第7話

繋がる


 毎回、うざい絡みをしてくるジェフだったが、ある日、突然、低姿勢に変わった。


「マリエ…サン、オハナシ、アリマス」


 頑なに話さなかった日本語を使うようになった。


 理由はジェフがマリリンに恋をしたからだった。しなだれかかっていた女性たちは消えて、ジェフはその腕に日本語の本を抱えている。


「オシエテ、クダサイ」と私にまで頭を下げてくるから、日本語を必死に習得しようとしているのが分かる。


「…直接マリリンに習ったらいいじゃない」と私は言った。


 そう言うと、マリリンと繋げて欲しいと言われてしまった。私が言った手前、一度はマリリンと交渉しなければならい気がする。きっとマリリンは断るだろうと、何となく思った。口だけで笑った笑顔を思い出すと、そんなに簡単に落ちる人ではなさそうだ。私は意地悪いことだけれど、今まで馬鹿にされていたジェフが断られたらいいと思っていた。


 仕事から真っ直ぐ家に帰って来た時、丁度、建物の入口でマリリンと会った。いつものように挨拶だけしようとするマリリンを引き止めて、ジェフのことを話した。


「あの外人さんが?」


 マリリンもジェフの顔だけは知っているようだった。


「一度、ゆっくりお話して欲しいって言ってました」


「私、英語なんて喋れないんだけど」


「それで…日本語を教えて欲しいと言ってて」


 そう言いながらも、まんざらでもなさそうな顔を見せた。私としては早々に振って欲しかったので、そういうマリリンの表情を見て、少し落ち込んだ気持ちになった。


「レッスン料もいくらかは分からないですけど、払うって…」


「小嶋さんは嫌いなの?」


 真っ直ぐ目を見られて、思わず固まってしまう。マリリンは見通せる目を持っているようだった。マリリンで自分の鬱憤を晴らそうとしていたことがばれたことが恥ずかしい。視線を落とすと、相変わらず温度の感じない声でマリリンが言った。


「いいわ。今度の日曜日、夕食でもどうですかって訊いててくれない?」


「本当にいいんですか?」


「ええ」とにっこり微笑む。


 でもその笑顔の瞳は薄暗く揺れた。腑に落ちない気持ちになったものの、役目は終えられたので私はそのまま部屋に戻った。


 その伝言をジェフに伝えると私の子供の使いは終わった。ジェフはその高身長で飛び上がり、汚い天井に頭をつけそうなぐらい喜んでいた。


 その後、私はジェフと二人でいるマリリンを目にすることになったが、幸せそうなカップルに見える。二人でスーパーに行ったのだろうか、葱がのぞいたビニール袋をジェフが持っていたりする。あれからジェフは私に会うと


「マリエ、サンキュー」とハグをしようとするから、ますます嫌いになった。


 恋をすると人は変わるのだろうか。私はそれでますますジェフのことが信用できなくなった。あんなに日本人のことを馬鹿にしていたのに、と思いながら鼻を鳴らした。



 愛してる。


 その言葉を何度も繰り返される。


 だけど、いつもそれはその時だけのものだった。




 ジェフが羨ましい。なんであんなやつが幸せで私は浮かばれないんだろうという思いがぐるぐるする。


「マリー、浮かない顔をしてるやん?」


 押し入れの中からバンの声が聞こえる。さっき入口で鉢合わせをした時、私の瞼は赤く腫れていた。あまりにも悔しくて泣いてしまった。


「そう?」


 多分、バンには届かない声で私ははぐらかした。今、鏡を見たら、私の顔は本当にひどい顔をしているに違いなかった。だから鏡の前には立ちたくなかった。そのままバンの声が聞こえる押入れに凭れて座り込んだ。


「友達やーん。辛い時は一緒にいよ」


 そんな優しい言葉にも返事ができないまま、私は膝を抱えて唇を噛んだ。


「マリー、酢豚の作り方、知ってる?」


「は?」


「まず、豚を揚げるやろ? その後、野菜を切って」


「だから、何?」



「何て言ってるか、聞こえへんわ。まず豚肉に塩コショウをするやろう? それから衣を作るねん。衣は塩を少しいれた小麦粉と同量の水やで。卵を加えるんやったら水の量を加減してや。先に豚肉に小麦粉を薄くつけてから、衣をつけたらいいねん。ほんで豚肉やからしっかり火を通して」


