『喜』の世界 現代
第1話
「碧、大丈夫?」
動きが止まっていた碧を呼ぶ声が聞こえた。
どこか懐かしい、ずっと聞きたかった声に、顔を向ける。髪色や瞳の色は違うが確かに彼女だ。
「……翠?」
「どうかした?」
窺うような翠の視線は、碧の顔色を見た後、碧の手元に動いた。
すると、徐々に翠の目は温度を無くしていく。
その変化に碧は戸惑う。その変化に、さっき経験したことを思い出す。
翠の視線の先、碧の手元には持つのはスマートフォン。その画面に表示されていた内容はメッセージのやり取り。
――翠にバレないよう明日の正午、ここへ来てください。
というメッセージには位置情報が添えられていた。
この画面を見た瞬間、翠の目が変わった。とっさに、このままではまずいと言うことを理解する。
だけど口が動かない、なにを言えばいいのか、それが出てこない。
「なに? これ」
感情の抜けた、ただ冷たいだけの声が、碧の胸を突き抜ける。
その瞬間、反射的に声が出る。
「私にも分からない! 急に連絡が来てっ――」
「そう言う割には、やり取りしていたようだけれど」
そう言って翠は碧の手からスマホを取り上げ、メッセージを遡って読み始める。
「私のため……ねえ」
「そ、そうなの! 翠のためで、でっでも、会う気なんて無いの! 私、騙されそうになったの!」
演技で流している訳ではない、自然と溢れ出る涙を流しながら、碧は必死に弁明する。恐らく、さっき経験したあの喪失感と恐怖。それが今、翠が抱いている感情だ。
「あっそう」
やがて、どうでもよくなったのか、納得したのか分からないが、翠が碧にスマホを返す。
その時、少しだけ手が触れたが、温かさは微塵も感じられなかった。
「お風呂入ってくるわ」
そう言って部屋から出ていく翠。その場に座り込んだ碧は、胸を内から激しく叩いてくる心臓を落ちつけながら頭を回す。
これは大丈夫だったのだろうか。翠の感情は、無くなっていないのだろうか。もし失敗したのなら、世界は消えると言っていたし、それならまだ消えていないのなら大丈夫なのか。
そう考えると、冷静さを取り戻していく。そこで碧は、改めて自分の状況を把握する。
ここは大きな部屋だ、調度品は全て重厚感があり、一目見ただけでもかなりの値が付くと分かる。
そんな部屋で、碧は一人床に座り込んでいた。
不思議なことに頭の中には碧の記憶がある。今まで碧が体験した人生の記憶、だけど身に覚えの無い記憶。この世界で生きてきた、水無月碧としての記憶だ。
手に持つスマホの画面に表示されているメッセージのやりとり、相手は菫という人物だ。
知らないけど知っている。
メッセージを読んでしまったのだからなにか返さなければならない。スマホに指を伸ばそうとして止める。
さっきのことがあったのだ、もう菫と連絡を取るのは辞めよう。メッセージを消去。
一体、なにを思って自分は菫と連絡なんて取っていたのか、だがそれを考える前に、今は違うことを考えよう。
スマホのカメラを起動して、自分の顔を確認する。
いつもの赤い瞳と何色にも染まらない烏羽色の髪ではなく、手入れがされていて綺麗になっているが、平凡な黒髪黒目。翠もそうだが、特徴が消えてしまった。
記憶の中に出てくる人の、殆どが黒髪黒目。この世界はそういう世界らしい。
「どうするべきか……」
今一度翠に話に行ってみるべきか。誤解を解きたいし、なにより――。
「翠と話したいなあ」
久しぶりにした会話が、さっきのような会話だとはなんとも気持ちが良くない。
だからいつもみたいに話しをしたい。そう考えてみたが、碧の心には、先程の翠の声音と目、そして手の温度が引っ掛かっていた。
見たことのない、翠のあの目。全てを凍てつかせるような冷たい目。目だけでなく、体温も無くなったかのように感じる手の冷たさ。そう――死人のような冷たさ。
嫌でも思い出してしまう。自分の手から零れ落ちる翠の命。急速に失っていく命の温もり。
碧の呼吸が早くなる。手が震え、徐々に感覚が無くなっていく。目の前が外から暗くなっていき、身体を支える力も抜けていく。
浅い呼吸を繰り返しながら、朦朧とする意識の中、必死に自分に言い聞かせる。
翠は死んでいない、まだ生きていると。
それならまだ、倒れている場合ではない。徐々に呼吸を落ち着かせて、意識を回復させる。
「……危なかった」
その場で大の字に寝転んだ碧が大きく息を吐く。
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