第9話
熱に触れる
バンに言われたからではないけれど、何となく髪の毛を切りたくなっていたので、セミロングだった髪をばっさりとショートボブに切ってもらった。ツィギーとは程遠い出来ではあったが、私は新しいヘアスタイルが気に入った。帰りに洋服屋にも寄って、ミニ丈のオレンジ色のワンピースも買う。肩の切り替え部分がクリーム色で大きなボタンが両肩にあった。
(ベージュのブーツもあったら欲しいなぁ)と思いながら、お給料と相談して今日は買えない。
それでもうきうきした気分で買い物を終えると、見覚えのある高級車がマンションの前で止まっている。私は思わずUターンした。
髪の毛も切ったし、割と遠目で見えたから、相手からは気づかれてないはず。私は駅の方に戻って、コーヒーチェーン店に入った。
篠塚さんと別れるとバンに約束したものの、突然の訪問で私は断れるか自信がなかった。店内は珍しく込んでいて、注文の列に並ぶ。
(思い出せ。思い出せ)と私は部屋にあった婚約者の私物を必死に数える。
そのせいでコーヒーを頼もうとして、注文カウンターで「化粧水…」と言ってしまった。
それでも無事に飲みたくもないコーヒーを注文して席に座る。バンがいれば、迎えに来てくれるだろうか、と思ったけれど、携帯番号も聞いていなかった。私が知ってるのはマリリンと繋げるためのジェフの番号だけだった。
「あー。こいつは駄目だ」と思わず声に出して呟いてしまう。
結局、一時間ほど過ごして、私は戻ることにした。もしかしたら髪の毛を切った私に気が付かずにやり過ごせるかもしれない。念には念を入れて、トイレで買ったばかりのワンピースに着替えてから店を出る。
そしてまた来た道を戻った。
気持ちが段々沈んでいく。別れると決めたのだから、たった一言でいいはずだった。
(もう会いたくない)
口にしてしまえば、案外簡単なのかもしれない。見つかったら、挨拶をする前に言おう。そう覚悟を決めて、車に近づくが、携帯を見ているのか、気が付かないようだった。そのおかげで私はするっとマンションに入れる。自分の部屋に戻ると、疲れがどっと出た。
(何時間、待っているんだろう)と私は考える。
私が車を見てから一時間は経過しているから、少なくとも一時間…。今日はヘアカットに行ったから、それ以上かもしれない。
ずっと待っていてくれる篠塚さんのことを考えると胸が痛くなる。携帯を見ると、私は通知をオフにしていたせいで、篠塚さんからのメッセージが来ていたことに気づかなかった。
「会いたくなって。待ってる」
私だって会いたい。どんどん引っ張られるのが分かる。
「麻里江が一番好きだ」
一番ってことは順番があるってことで、唯一ではない。
そこまでわかっているのに、愛される幸せを手放す勇気がない。婚約者と結婚する人といるなんて時間の無駄だ。頭の中では分かっているのに。
でもバンが言ってくれた。自分の気持ちを無視してはいけない。
ずっと一緒に居たい人だった。でも…と私は覚悟を決めて、押し入れに体を押し込んだ。
押し入れの穴から暗い部屋の中に声をかける。
「今から、別れてくる」
薄暗い部屋に置かれている微動だにしない大きなクマのぬいぐるみ。相変わらず変わり身の術をしているのだろうか。それでも勇気が欲しくて声をかける。
「また失敗するかも…だけど。何度でもチャレンジするから」と言って、押し入れから出た。
私はドアを閉め、深呼吸をして階段を降りる。一番最初に口に出そう。
車の中で彼は待っていた。私は助手席に近づくと、窓を叩いた。窓が降ろされる。
「髪、切ったんだ。何だかイメージが違うね」と驚いた顔をで言う。
今、言おう。
「…うん。ちょっと切りたくなって」
「乗って」
鍵が開く音がする。私は取っ手に手をかけた。催眠術にかけられたように体が勝手に動いてしまう。
「あのね」と少し開けたドアから声をかける。
「どうしたの? 今日は一段と綺麗だな。ワンピースは新しいの?」
篠塚さんは私の喜ぶことをいつでも言ってくれる。
「…あ、うん。あの」
そう言いながらも、また口にできない自分を分かっていた。
「麻里江の好きなお店行く? 待ってる間にお腹空いちゃった」と親し気な笑顔を見せる。
「…ごめんなさい」と言ったら、内側から大きくドアが開けられる。
(もう会わない、もう会わない)
そう言おうとして、口を開けたいのに、私の手が引っ張られあt。
「マリー」
後ろから肩を叩かれる。振り返って驚いた。バンがいた。髪の毛を短く切っている。そしてなにより、立ち振る舞いが違っていた。
「あ、え…仕事は?」
「また約束反故にするつもりなん?」
そうだった。その一言で我に返る。
「誰?」
篠塚さんが手を放して車から降りて来た。
「今晩は」とバンがにっこり笑いかける。
「麻里江?」
「ごめんなさい。私、もう会わない」
驚いたように目を見はる篠塚さんを見た時、バンに思い切り肩を抱かれた。
「今日、私とディナーの約束取り付けてて」と嘘を言う。
「浮気?」と篠塚さんが言う。
突然、高らかにバンが笑いだした。
