第50話 4-16_ヘチ子怒る「役立たず」
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時間をさかのぼって、ケンカ別れのすぐ後――。
林檎Bからの電話を受けたとき、ヘチ子はまだ動物園内に留まっていた。
スマトラトラの檻の前で、メスのスマトラトラと見つめ合いながら、自分がなぜ林檎Bに対して腹を立てたのか考えていた。上手く言葉にできそうになかった。
怒りを構成する要素なら、ほぼすべて挙げられた。林檎Bの行いはどれをとっても道理から外れているものばかりだったし、挑発的でもあった。
しかしそれは、注意を与えるのでも叱るのでも、無視したってよかったはずだ。例えば学校でも街でもどうかと思うような人間に遭遇する事はある。
それでも林檎Bを相手にするときほど感情的にはなった事はない。それも自分の人生になかった、名状しがたい怒りだった。その根本的な原因が何なのか分からない。
自分自身で何か見落としているような感じがした。
この怒りはどういう要素で構成され、何を主旋律に繋がっているのか――。
そこまで思考が及んだ所で、時携帯端末が音を立てたのだった。
「……なに?」
反射的に、ヘチ子はスマトラトラから視線を切らないまま通話を受けた。やはり林檎Bの声だった。
「おらあああああっ」
「――おちょくってるのか?」
最初は嫌がらせをしかけてきたのかと思ったが、まず声が妙だった。
通話口とは離れて叫んでいるような遠い怒声で、しかも何か端末ごと投げだされたような音が先行していた。
続いてつぐねの「匣? 匣取られた?」という声。
数秒後、さらに遠くの声で「ああああ……」という林檎Bの、心の底が抜けたような叫びが届いてきた。
状況を把握したその瞬間、ヘチ子は怒声をあげていた。目の前の虎が五十七センチは飛び上がった程だった。言葉にならない声で、自分でも何といいたかったのか分からない。
別れた場所――『ふれ愛コーナー』目指して走りながら、ヘチ子は頭の隅でこう思った。今のこの怒りの主旋律は何だろう。それも分からなかった。とにかく怒りだ。
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とって返した『カピバラふれ愛コーナー』に林檎Bの携帯端末が落ちていた。
二人の姿はない。頬にダイヤのマークがついた男が座りこんで泣き笑いしているのだが、状況を聞いても、世界が壊れました、みたいな事をいうばかりでラチがあかない。つぐねが落としたのか目印に置いたのか、レグヌーカのチョコレートが園内に点在していた。ヘチ子はそれを辿って外へ飛び出した。
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駐輪所の影にまた一人倒れている男を見つけた。傍らにやはりチョコレートの包みが落ちている。男は色色の一員らしく、リュックにステッカーが貼ってある。 理由は分からないが、色色の男たちが匣を奪ったのだと推測できた。つぐね達は犯人を追っていったのだ。
「盗んだ物はどこだ? 誰が持っていった?」
「あっ。お前は感情のない殺戮人形で有名な……」
「犯人は誰だ? どんな特徴でどっちへ向かった――あっちか」
「なんでわかんだよ……」
視線の動きで逃走方向は簡単に見分けられた。
「犯人の顔は?」
「それだけは、仲間だけは絶対売らねえ痛だだだだだ! エメラルド院の吉田です!」
「誰だそれは、特徴は」
「だからエメラルド色の服着たヤツだよ」
それは色盲のヘチ子の感覚では薄い灰色に分類される。他の色もだいたい灰色のバリエーションでしか見分けられない。
「……他に仲間は」
「『スカープラチナ』のよしむらに『ア・ヴ・Blue』のモハメド。あ、モハメドは俺ね。ハーフなんすよ」
「お前の事はいい」
「あと『シルバー・ポール』のながよし。『紫・HAMIGO』のよしたに。『ゴールドエビスペリエンスのよしはる。あと新人の変態だよ」
「吉……誰と誰だって?」
「吉田によしむらにモハメドにながよしによしたに。あとよしはると新人の変態。モハメド俺ね」
「……もういい、特徴は?」
「だからエメラルドのスカジャン、プラチナのチェーン、シルバーのソフトモヒカンステッカー、紫のモヒカン、ヱビスビールのジャンパーの偽モン、あと見た感じ変態のやつで、あ、そいつの名字も吉田だったわ」
「吉田が多すぎる!」
「吉田二人しかいねえよ! あ? 三人だったか?」
