
買い物に行くのは翠から連絡が返ってきてからでもいいか。そう判断した碧は、とりあえず昼食を作り始める。
令嬢である碧は、特に料理が得意ではなかったのだが、翠と過ごすための、日々料理の腕を磨いている。今ではそこそこ満足するものが作れているし、翠も美味しいと言って食べてくれる。
翠がいなくても、上達のために手を抜かずにご飯を作る。
テーブルで一人、作った昼食を食べていた碧。不意にスマホが震え、点灯した画面を見る。
翠からのメッセージだ。箸を置いてすぐに確認する。
――家で食べる。
その言葉に、碧の顔は明るくなる。
碧の意図が伝わったのか、それとも翠も同じことを考えているのか、どっちでもいい。
昼食を食べ終えたら、早速買い物へ行こう。碧は、食べる速度を上げるのだった。
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