「浮気? マリーはいっつも日曜日暇そうにしてたけど? ほったらかしにしておいて何言うてるん? ええ加減にしいや」
最後はどすの聞いた声で関西弁になっていた。
「篠塚さん…私、本当に好きでした。…でも今は…」
足が震える。
「私の方がいいって」とさらに体を近づけられた。
バンの体に直接触れているところが熱くなる。
「…彼が好きなの」
目を細めて私を見ると、黙って車に乗り込んだ。車が走り去るまで密着していた。見えなくなると体をさっと離す。
「さてと…」とバンがまたマンションに戻ろうとするが、足元が揺れた。
「バン…。もしかして具合悪い?」
「あー、大丈夫。ちょっと熱があるだけ。お店…。休んでたし丁度良かった」
何が丁度いいのか分からない。でも密着していた熱さが相当で、私はバンの手を取った。
「すごい…。熱」
「うーん。髪の毛切った時はそうでもなかったんやけどなぁ」
「どうして髪の毛切ったの?」
「ウィッグにしたら楽やん?」と言いながら、ふらふらと階段を上がる。
「ちょっと。大丈夫? 薬待ってくる…し、部屋で休んで。でもなんでわざわざ出てきたの?」
「あははは。だって、また失敗するかもしれへんとかそんなん聞かされたら気になるやん」と笑った。
部屋を暗くして眠っていたバンに私は話しかけて、起こしてしまったようだった。
「もう。おかゆも作るから。とにかく部屋に戻って」と言って、私は一緒に階段を上がる。
「…マリー、少しもたれていい?」
「いいけど」と言うと、かなり重い。
重い体を一緒に引きずって、部屋に戻った。大きなクマの縫いぐるみが置かれていて、私は何とかバンをベッドに乗せる。
「お水飲んで。お医者さん行く?」
「…マリー。側にいて」
「分かった。薬、部屋から持ってきて、それとおかゆ炊くから。そしたら側にいるから」
私はまるで子どもみたいになったバンの手を少しだけ撫でてから、部屋を出る。自分の部屋から解熱剤とお米を持ってきた。
「おかゆ…焦がしたらあかんよ」とバンが息ぐるしそうに言う。
「うん。たっぷり水を入れるから」と私は焦りながらお米を研ぐ。
早くおかゆを食べさせて、お薬を飲ませないと…と思って頑張った。かなりの高熱なのにわざわざ降りて来てくれた。
「余計なことしなくていいのに…」とおかゆを火にかけながら呟いた。
おかゆが出来た時にはバンは眠りについていた。
私は側にいてと言われたから、クマのぬいぐるみの近くで横になった。ふわふわムートンのおかげで私も眠りにつけた。
「マリー」
小さな声で私を呼ぶ。
「あ、起きた? おかゆ出来たよ。でも…冷めちゃったかも」
「いいよ。冷めたので。…悪いけどお水取ってくれない? 冷蔵庫にあるから」
「うん」と言って、私は冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出して渡した。
「おかゆ食べる?」と聞くと頷いてくれたので、私は少しだけ温めて、お皿に入れる。
そしてバンのところに持って行くと、嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃあ、ひとくちどうぞ」とスプーンに入れて渡すと、恥ずかしそうに口に入れた。
私は初めてバンの役に立てた気がした。
「ごめんね。部屋に戻っていいから」
「でも何かあるか分からないから、ここで寝るよ」
「何かあったら隣だからすぐ呼ぶ」
バンも私がいて、居心地悪いのかもしれないと、私はそう思って薬を飲んだのを見届けると、部屋に戻った。
部屋に戻るって、カップラーメンを作った。夕食を食べていなかったので、お腹が空いていた。時計の針は二時を指している。
『彼が好きなの』
そんなことを言った自分の声が思い出される。
どうしてだろう。
そう考えると、私の胸が潰れそうになった。
人として、彼が好き。
カップラーメンが出来上がる。
私は頷きながら、割り箸でぐちゃぐちゃと中身をかき混ぜる。答えを出せずにいた。出してしまえば、それは消えそうになかった。
バンを好きだから。それは人間として。
『マリー』
そう言われて、肩を叩かれた瞬間を思い出す。
救世主が表れたような感覚だけじゃなかった。
抱き寄せられた体が熱かったのはバンの熱のせいだけじゃない。
食べ終えて流しに向かう。窓が私を写す。
夜中にカップラーメンを食べ、化粧も落とさず、油が浮いているひどい顔がぼんやり映っている。自分の厄介な部分、全てが写っていた。
街の灯りが開いてる窓から入ってくる。夜中だというのに、結構な灯りだ。闇は私の内にしかない。化粧を落として、お風呂を貯めるのも面倒で、私は洗面器にお湯を貯めて体と頭を洗う。シャワーがないのは不便だったけれど、綺麗にしてからベッドに入りたかった。
浴槽の小さな窓からぼんやり月が見える。
あのまま何も言わずに帰った篠塚さんより、高熱のバンの方が心配だった。明日になったら、下がっているといいけど、と思いながら私は自分の体の汚れを落とした。
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