第3話
遠縁に任せている領地は公式にはセインルージュ家のものであり、どういう状況にあるのか逐一把握していなくてはいけない。
そして、運営を任せる男爵家からの要望があったときには、公爵家の代表として検討し、できる限り力になるのだ。ラナベルは、それが唯一残された自分の仕事だと思っている。
とはいっても、毎日のように報告やら書類が届くわけでもない。つまり、日がな一日することがない……なんて日も多いのだ。
そんな日は、自室の窓辺の椅子に腰かけてぼんやり外を眺めている。
今日もラナベルは普段と変わらず静かに座ってぼうっとしていた。
すぐそばの小さな丸テーブルには、アメリーの用意してくれた紅茶が置かれている。ラナベルは手探りでカップを持つと、そっと口に含んだ。
最近では陽差しも少しずつ強さを増し、夏が近いことを感じさせる。かすかに開けた窓からの薫風が、いつも気鬱なラナベルの心を少し穏やかにしてくれる。
口の中に広がったあっさりした紅茶の苦みも、この無為な時間に味わいをもたせてくれていた。
(……美味しい。初めて飲む味だわ。また新しいものを探して来てくれたのね)
アメリーが熱心に茶葉を集め始めたのはいつの頃だったろう。――ふとラナベルは思った。
使命とばかりに熱心に領地への責任を果たす一方で、ラナベルはそれ以外の時間を死んだように過ごしていた。そんな様子に気を揉んだアメリーは、少しでも心安らかに過ごせればと、いつしかこうして手間暇をかけて紅茶を淹れてくれるようになったのだ。
貴族間では定番の馴染み深いものから、異国からの輸入品である希少で珍しいものまで……彼女は頻繁に街に出てはいろんなものを探し出してくる。
それが自分への心遣いからだと、ラナベルはよく知っていた。
(もう少し精力的に活動した方がいいとは分かっているけれど……することも思いつかないのよね)
出来れば使用人に変わってラシナの面倒を見てあげたいところだが、ラナベルが出向くと高い確率でラシナを刺激する結果となる。
彼女が暴れ回った後片付けはどうしても使用人の手を借りなければならず、仕事を増やすことになるので心苦しくも断念していた。
最初のうち……シエルが死んでからの二年ほどは、たとえ叩かれようが罵倒されようが、ラナベルは四六時中ラシナに寄り添っていた。悲しみに暮れる母の憂いを少しでも晴らしたい。元気になって欲しい。――そんな健気な幼心と、シエルにばかり向けられていた母の感心を少しでも自分に向けて欲しいという、ほんの僅かな下心故だった。
けれど、今のラナベルにあの頃のひたむきな情熱は欠片もない。
母へ向ける愛情故の健気さも、母の愛を求めるが故の必死さも全て、とうの昔に跡形もなく砕け散ってしまったものだ。
「お嬢様、おくつろぎのところ申し訳ありません。そろそろ晩餐会への準備をしませんと王宮に間に合わなくなってしまいます」
アメリーの声にふと時計を見る。どうやら随分長い間ぼうっとしていたらしい。
いつのまにかぐるりと回っていた針に、ラナベルも同意して立ち上がった。
例え落ちぶれた公爵家の子女といえど、高位貴族の家格だ。王宮主催の催しものの際には必ず招待状が届く。
すでに解体が決まったような家にまで、国王陛下は温かい言葉を添えて招待状を送ってくれる。
それが今まで王族に尽くしてきたセインルージュ家への配慮だと知るラナベルに、出席しないという選択肢はなかった。
「陽が沈むとまだ肌寒いですから……ショールを羽織られますか?」
それともレースで編まれた袖の長いドレスにしましょうか? と、うきうきした顔で問いかけてくるアメリーに、ラナベルは微苦笑して「任せるわ」と答えるしかなかった。
招待してくれた王族の方々に失礼でなければ服なんてなんでもいい。そんな正直な胸中は、楽しそうなアメリーを前に言えるわけもない。
けれど、ラナベルが装いに無頓着なことをアメリーは十分によく分かっていて、
「これはどうでしょう? お嬢様の瞳の色と合いますし、シンプルですが裾のレースが落ち着いた華やかさを見せてくれます」
と、ラナベルの心中も察したいい塩梅のものを勧めてくれた。
Aラインの藍色のドレスは、華やかさといえばアメリーの言うようにスカートの裾で波打つレースぐらいなものだ。
装飾は一切なく、落ち着いた色合いであればいっそみすぼらしくも見えてしまうだろう。だが、鮮やかな藍色とその上から羽織った光沢のある繊細な作りのショールのおかげで、地味ではありつつも品のある装いになっていた。
「ここ数年ドレスは新調していませんし、今度新しいドレスをご用意してはいかがですか?」
「大丈夫よ。この年になると体格が変わることもないし、アメリーがよく管理してくれているから必要ないわ」
返すと、アメリーは落ち込んだように「そうですか」と呟く。
ラナベルは他家の貴族令嬢から茶会やパーティーに呼ばれることもなく、社交界に参加するのは年に数回ある王宮からの招待だけだ。
ドレスは数年前の成人の年に一新したものがまだ何着も残っているし、参加の機会も少ないので時間を開けて着回したってラナベルの正装など気づくものもいないはずだ。
なによりラナベルは、公爵家の金銭はできる限り苦労をかける使用人たちへの給金へ回したかった。
神の祝福をなくしたと思われている公爵家に、わざわざ行儀見習いにくる他家の侍女もいないので、この邸の使用人は昔からいてくれるアメリーを除いて、全てが平民出身だ。数年前までは長年勤めた家令もいたが、今は年を取って領地のほうで補佐に回りほぼ引退したようなものだ。
心が不安定なラシナの面倒を見る人材を確保するため、ラナベルは一般的な平民の月収のおよそ三倍の金額を支払って彼女たちを雇っていた。
その高額さからか求人を出せば人が殺到し、人手に困ったことはない。
――そんなお金の使い方を後悔したことはない。
不意にラナベルは、鏡越しにチラリと背後のアメリーを見た。彼女の曇った顔色に、内心でチクリと胸が痛む。
そして向かい合った鏡の中の自分に、たしかにこれなら着飾らせたいと思うのも無理はないか、と納得する。
ラシナは今はやつれて面影もないが、若い頃は社交界の華とまで言われた人物だ。濃い黄金色の髪と凛とした深い碧眼――母によく似たラナベルも、見た人が思わず立ち止まってしまうほど美しい造形をしていた。
地味なドレスでも十分に見えるのは、このスッキリとした秀麗な顔立ちのおかげもあるだろう。
だが、影を落とす長い睫毛に縁取られた瞳に生気はなく、形の良い唇はいつだって引き結ばれているし、ラナベルの纏う陰気な雰囲気のせいでその魅力も半減されている。
きっといつも笑顔を浮かべていたシエルであれば、同じ面差しだったとしてもより美しかっただろうと、ラナベルは自嘲気味に思った。
最後に長い髪を綺麗に整えて結い上げてもらい、ラナベルは用意された馬車へと向かった。
「あら? さっきまでいいお天気だったのに曇ってきましたね」
外に出たアメリーが言うので、倣って空を見上げる。たしかにどんよりした雲が垂れ込んでいた。
「念のため傘を準備しておきますね」
「ええ。ありがとう」
行ってらっしゃいませと、どこか心配そうに見送るアメリーに、ラナベルは馬車の中からそっと細くした目で安心するように伝えた。
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