▼第四十九話「オシリスとセト」ウプウアウト過去編①




 白昼堂々の偸盗ちゅうとうのさなかに家人けにん闖入ちんにゅうとあれば、さしものレンシュドラもさすがに心臓が跳ねるような驚きを感じた。


 部屋に入ってきたのは、家宰のウフトゥだった。部屋を見回して、怪訝な顔をする。


「誰もいないだと……? 確かに物音が聞こえたのだが」


 レンシュドラは迫る足音を察知した瞬間、咄嗟に飛び上がっていた。天井の隅に四肢を広げて張り付いて、辛くもウフトゥの盲点に逃れることに成功していたのである。しかし、それはもちろん一時的なものに過ぎない。レンシュドラは荒ぶりそうな呼吸を抑えつけ、気配を隠した。


 ウフトゥは口元に手を当てて訝しみつつ、賊が家具の陰に潜んでいやしまいかと、部屋を検分し始めた。そして、大声で呼ばわった。


「誰か、誰かここへ来よ! 賊がおらぬか調べ上げるのだ!」


 確証はないが、勘が賊の侵入だと告げていた。それから、レンシュドラが漁っていた机の付近を調べた。レンシュドラは天井から、焦りを浮かべた顔で禿頭とくとうのウフトゥの後頭部を注視している。


(さあ、こっからが穏身術の出番や。この時のために修練したんや、きっとでける。がんばれ、ボク)


 レンシュドラは心の中で自分を励ました。これはアヌビスから教わったおまじないだ。自分で自分を応援することで、実力を発揮しやすくなるという。そして心中で口訣を唱え、南無三、と天井を蹴った。それは、明鏡止水の水面の如く、一切の音、一切の気配を立てず、驚くべきことに、着地の際にもそれは無音であった。風の揺れさえも内功の力で抑え、武功を身に着けていない者には、なんの気配も感じられない。


 まさに功が成った瞬間である。


 レンシュドラはあまりの出来に、我ながら目を丸くして驚いた。


 ちらとウフトゥを見やると、ウフトゥは背を向けて机の周りを調べていて、何も気付いていない。(いまや!!)と、レンシュドラは脱兎の如く駆け出した。すでに家人たちがわらわらとその部屋に向かって走ってきており、レンシュドラは慌てて中庭に逃げ込んだ。そしてその庭園の柱廊の陰に隠れると、息を殺した。家人たちは、気配を極限までに抑えている賊の存在に気付かず、部屋に直進していった。


 レンシュドラがふう、と息を漏らしたそのとき、庭に住み着いていた猫が、そばに駆け寄ってきた。そして猫は、何もしていないうちから喉をゴロゴロと鳴らして、脛にすりすりと身体を擦り付けてきた。レンシュドラは猫への誘惑と戦わねばならなかった。しかし、なんとも困ったことに、猫がごろりと身体を横たえた挙句、無防備にも腹を見せ、ぐいいっと身を反らせて伸びはじめたではないか。猫の揃えられた両手が震えるさまには、身も悶えるほどに苦しめられた。かわいすぎるのだ。いまにもそのやわらかな腹毛を撫でてしまいそうだった。


 やがて、家人たちの気配が遠ざかった。レンシュドラはふう、と息を吐き、それから思う存分猫をかわいがってやった。


「お前が一番の試練やったわ」猫の両脇に手を入れて抱き上げながら、レンシュドラが言った。


 そして音もなく屋敷の庭に飛び出ると、広大な庭を風のように横切って、煉瓦の囲繞いにょうをひょいと軽々飛び越えた。



 ウプウアウトは、メンネフェル大神殿の前を歩いていた。


 敵の警戒網の、まさに心臓部分である。


 ディラが言ったように、このあたりは魔法で監視されていて、不審者はすぐに発見される。また、犬とともに見回る警備兵が百人いて、警備体制に余念はない。さらに、大神殿の上に二百人の弓兵と、両脇にある兵舎に詰める千人とが、侵入者を迎撃する。まさに難攻不落の城である。無論、有事になればメンネフェル領域の各地から兵が押し寄せてくるのは言うまでもない。


 その場所を、小面憎いまでの涼しい顔で、平然と歩いている。


 十四歳にして死地を幾度も超えた男だけに、その胆力は凄まじい。


(あのセトに、一泡吹かせてやれるなら)


 ラーの秘庫で、ディラがメンネフェル大神殿を狙うとわかったときから、彼は勢い込んでいた。危険を承知で賛同したのは、相手がセトだからである。



 ——十年前。乳母が目の前で焼け死に、母は黒々とした焼死体になって気絶したその日。ウプウアウトは叫び声で目を覚ました。はっと声の方を見ると、近衛兵長のゲルトが袈裟斬りにされ、血を噴いて倒れる瞬間であった。