「ややこしい。わかりやすい特徴をいえ」
「だから色だよ! 色見りゃ分かるだろ明らかに! エメラルド、プラチナ、銀髪、紫、ヱビスビール。あ。あとすごいお母さん思い」
「おかあ――要らん情報を入れるな! 頭がおかしくなる!」
「痛えな! いい直すよちゃんと聞けよ。色がエメラルド、プラチナ、銀ステッカー、紫髪、ヱビスビール。すごいお母さん思い。あっまたお母さんっていっちゃった」
「――くそ。とにかく妙な格好のやつらだな」
「でも俺らみたいなのいっぱいいると思うぜ。今日、デカいパチンコ屋の新装開店だから。花火上げてたろ?」
「静かにしろ」
「いだだだだ! 色見りゃすぐ見つかるって紫のモヒカンとかよ!」
それがヘチ子には見分けられないのである。
彼女は男をさらに締め上げて、
「呼び戻せ。盗んだものを持って戻ってくるように全員に伝えろ」
と要求した。
男はそれを聞かず叫び始める。
「足洗うチャンスだろ! ガキがあんなモンに頼るんじゃねえ!」
ヘチ子は男が「何でも叶う匣」を狙って盗んだと思っているので、
「『あんなもの』か。お前たち、あの匣が何か知ってて盗んだという事か? 何を知ってる」
「憂いてるんだよ俺らはよぉ! この街を! ちびっ子達の未来をよぉ!」
「何か判らんがそのために匣を?」
二人の会話は実際のところ噛み合っていない。
色色の方では違法薬物を取り上げたつもりでいるし、ヘチ子も『あんなもの』が実在しない薬物のことを指しているとは思わない。
ヘチ子は男の腕だけを自由にしてやった。上着のポケットから携帯端末も持たせやる。
「それを使って仲間を呼び戻せ」
「そっちこそ真っ当な道へ戻れバカッ! あんなもんを俺らの街に持ちこむようなアホとは縁切れバカ!」
彼は義憤の涙さえ浮かべて叫んだ。
もちろん彼の言葉の真意はヘチ子には伝わっていない。
彼女は林檎Bを指した言葉にだけ反応して、叫び返そうとした。しかし謎の怒りのため言葉に詰まってしまう。言葉の代わりに男を締め上げた。
「アホでもあれがどれだけ必死の想いで――」
しかし、相手はヤケクソのように笑ってこういい放った。
「ぐええええ。俺を人質にしても無駄だぞ。連絡できねえからな! 通信料滞納してネット止められてんだ! もうこんなもん電話じゃねえよ! エロ動画の詰まった電卓だよ!」
「――ええい
男を放り出しヘチ子は駆けだす。
男は最後まで叫んでいた。
「あんなもん沈めちまうほうが街のためなんだよ! ずっと沖の海に。誰も回収できねえトコに! 捨てちまえ!」
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男の視線から、大まかな逃走方向だけは判明していた。
走っているあいだじゅう、林檎Bの
創痕。
果実に刺さった爪。
怪物みたいに変形した男へ、おもちゃのような武器で立ち向かっていたボロボロの手。摩訶=曼珠沙華とやらを狩るためにああして闘い続けてきたのだろう。
一目で一生消えないと分かる額の痣。
見つめ合った瞳にまで亀裂のようなあとがあった。
電話口に聞いたあの叫び。
そして自分でつけたと思われるあの
すべてあの匣で、願いを叶えるためのものだったはず。
その願いが何なのかは分からない。分からないが――。
「走って行く一団を見ませんでしたか。派手な。追われる男たちと、追う男女――いや見た目は二人の女の子」
「え? え?」
「派手なって?」
「――色んな……色の格好を……」
「っていうと?」
「匣のような物を持っている男がいたはずで……」
「匣って……こう、どういう?」
「とても大事な――いえ、ありがとうございました」
途中、通りすがりの人を見つけては質問していった。
しかし相手は頬を染めたり困惑するばかりで役立つ情報は得られない。
原付を追うスケートボードは目撃されているが、原付の男の行き先まで知っている者はいなかった。特徴を聞いた所で自分の目では見分けられないかもしれない。
「この役立たず……」
彼女は思わず自身のまぶたを引っ掻く仕草をした。林檎Bの腕にあったものと似た内出血がまぶたに残る。
とにかくヘチ子は先を急いだ。
やがて前方から「フォオオオオオオウ! カピバラかわいィイイイ!」というシャウトと共に、演奏音が響いてきた
バンド演奏のうるさい交差点を越えて、さらに走ると、遠く、商業施設の上空を一匹、飛び騒ぐカラスが見えはじめた。
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