婚約破棄されたおかげで、幸せになれました
平瀬ほづみ
第一話
「そういうことなら、君との婚約を破棄したい」
バラが美しく咲き乱れる初夏の庭園にて。
サラは目の前で優雅に微笑むジョエルに困惑の眼差しを向けた。
「どうして……」
「前から考えていたことなんだ。いつ切り出そうか、悩んでいた」
相談したいことがあるから時間を作ってほしいと頼んだのはサラだ。
そういうことなら、外を歩きながらのほうがいいかもしれないねと時間を調整し、バラの咲く庭園にサラを案内してくれたのはジョエルである。
「……その理由をおうかがいしてもよろしいでしょうか、ジョエル殿下」
「そうだね。……僕には好きな人がいる、というのが一番の理由だな」
ジョエルの告白にサラは目を見開いた。
***
ジョエルはこの国の王太子、サラはこの国の侯爵令嬢。二つ違いの二人は十五歳と十三歳の時に婚約をした。
年齢と家格が釣り合うという理由だ。
国王と議会が決めた結婚だった。
ジョエルにもサラにも拒否権はない。
将来のジョエルのお妃候補を絞るため、王妃はジョエルが十歳になるかどうかというあたりから、これはと思う同世代の令嬢を選び出して何度もお茶会を催した。時にはジョエルを交えて。時には王妃を囲んで。
侯爵家のサラも家格から候補に選ばれていた。
だがサラは内向的な性格をしているから、まず選ばれることはないだろうというのが両親の見立てだった。
自分でも選ばれないだろうなとは思っていた。
両親には行きたくなければ行かなくてもいいと言われていたが、それでも招待に応じていたのは、ジョエルに会いたかったからだ。
ジョエルは金髪碧眼、とても整った顔立ちをしており、華がある。どこにいても目立つ。文武両道のうえに性格は穏やかで、非の打ち所がない少年だった。
初めて見た時は、なんてきれいな男の子なんだろう、こんな人がこの国の王様になるなんて、なんて素晴らしいのと思ったものだ。
そんなジョエルと少しでもおしゃべりをしたくて、招待に応じた。
不思議なことに、ジョエルとは緊張せずに話すことができたのだ。
ジョエルはサラを急かさない。どんな話題でも興味を示してくれる。
それが嬉しかった。
場違いだとわかっていても憧れの人と話せるから、お茶会を不参加にしたことはない。
初恋だった。
そしてお茶会に行くたびに思っていた。ジョエルのお妃様は、自分よりも明るくて社交的な令嬢たちの中から選ばれるのだろう。決して私は選ばれない。婚約者が決定したらこのお茶会はおしまい。ジョエルともこうして親しく話すことはなくなるだろう。
だから、正式に婚約者が決まるまでのわずかな時間くらい、ジョエル殿下の隣にいてもいいでしょう?
婚約者が決まったら離れるから。すっぱり諦めるから。
だから、自分がジョエルの婚約者に決まった時は本当に驚いた。
王宮にてジョエルに挨拶にうかがった時、「君とならうまくやっていけると思う」と微笑んでくれた。あの日のことはよく覚えている。
これは議会が決めた拒否権のない結婚。それでもサラは初恋が実って、天にも昇る気持ちだった。
けれどあの日からサラの幸福にヒビが入り始めた。
正式に婚約者になって以降、サラはすべての場面でジョエルのパートナーを務めなくてはならなくなった。
だから、ジョエルのパートナーとしてふさわしくあろうと、サラ自身も学問だけでなく礼儀作法や教養を身につけるために努力してきた。
見た目が地味だから、ジョエルの隣に立っても笑われないようにと、美容にも気を付けてきた。
……けれど、そうした「立派な妃になるための努力」は、サラにとっては苦痛で……
「何か困ったことはない?」
ことあるごとにジョエルはそう聞いてきた。
「大丈夫です。問題はありません。何も」
そのたびにサラはそう返した。
だって苦しいのは自分が至らないから。もっと頑張ればうまくなるから。
ジョエルの隣にいたいのだ。ここにいるためにはジョエルにふさわしい女性にならなくてはいけない。
でもね、がんばってもがんばってもうまくいかないの……。
自分のふがいなさに落ち込む。
王妃は人々に指示を与える立場上、たくさんのことを知っていなくてはならない。教養は多いほうがいい。その中に絵画があった。
楽器は練習が大変。ぜんぜん指が動かない。
詩は本当に才能がないみたい。美しい言葉が思いつかない。
でも絵は楽しい。才能はないけれど、混ぜ合わせた絵具をキャンバスに塗り込んで色が広がっていく様子が楽しい。それに絵を描くと、心の中のざわざわがすっきりする。
言いたいことが言えない代わりに、絵の中に言いたいことを塗りこめる。
「君には才能があるよ、サラ」
絵を教えてくれていた老画家は常にサラを褒めてくれた。
「君がジョエル殿下の婚約者でなければ、カルネンへの紹介状をいくらでもしたためたところだ。あそこには私の知り合いがたくさんいるからね」
カルネンは異国にある芸術の都の名前だ。
画家も彫刻家も建築家も音楽家も集う。美しいものはカルネンから生み出され、各国に行きわたる。
「君は才能あふれる芸術家だ。カルネンで学べば大きく羽ばたけるだろうに」
「もったいないお言葉ですわ。でも、無理です。私はこの国から出られません」
残念そうに言う老画家にサラは首を振った。
