柩雨夜
鞠坂小鞠|夏越リイユ
第一章 地雨、苔むす石段の先
《一》山奥の廃寺
六月二十五日、雨。午後十二時三十分。
初夏特有の生ぬるさを
向かう先は、とある寺院の跡地だ。
伝承の中に存在するのみとなったその寺院の名は、すでに地元の人々にさえ忘れ去られて久しいという。私が十七歳のときに亡くなった祖母から聞いた話――お伽話じみたそれを頼りに、私は、馴染みのないこの地へはるばる足を運んできた。
電車の乗り換えは数回を経た。山麓の無人駅で下車した後、地元の商店に立ち寄り、最終的な道のりを確認しようと考えていた。
古めかしい個人商店を選んだ。ガタガタと騒々しく開いた引き戸の奥から現れたのは、想像していた通り、腰の曲がった高齢の女性だ。これほどの年配者なら、古い地元の伝承にもそれなりに通じているのではと踏んでいた。
「……寺? ああ、
「ご存じですか?」
「ご存知もなんも、昔はうちも
「無人、なんですよね?」
相手の言葉へ被せるように尋ねると、お婆さんは口を噤んだ。
今となっては伝承にしか名を残さなくなった廃寺に、なぜ年若い女がひとり向かおうとしているのか、とひどく訝しげな様子だ。
そうした反応は予測済みだ。「大学での研究のためなんです」とあらかじめ用意していた嘘の言い訳を口に乗せる。すると、それだけでお婆さんは感心した顔で「ほぉ」と目を丸くした。
詳しい説明が必要になるかもしれないと、事前にあれこれ考えを巡らせていたものの、あっさり納得してくれたようだ。
この周辺には、大学や短大、専門学校などといった学術的な施設がない。女ひとりで廃れた場所に向かう理由にしてはやや真実味に欠けるかと思っていた手前、お婆さんの分かりやすい反応を前に、私は心中でほっと胸を撫で下ろす。
「いや、でもよォ。お嬢さんみでぇな若い人が行ぐ場所ではねぇよ。道もよ、ぐちゃぐちゃの獣道みでぇになってっと思うぞ?」
心配そうにぼやきつつも、お婆さんは丁寧に道を教えてくれた。おそらくは、話を聞きながら、私が店に並ぶ商品をさまざま手に取っては買い物かごへ入れ始めたからだ。
見るからに田舎の商店といった雰囲気の店だ。大量に買い物をする人間はまず訪れないらしい。その点も予想通りだった。
上客と受け取ってもらえたのか、支払いを済ませた私へ、お婆さんは地図まで手渡してきた。もっとも、目的地のために作られたものではなく、村おこし用と思しき麓の観光マップではあったけれど。
このところの雨で
雨脚は徐々に弱まってきているけれど、やんではいない。
引き戸の横の傘立てに突っ込んでおいた傘へ手を伸ばし、それを静かに開いてから、私は再び足を踏み出した。
*
途中から砂利道に姿を変えた道路は、とにかく歩きにくい。
スニーカーを履いてきて良かった。サンダルやヒール靴では、多分まともに足を進められなかった。
タクシーの利用も考えたけれど、商店のお婆さんから、車は砂利道の手前までしか入れないと教えてもらっている。
どちらにしても頼まなくて正解だった。商店を出て五分も経たないうち、地図は車が侵入できそうにない細道を示していた。確かに、これではバスどころか車さえ走れないだろう。
加えて、麓の観光スポットを中心に描かれた地図上では、その細道も途中で途切れている始末だ。お婆さんの心遣いはありがたかったけれど、地図はこれ以上役に立ちそうにない。
緩やかな坂道に変わった砂利の上を、ひたすら歩く。
運動不足の身体に、整備されていないこの道は堪えた。簡単に息が上がってしまう。ときおり足を止めて呼吸を整えつつ、ゆっくりと進んでいくしかなかった。