 私は根負けして、ずっと酢豚の作り方を聞いていた。その内、私の心の中にあったややこしい感情がどこかへ消えて行くのが分かった。バンが話すと、ピーマンや人参、玉葱などの色とりどりの食材が鮮やかに浮び上がってくる。


 油の跳ねる中華鍋に形良く切られた野菜が踊り出す。


「野菜は強火で手早く」


 想像しているうちに、私は自分がお腹を空いていたことに気付いた。そうだ。私はもう大丈夫だ。


「もう我慢できないよー」


 そう言って、私は足をばたばたさせながら、私はふすまを開けて、押し入れの中に頭を突っ込んだ。二十センチ開いた穴からバンの笑った両目が見えた。


「目潰し」と言って、私が指を突っ込むより早く、バンは顔を横にずらした。


「しゃーないな。出勤前に何か食べに行こ」


「何かじゃなくて、酢豚がいい」


 バンが軽く笑う声が聞こえた。


 二人で体をぶつけながらぼろぼろな階段を降りる。自分は汚い壁に体がつかないように、相手を壁につけようと、手加減せずにぶつかる。もう少しで出口、という時に、バンが忘れ物をした、と言い出した。


「何?」


「舞台で使う扇子。羽根が取れたから持って帰って修理してたやつ」


「もう、外で待ってるよ」


 私は一人で表に出た。そこに会いたくない、でも会いたかった人が立っていた。


「篠塚さん…」


 探偵を使ってまで私の居場所を探したと言う。


「もっと君を大切にする」


 どうして嘘だと分かる言葉に胸が揺れるのだろう。


「君がいなきゃだめなんだ。何度も言うけど」


 愛されたい。私だって愛されたい。


「…でも」


 目眩がしそうになった。私はここで戻ったら、また同じことを繰り返すだけだ。


「だめ」と言葉にして拒絶する。でも胸の中はすでに波打っている。


「お互い、こんなに想っているのに?」


 この言葉で私は崩れた。


 それを見透かされて、腕を取られて抱きしめられた。懐かしい匂い。愛した人の体温。



 バンのことはすっかり頭の中から消えていた。私はその夜、かつての恋人と過ごした。翌朝、部屋に着替えに戻ると、ドアに張り紙がしてあった。


「酢豚美味しかった」


 書かれた言葉で、バンが書いたことが分かる。紙を剥がし、私は鍵を開けた。心の疲労が体に伴っているようだった。終わらせなければならない関係をようやく断ち切れたか、と思っていたのに、私はまた繋げてしまった。あの人を愛しているのだろうか。


「多分、私は愛してなんかいない。ただ淋しいだけで」と自分に言い聞かせる。


 ただ淋しくて、悔しくて、悲しくて、惨めで、誰かに愛されていたかった。


「酢豚食べればよかった」と書かれた文字を見て、私は自分を笑った。



 一人で明けていく空を見ながら、私は一体、何が欲しくてここにいるのだろう、とぼんやり思った。バンと見た時とは違って、ひどく重たい気分になる。


 彼と別れて、新しい恋を始めたかった。新しい自分になりたかった。でもあの人以上に好きになる人がいなかった。ただ毎日を送っているだけだった。でもこうして繰り返される毎日がゆっくりと私を干からびさせていく。このまま、誰にも発見されずに、干からびていってもいいかもしれない。会社を辞めて、行方不明になっても、両親だって三ヶ月は気付かないかもしれない。小さな存在。神様も私のことを忘れている。ここで消えても誰もなんとも思わない。篠塚さんだって、私じゃなくても、いいはずだ。そこまで分かっているのに、私はまた同じ日を繰り返す。


 重い体を起こして、私は湯船にお湯を張った。朝風呂に入って、しっかりしよう。きらきらと光る朝日が青白く変色した浴槽に入っていく。お湯の煙が細かく光った。私はその光を見て、どうしようもなく涙が出た。こんなに清潔な朝の光線は私に眩しい感動を与える。だから哀しくなった。それは純粋な美しさだったから。


 ぽろぽろと涙をこぼして入るお風呂は涙風呂になった。温かくて、清潔な朝日の中で私は泣きながら体中を隅々まで洗った。できれば心の中も泡で洗ってみたかった。

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