水面の呼吸

水面の呼吸



「姉ちゃん!!

遅いよ、この馬鹿!」


 玄関ドアを開いた瞬間飛んで来たそんな声に、エリカは目を見開いた。


「アリ…。ただいま」

「ただいま、じゃないし!

あれ程行くなって言ったのに、結局パーティーに行ったでしょ!」

「…だって行きたかったんだもん」

「はぁ…」


 アリは片眉をあげながら、ボソボソと言い訳を述べるエリカにため息をついた。


「…で?

なんか言われたわけ?」

「何かって?」

「好きだとか、付き合ってくれとか。甘い言葉」

「…………」

「ふーん、言われたんだ」


 アリの言葉にトクンっと心臓が跳ねる。


「姉ちゃん、まさか本気にしてないよね?」

「……………」


 アリは眉を潜めてエリカを軽く睨む。


「あいつは最悪な遊び人だ。いい噂を聞いたことがない」

「……………」

「大学の女をつまみ食いするように手をつけて…」

「……………」

「…すぐ飽きて捨てる」

「……………」

「あんな最低なヤツ…」

「もうヤメテ!!!」


 エリカはいつまでも止まりそうもないアリの言葉に、ついに我慢できなくなり、爆発するように叫んだ。


「トレールを悪く言わないで!トレールは、紳士でスマートな素敵な人よ!!」

「姉ちゃん」

「私を好きだとも言ってくれたし、本気だとも言ってくれたわ!!トレールがそんなひどい人なわけ…」

「姉ちゃんは、何もわかってない。…じゃあ聞くけど…」


 アリはその言葉の後、一瞬躊躇してから再び口を開いた。


「あいつは、取り巻きの女達の殆どに手を出してる。少しは心当たりあるだろう…?例えばあのケバい、イリーナとか言う女」

「……っ」


ーーーイリーナ…。


 確かにエリカにも心当たりはあった。

 あのパーティー会場での二人の様子からそんなことは容易に想像できる。


 しかもトレールはあの時、手を引いていたエリカではなく、後から来たイリーナを選んだ。

 あの時、エリカは確かに傷ついた。


 イリーナのあの勝ち誇った顔が、未だに脳裏に焼き付いて離れない。



「あら、お嬢様。おかえりなさいませ」


 その時、ガチャっという音と共に扉が開き、ルーナさんが顔を出した。


「…ルーナさん、ただいま」

「あらお坊っちゃまもいらしたんですね。

…どうしたんですか、お二人してそんなお顔されて」


 ルーナさんはそう言って、難しい顔をして向かい合うエリカたちを見て首を傾げた。


「いえ、対したことじゃないです。

姉ちゃん、とりあえず…あいつに何言われたか知らないけど、あんなヤツの言うことは何も信じちゃダメだ。全部嘘だ、嘘。

分かった…?」


ーーー全部、嘘?


アリの言葉が鉛の様に胸にのし掛かる。



『エリカ、好きだよ』

『君のそういう所が好きなんだ』

『君が好きだ』

『本気なんだ…』


ーー全部、嘘…?


 エリカはいきなり目の前が真っ暗になるのを感じた。


ーー全部、嘘……?


 唯一掴んでいた紐が切れてしまったような感覚。



「姉ちゃん、あいつに言われたことは全部忘れるんだ」


ーー本当に…嘘なの?忘れなきゃいけないの?ねぇ、本当に…。


 その瞬間、エリカの中で何かが切れた。


「嫌だ!信じない!!…私はそんなの信じない!!」


 そう叫んだかと思えば、エリカは両開きの扉をバンと開け放ち、いきなり玄関から飛び出した。


 その時のエリカの心情はまさに『無』だった。何も信じない、何も受け付けない…ただ『無』である。



「姉ちゃん!!」

「エリカさん!!」


 背後からそんな声が飛んで来るが、エリカはそんな言葉など全く耳に入らず、ただただ風を切って、夜道を駆ける。



「ハァハァ」

「ハァハァハァッ」

「ハァハァハァハァ…ッ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーー



 そうしていつの間にかたどり着いたのが…ーー

何千年もの間ただただ時に身を委ね続けている…大河、ナイルであった。

 近代化したカイロの街に悠々と横たわる巨大な水龍。



「トレール…好きよ。あなたが好き」


 そしてこぼれる様に次々と出てくるトレールへの想い。


「好き…ーー」


ーー好き…。


 それと同時に脳裏を過る、イリーナの顔。

 確かにエリカは、トレールのことが好きだ。しかし、彼を信じることはできない。


 優しい笑顔、優しいキス、優しい言葉。そのすべてがエリカの胸を強く締め付ける。


 エリカはその想いを振り切るようにナイルに架かる橋に歩みを進めた。中央まで行くと、手摺りにもたれ掛かり、闇の渦巻くナイルを見下ろす。


 目の前には、真っ暗な闇。そこに浮かぶユラユラとした街灯の明かり。と…人の、影?


ーーえ…影?


「なっ!」


 驚いたエリカは身を乗り出して水面を凝視した。

 はじめは見間違いかと思ったが、確かにそこには動く人影が見える。


 そこに映るのは本来あるはずのエリカの姿ではなく、幾つかの影。


 鏡の世界の様に反対側からこちらを見ている。


ーー誰…?


 顔が見えないため表情は分からないが、確実にこちらをみている。


 その時、


『メ…』

『…リ』

『いずこに…」


ーーーまた、あの声。


 アブ・シンベルで聞こえたあの複数の声。掠れて聞き取りづらいが、確かにあの声だ。


 エリカは全身が総毛立つような感覚に、自分で自分を抱きしめる。


『ーー…リ、我のもとに』


ーー…ッ。


『我のもとに…』


ーー痛い…頭が…っ、痛い。


 頭の中に直接木霊す声は、エリカの頭をひねり上げる様にキツく圧迫する。


『メリ…』


ーーーっ!!!!!


 激痛が頂点に達した瞬間、バランスを崩したエリカの体は、引き込まれるようにナイルの闇に落下した。




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