だいぶ弱まってきたものの、雨はまだ降り続いているから、傘を閉じるわけにもいかない。片手に傘の柄、もう片手に商店で購入した食べ物や飲み物が詰まったビニール袋。不慣れな場所を歩いている緊張も相まってか、相当な重さに感じられてしまう。
雨の中、でこぼこの砂利道――それも車一台通らない細道をたったひとりで歩き続けるのは、想像を超える重労働だ。
今にも尽きそうな気力を振り絞り、私は先を目指すことに集中する。
「あ……」
どの程度歩いた頃か、眼前に古びた塚が現れた。商店のお婆さんから聞いていた目印だ。
石碑は
腕時計へちらりと視線を走らせる。時刻は午後二時だ。
今夜の宿泊予約は、駅近くの小さな旅館に取ってある。どんよりとした曇り空のせいか、体感ではだいぶ遅い時間に感じられてしまうけれど、日帰りで十分帰れる距離だ。
塚から少し進むと、ほどなくして、右側に苔むした石段が見えてきた。
あれだ。荷物を持つ手に力がこもる。
……なにもせず、このまま麓へ戻ったほうが良いのでは。
一瞬そう思ったけれど、私は首を横に振ってその考えを掻き消した。
石段は、横幅は広くても縦幅が短く、非常に歩きにくい。とはいっても、もうここまで来てしまった。先に進む以外の選択肢はない。
この先は、廃寺と化した〝絵馬様寺〟に繋がっている。その名に冠された絵馬が奉納されている場所も、廃墟同然になっているはずだ。
そこが建物の中にあるのかどうかすら定かではないけれど、廃墟と化した場所なら、どのみち風雨に晒されて朽ちている可能性が高い。それと思しき場所さえ見つけられれば。
無意識のうちに拳を握り締めながら、ふ、と吐息が零れた。
なんのために、これほど躍起になってまで知らない土地の廃寺を目指しているのだったか。
意地になっている自分が
苔むした石段は、思った以上に滑った。
途中から朽ちかけの手すりにしがみつきながら上り、まさに最後の一段というときになって、足が派手にもつれてしまった。
ひやりとした。
こんな無人の山奥、よりによって雨に濡れた苔まみれの石段で足を踏み外して死ぬなんて、笑い話にもならない。
諦念が胸を過ぎる。神様だか仏様だか知らないけれど、崇高な存在に
「きゃッ……!」
反射的に声が出た。
中途半端に宙に浮く感覚が、ぞわりと背筋を駆け抜けたその瞬間、なにかが私の手首を掴んだ。
「っ、あっ!?」
きつく握り締めてくる生ぬるい感触を、逼迫した状況にありつつもはっきりと感じ取る。それは、大いにバランスを崩した身体ごと、私を最後の段の先へ引き上げようとしていた。
傾いた視界の端に五本の指が覗き、ようやく、自分を引っ張っているそれが人の手だと気づく。
「……は、ぁ……」
気づけば、私は石段の先にいた。
結局、転びも落ちもしなかった。多少よろめきはしたけれど、それだけだ。
怪我をせずに済んだのは、五本の指の主が支えてくれたからなのだろう。しかも、勢い良く引き上げられたわりに反動がほとんどない。
けれど、そのことを訝しんでいられるだけの余裕は、私には露ほどもなかった。
荷物と傘の柄をそれぞれ強く握り直し、震えながら前方に膝をつく。ガシャ、とビニール袋と中身が地面を打つ音がして、その音を聞いてから、やっとのことで震える息を吐き出した。
宙に浮いた瞬間の薄ら寒さが、身体の芯にこびりついて残っている。
心臓は痛むほど激しく高鳴っているままだ。同じくどくどくと脈打ったままの鼓膜に、間を置かず、物腰のやわらかそうな男性の声が届いた。
「危ないところでしたね。大丈夫ですか、お嬢さん?」
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