2 回帰
「コルオーネ・ルヴァン……よね?」
今から一週間前のこと。自分の時間が戻ったことを知ったのは、男爵家の私室で目が覚めたときだった。
冷や汗とともに体を起こし、夜窓に映った自身の姿に目を見張る。
「なんで、生きてるの? それに若いし……」
たしかに私は死んだはずだった。カメレオンの紋を持つ、聖女ランク1の貧相な侯爵夫人――それが最期の私の姿だ。
なのに今は、独身時代に過ごしていた男爵家にいる。これは回帰とでもいう状態なのだろうか。
目を閉じれば、死の直前の光景がすぐに浮かんでくるのに。
あれは二十三歳になったばかりのときだった。夫であるトレミーが珍しく早く帰宅してきたので嬉しく思い、それまで大事に取っておいたワインを開けた夜だった。
『トレミーさま。おめでとうございます。結婚から五年、獣化も少なくなって喜ばしいことでございます。もう少しで完治ですね』
回帰前の私は、今よりもさみしい人間だったと思う。
実家からは遠い土地で生活を営み、子どもも、友だちもいない。婚家のことは多少切り盛りしたけれど、特に重要な仕事を任されたわけでもない。たいていは自分の好きな動物たちの世話をして、日々を過ごしていた。
夫は家を空けることが多く、獣化の治療が必要なときにだけ帰ってくる。貴族男性として最低限の礼をこなすだけの、淡白な人だった。
五年。そんな日々が続いて、私は見かけよりも成長をしないまま、聖女としての役目を終えるところまできた。
「そうだな」
夫であるトレミーが口の端だけで笑う。
獣周期がきても、獣化の兆しが見られないのは、症状が落ち着いてきた証拠。
「獣化」という病は古来から個人の周期によって発作が起きるため、妻である私はいつも心配と不安が絶えない。治療をしてあげられることは幸せではあるのだけど、発作が起きると夫は決まって不機嫌になるため、気が強くない私にとってはそれなりに負担があった。
でもそんな重苦しい時間も、今夜で思い出となるだろう。
うっすらと赤みがかったストロベリームーンを見る。柔らかな月の光を背に、私たちは屋敷のテラスで乾杯をほどこした。
「では、乾杯しよう。素晴らしい夜に」
夫であるトレミーが紅いワインの入った杯を軽くかかげた。口元には笑みが浮かんでいる。
「そうですね。獣化がなくなれば、あなたの苦しみはなくなりますから」
私も笑顔で返し、そっとワインを口に含む。
「ああ。実に五年は長く……俺にとっては苦行だった。お前の様なつまらん女と同じ空気を吸ってるだけでも耐えがたい屈辱だった。雇った催眠術師が優秀でよかったよ」
「……はい?」
耳を疑った。
夫は決して表情が豊かな方ではなかった。加えて饒舌でもなかったので、こんな風に笑いながらしゃべるのは珍しい。
さらに違和感があるとすれば、私の顔をじっと見つめていることだ。まるで餌を目の前にした蛇のように、瞳の光彩は細く、口元は横に大きくひらいている。
「えっと」
喉に重みを感じて咳をする。気がつけば、テーブルの上には鮮血が散っていた。
自分の口から出た血だと気がつくまで、ほんの少しの時間を要した。
「悪いな。たいがい獣化を治してくれる伴侶には男は愛情を抱くものだが、あいにく俺はカメレオン獣なのでね。習性で、伴侶を殺すほど情が薄いそうだ」
たまらずに倒れ込む。あっという間に、自分の体重が支えられなくなった。
喉が焼けるように痛い。胸が苦しくて、呼吸ができない。
「……そんな、だって、五年も……」
倒れ込みながら夫を見上げる。夫の表情は先ほどと変わらず、ひとりでお酒を楽しんでいる様子だった。
「そうだ、五年だ。お前の聖女ランクがせめてもう一つ上だったら、俺は完治していたはずだ。こんなに長く、俺が世間を欺くのに気を遣う必要もなかった。面倒な二重生活が五年も続いたのは、すべてお前のせいだ」
「二重……?」
じゃあ、この人の現実は……私の存在は何だったのだろう。
苦しさのあまり胸をかきむしる。と、首から下げていた獣笛がまろび出る。
痺れた舌で無意識にそれを吹くけれど、音は出なかった。
(お願い、誰か、気づいて)
私の大好きな動物たち。屋敷のケージに入っているけれど、賢い子だからみんな出てきてくれるはず。
けれど、無情にも笛は鳴らなかった。代わりに夫の楽し気な声が頭上から降ってきた。
「ああ、お前の連れてきた汚い家畜どもは始末しておいたぞ。これと同じ毒を使ってな」
うそ。声は出ずとも口の形で私の言わんとしていることがわかったらしい。
「嘘ではない。家畜を殺すことなんざ、人間を殺すよりも簡単だからな。――そういえば三年前、お前に子ができたと知ったときは驚いたよ。だからそっちも別の毒で流しておいた。お前の腹から、カメレオン獣が生まれたら、我が家の恥だからな」
くわん、と何か硬いもので頭を打たれた感覚がした。
(そんな……努力してやっと妊娠したのに……)
幻の赤ちゃん。涙が枯れるまで泣いて泣いて……見かねた実家のお父様が、癒しになるようにと愛する動物たちを送ってくれてようやく立ち直って。なのに。
「なぜこんなことをしたか知りたいか? お前の妹のアルイーネが、成人覚醒でカメレオン紋を発現させたのさ。となると今後の俺に必要なのは彼女であって、年増のお前に用はない。この国では貴族の離婚は認められないからな。悪いが、病気ということで死んでくれ」
もう意識が保てない。冷たい石床の上で、虫のように這いつくばるだけだ。
「安心しろ。終いにはお前の家門もつぶして、カメレオン紋などなかったことにしてやる。俺は優秀な獣痣を持つ男だ。いずれはこの国の中枢となる、尊い血筋なのだ」
――ぽたり、ぽたり、と涙が落ちてくる。
それを見たのか、正面に座っていたお母さまがびっくりして立ち上がった。
「どうしたの、コルルちゃん。お腹でも痛くなったの?」
はっとする。
今でも、回帰した直後の心の痛みはなかなか消えない。日常を過ごしていても不意にこうして突然涙が出てしまうことがある。
回帰から数日経ったというのに。
今日だって、午後までは普通でいられたのだ。なのに突然、思い出してしまって。
「な、んでもないの、お母さま」
ごめんなさいと、続けようとするとしゃっくりが鳴ってしまう。
昔の記憶が哀しいのか、回帰したことが嬉しいのかわからないような、複雑な感情の中、私はあやふやに笑った。そこへ。
「――お母さま、お父さまに聞いたわ! お姉さまがアレパ侯爵子息から求婚状を受け取ったなんて、ウソでしょう?」
亜麻色髪の美しい妹、アルイーネが、息を切らせてガゼボに飛び込んできた。
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