「そんなことはないさ。女学校の最後の一年だけでも留学してみたらどうだい? 留学くらいはできるんじゃないか? というより、そこで留学しなければ二度とカルネンで絵を学ぶ機会はないだろうね」
サラは妃教育と並行して女学校にも通っている。上流階級の令嬢だけを集めた学校で、将来貴婦人として社交界に出ていくのに必要なことを学ぶ。
老画家の言うことはもっともだ。
女学校を卒業したら、ジョエルと結婚することが決まっている。
結婚したら、サラは正式な王太子妃。
好きなことを好きなだけ思いっきりやる、なんてことはまず無理。
離縁が認められないサラは、死ぬまでジョエルの妃の役割を果たさなければならない。
ジョエルのことは好きだけれど、好きだから耐えられるというものでもない。
それはサラにとってとてつもない重圧だった。
だからこそ、老画家の「女学校の最後の一年だけでも留学してみたらどうだい?」という言葉が胸に刺さる。
そう、最後の一年だけ。
ジョエルの婚約者になって、ずっと我慢してきた。
ワガママなんてひとつも言っていない。
「ジョエル殿下にふさわしい女性になりなさい」
そう言われた通りにしてきた。
この夢が叶えばあとは我慢する。
だから、行きたい。
どうしても行きたい。
考えに考え、誰に相談するかも考え……考えた結果、まずはジョエルの許可がとれなくては話が進まないと思い至り、
「学校の最後の一年間、絵を学びにカルネンに行きたいのです。帰国したら、ジョエル殿下のお妃様を頑張りますから、最後の一年だけは」
つい先ほど、サラは思い切ってジョエルにそう切り出した。
そして返ってきた言葉が「そういうことなら、君との婚約を破棄したい」だったのだ。
***
「……ジョエル殿下には、その、好きな女性が……いらっしゃったのですか……」
呆然と呟くサラに、ジョエルはいつも通りの微笑を浮かべたまま頷いた。
ジョエルはいつも穏やかだ。
サラを相手にしている時は微笑みを絶やさないし、サラの話をいつも機嫌よく聞いてくれる。けれど本当にジョエルの機嫌がいいのかはわからない。だってジョエルはいつもこんな感じだから。
ジョエルが感情をあらわにした姿を見たことがない。
ジョエルはいつもサラを気遣い、ねぎらってくれるけれど、本心は?
「ではどうして私と婚約を……?」
「議会の決定だったからだよ」
そうだったのか。ジョエルは命令だからしかたなく、サラに優しくしてくれていたのだ。
王太子として婚約者に敬意を払い、優しく接するべきだから。
本当は好きな人がいたのに、サラがいるからその気持ちを押し殺して……恋を諦めて……
「僕が優柔不断で君につらい思いをさせたね。僕たちの婚約は破棄しよう。父上にも議会にも僕から話を通す」
議会、つまり国の決定だからこの結婚からは逃れられないと思っていた。
でもジョエルは「その人のため」なら、国の決定も覆そうというのか。
その人のためなら、ジョエルは国にも楯突けるというのか。
彼にはそんなに強い想いを寄せている女性がいたのか。
全然気づかなかった。
胸に黒い感情が広がっていく。
手が震える。
涙がこぼれそう。
「……ジョエル殿下は、その方がとても大切なんですね」
ここで泣いたら今まで頑張ってきた自分があまりにもかわいそう。サラは涙をこぼさないように堪えながら、ジョエルに確認した。
「そうだよ。とても大切だ。そのせいで彼女をずっと苦しめていたし……君にも悪いことをしたと思っている。長い間、すまなかったね、サラ」
ジョエルが微笑む。
どこか寂しそうな微笑だった。
それがジョエルに会った最後となった。
***
その後、ジョエルは国王と議会をなんと言って説得したのか不明ながら、サラとの婚約破棄は認められた。
そしてサラは、娘の心を思いやった両親によってしばらく外国にいる伯母夫婦のもとで過ごすことになった。
行き先はカルネン。
サラが憧れを募らせていたカルネンには、偶然にも伯母夫婦が暮らしていたのだ。
老画家からの推薦状をもらえたので、せっかくだからとサラは現地の美術学校で学ぶことにした。
外国からの留学生が多い学校だったので、サラの生まれ育ちは特に注目されることはなかった。学校の成績は完全に実力でつけられるため、貴族だろうと平民だろうと扱いは変わらない。
絵が好きな人たちと過ごす時間はとても楽しかった。
自分を偽らないって、こんなにも呼吸が楽だったのね。心底そう思う一方で、カルネンの青空の下で深呼吸をするたびに心の奥に、微笑むジョエルの姿が浮かんでは消えていく。
一年で帰るつもりだったけれど、一年目の終わりに、大きな工房に作業アシスタントとして誘われた。
自分の仕事が人のためになる。この世に残る。
それはこのうえない喜びだった。
工房で働き始めて二年目、同僚の男性に告白された。
ジョエルとは違うタイプの人だけれど、話していて楽しい。気を遣わなくてもいい。
ちょっといいなと思っていた。彼もサラを気に入ってくれていることはなんとなく感じていたから、告白された時は嬉しかった。けれど、あのバラ園で見たジョエルの寂しそうな笑顔が頭にこびりついて離れないのだ。
留学して一度も連絡はとっていない。
それどころか、帰国すらしていない。
ジョエルはどうしているだろう。
好きな人と結婚できただろうか。
幸せになれた?