 この近衛兵長は、ウプウアウトをよく撫育・監督してくれた者であり、父王よりも、よほど近しい存在であった者である。ともに馬上の人となって、このナイル川湖畔の漁師小屋にやってきたその人が、目の前で、死んだ。


 ウプウアウトは再び叫んだ。


「ここにおられましたか、殿下」と近衛兵長ザガンをたったいま斬り殺した男が、ウプウアウトの目覚めに気付いて言った。

「ハラサ将軍、なぜゲルトを斬ったッッ!!」と四歳のウプウアウトが絶叫した。


 ハラサは答えない。顔に暗い陰を落とし、無言である。張り詰めた空気を纏い、巨大な岩壁のような圧迫感すらある。


 ウプウアウトはハラサの目を見つめた。


 ハラサは顔を下に向けた。


「問答はあとです。事情が込み入っておりますゆえ。ひとまず、敵の手から逃れましょう」


 そのとき、巨大な黒雲とともに雷鳴が降り注いだ。音は、王宮の方である。ハラサとウプウアウトが王宮の方を見ると、そこには山のように巨大な黒い闇の狼が猛り狂って暴れていた。稲妻が次々に落ちる。


「あなたの父上は鼻が利くのでな、臭い消しをします」

「まってくれ、敵とはお父さまのことなのか」


 闇の狼は身体中から闇の粒子の剣を無数に飛び出させ、それらの剣を自在に操り、千変万化の軌跡で敵兵どもを斬り散らした。そして咆哮とともにまた巨大な雷が落ち、天地を震わした。それは、遠く離れたウプウアウトの髪さえ揺らがすほどの威力であった。


「なぜお父さまがぼくを殺すんだよ、おかしいじゃないか!! おまえはうそを言っている!! お母さまを殺したのはだれなんだ!!」

「ネフティス様は、あなたのお父君、セト王に、敵国との共謀の罪で殺されました」

「じゃあ、お父さまはあそこでだれと戦ってるんだよ!?」

「あなたの叔父上、オシリス王です」



 オシリスはその愛剣、禁剣とも呼ばれるカドゥケウスを振って、襲い掛かる闇の剣を打ち払っていた。カドゥケウスは光の粒子でできた刃であり、あらゆるものを切り裂く。オシリスはまったく焦りの表情を浮かべず、余裕さえある。


「悲しいなあ、セトよ。何の因果があって兄に刃を向けるのか」

「無条件降伏をせよと? まったく笑えない冗談です、兄上」

「兄弟で争わず、私という旗の元、ともにメソポタミアに討ち入ろうではないか」

「痴れ事をッッ!!」


 そのときオシリスは剣を天にかざし、空に巨大な剣気を打ち上げた。それは埋伏させていた刺客たちへの合図である。周囲からテーベの強者たちが、続々と姿を現した。


「さあ、降伏するか死ぬるかを選べ、弟よ」


 黒い長髪のオシリスは、恵まれた体格に白銀の魔装を身に着け、父ラーによく似た顔に、勝利の確信を浮かべていた。


「そうですね、では私もここで手札を明かしましょう」


 セトは短く三度吠えた。すると、メンネフェルの強者たちが、テーベの刺客たちの何倍もの数で闇から姿を現した。


「ここまで我慢するのに苦労しましたよ兄上。一網打尽にするには、辛抱が重要ですから」

「計画が、漏れていたというのか……ッ!!」

「残念でしたね、兄上」


 セトが尾を強く振ると、メンネフェルの軍勢が、一斉に襲い掛かった。テーベの刺客たちはあまりの敵の数に士気を削がれていたが、オシリスが包囲網を破るために下知を降し、息を吹き返した。「虎口を脱する!! 総員、ここで死ねッッ!!!!」全テーベ兵の心胆が震え、彼らは吠えた。



「さあ、問答は無用です」ハラサは持参した特別に調合した臭い消しの軟膏を、ウプウアウトの身体中に塗り始めた。ウプウアウトは抵抗したが、高位階のハラサの前には無論為す術もない。

「なぜお父さまがぼくを殺すんだ、なぜだ!!」

「あなたのお父君は、二年前に人が変わられた。……以前はもう少し寛容であられた。とにかく、一度敵対した者は殺されるのです。その疑いがある者も。あなたも例外ではありますまい」これは本音である。


 セト王の心中に疑心暗鬼が生じ、そして苛烈な血の粛清が始まった。それはあらゆる理由で行われた。たとえ実子といえども、敵国と内通した恐れがあるならば、無事ではいられまい。


「いやだ、ぼくはお父さまといる!! お父さまからはなれないぞ!!」

「一人の年長者として、あなたをみすみす死なせるわけには参りません。失礼」と言ってハラサはウプウアウトを抱えた。

「うそだ、うそだ、うそだあああああッッ!!!!」


(つづく)

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