――義務で優しくしなければならないなんて、つらかったでしょうね。私がもっと早くに気付いてあげればよかった。どんくさくてごめんなさい。
ジョエルが好きな人とは、どんな人なんだろう?
たぶん自分とは正反対。華やかで、きびきび行動して、妃教育に重圧を感じないタイプ。
ジョエルの隣にいてもかすまないタイプ。
ジョエルの顔を思い出すたびに胸の奥がきゅーっとなる。
寂しい。切ない。苦しい。恋しい。
初恋がまだ終わっていないのだと気付かされた。
自分の気持ちに気付いてしまったのなら、この人と付き合うことなんて無理。
だから断った。
「そうか。だったら、仲のいい仕事仲間のままでいてくれよな」
そう言っていたくせに、彼は半年もしないうちに知らない女の子と結婚していた。
傷心の彼を慰めたのがその女の子だったのだという。
もしかしたら、彼と結婚していたらジョエルのことも吹っ切れて、とんでもなく幸せになれていたかもしれない。結婚の知らせを聞いてそんなことを思った。自分の選択が正しいのか間違っているのか、全然わからない。
工房にはいろんな仕事が持ち込まれる。
絵を描くことより、絵を描く知識や技術が求められる。
「依頼主あっての絵描きだよ」
とは、工房主がよくこぼしていた言葉だ。
工房に来てから、自分の絵は描いてないな、と気が付いた。
祖国にいた頃は言葉にならない気持ちをぶつけていたから、抽象画が多かった。
今ならどんな絵が描けるだろう?
***
毎年、実家から「いいかげん帰国しなさい」という連絡が来る。
兄がいるから結婚しなくてはいけない立場でもない。
のらりくらり話をかわしているうちに五年が過ぎた。
ジョエルの情報はわざと遮断しているので、サラのもとには届かない。
サラのいる工房に祖国から、絵画の知識を持つ人間を派遣してほしいという連絡が届いた。
問い合わせはカルネンの職人管理局に入ったらしい。そこから、「あの国出身の職人がいる工房がある」ということで、この工房に連絡がまわってきたのだった。
なんでも、王都に大雨が降って王宮に土砂が流れ込み、王宮のギャラリーが壊滅的な被害を受けたのだという。
そういうことならサラが適任だな、と工房主に呼ばれる。
「これはひどいなあ」
工房主が被害の一覧をサラに渡す。
「ギャラリーの半分までが土砂につかるなんて……。これでは絵画はもう」
「やってみないことにはわからんさ。そうだろう? サラ」
工房主に問われ、頷く。
「この工房にはおまえ以上の適任者はいない。依頼主あっての絵描きだからね。サラ、頼むよ。ギャラリーの絵を蘇らせてくれ」
「私一人で、ですか?」
「いや、何人かつけるよ。でも責任者はおまえだ。ギャラリーが蘇るまで、おまえが全責任を持つんだよ。いいね?」
王宮のギャラリーは決して小さくない。
あそこに収蔵されている絵画の修復をすべて行うとなると、何年……いや何十年かかるかわからない。
それに責任者なんて無理……と言おうとしたが、この工房に自分以上の適任者はいないのも事実。
「私にできるでしょうか」
不安になってたずねれば、
「できるさ。おまえは優秀な絵描きだ」
工房主は太鼓判を押してくれた。
そうしてサラは五年ぶりに祖国に戻ることになった。
両親は水害を避けて領地に避難していたため、サラはすぐに王宮に向かう。
大規模な洪水が発生したのは今からひと月以上前のことだが、水害の痕跡は色濃く残っていた。それほど被害を受けていない場所もあったが、ごっそり土砂に覆われて何もかもなくなってしまった場所もあった。
救援物資を受け取るために並ぶ人々。たくさんの兵士は、土砂に飲まれた行方不明者を捜しているのだという。
そんな光景を目の当たりにしてしまえば、ギャラリーの被害よりもジョエルが気になる。
責任感の強い人だから、何もかも一人で抱え込んでいなければいいけれど。
そう思ったところで、そうか、ジョエルは一人ではなかった、ということを思い出す。
あれから五年もたっている。
好きな人と結婚できているはず。子どもだって生まれているはず。
ジョエルの情報はわざと集めていないので、彼がどうしているのかわからない。
王宮でジョエルの妃や子どもの話題が出てきたとき、動揺せずにいられるだろうか。自信がない。
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