《3》鏡と涙
待ち合わせ場所の、駅前ロータリー。
予定よりも少々早く到着し、どうしたらいいのか分からずウロウロとうろついていた私は、ほどなくして現れた都築さんに颯爽と回収されてしまった。
休日でも、彼特有の爽やかさは少しも損なわれていない。もっとも、有無を言わさず私を車の助手席に押し込み座らせたという言動自体はちっとも爽やかではなかったけれど。
『とびっきり可愛くしてもらえるところ、連れてってあげる』
そう語る彼は、やはりどこか楽しそうだった。前日に見た、爽やかなのかなんなのか判然としない笑顔が脳裏に浮かび、うっかり変な声が漏れそうになる。
乗り慣れない車のシートは、言ってはなんだが少々居心地が悪い。できれば心の準備をする時間がほしかった。そんな切実な私の願いは、駅に到着して数秒で儚く塵と化したのだった。
私服姿の都築さんは、職場で見るよりも遥かに若く見える。いや、幼くと言ったほうが正しいだろうか……本人にはさすがに言えないが。
仕事中はきっちりとまとめられている髪が、今日は無造作に下ろされている。風が吹くたび微かに揺れる柔らかそうな毛先は、私の知っている都築さんとはまるで別人のような印象を引き連れてくる。さらには仕事中とは違い、セルフレームの眼鏡をかけている。分厚く、おしゃれ感の欠片もない私の眼鏡とは似ても似つかない、センスを感じる眼鏡だ。
なんとなく、同じ学部の同期生を彷彿とさせた。
自分の外見に気を回す余裕がない私みたいな人間は、はっきり言って少数派なのだ。
着ている服も、高価そうな印象は特に受けなかった。薄手の黒のカーディガンとジーンズなんて、至って普通だと思う。
それなのに、この人が身に着けるとそれだけで洗練された感じになるのはなぜなのか。私が彼に対して抱いている感情を抜きにして考えても、結論は大して変わらないのではないかと思う。
……一方、私はと言えば。
考えるだけで、深い溜息を零しそうになる。
突然の約束に、昨晩焦燥に駆られながら漁ったチェストの中には、Tシャツ、ジーンズ、Tシャツ……それしかなくて戦慄が走った。
あまりの惨状に涙目になって開いたクローゼットの中身に至っては、バイトで使うワイシャツが数枚下がっているだけだった。溜息などというものではない。臓腑の底から吐き出されるような深い呼吸を、昨晩からもう何度繰り返したか分からなかった。
格好に気を配ることがほぼない私が持っている服は、どれも味気なく、また色気の欠片も感じられないものばかりだ。別にそれは今に始まったことではないが、いざこうやって現実を突きつけられると落ち込んでしまう。
服なんて、着られればそれでいい。ずっとそう思って生きてきた。それを、今回ほど悔いたことはない。
以前、同じ学部の友人に無理やり押しつけられたお古のワンピースがあったことを思い出し、あれならまだいけるだろうと縋る思いでチェストの奥から引っ張り出したのだけれど、広げてみたら虫に食われて穴があいていた。本腰を入れて泣きたくなった。
結局、チェストの中のもので一番傷みが少なく、かつまだ女の子らしく見える服を選んだ。本音を言えば、それさえもひどくシンプルで素っ気ない。女の子らしさなど碌に感じられない代物だった。
消え去りたい。
すぐにも昨日の午後二時半に戻り、半ば一方的に提示された約束を丁重にお断りさせていただきたかった。
どうして、明日は学校です、と嘘をつけなかったのか。
それを伝えられていたなら、きっと彼は折れてくれただろうに。
……いや、違う。本当はとっくに分かっていた。差し伸べられたあたたかな手を振り払うことなど、昨日の私にはどう頑張ってもできなかった。
ほとんど初対面の人物、それも男性を相手にこんな行動を取ったことなんて、二十年以上生きてきて一度もなかった。それでも、そうしなければ苦しくて息ができないくらいに傷口が痛んでいた、それだけのことだ。
彼は、自分が私の痛みを蒸し返してしまったと言った。けれど、私はそうは思っていない。
涙の理由について言及してきたのは、確かに都築さんだ。とはいえ、心のどこかでそれを誰かに聞いてほしいと願っていた自分がいたのも事実だった。痛みに震える心の傷口は、その時点ですでに、どう粘ってもごまかせるような大きさではなかった。
問題は、なぜ彼が私にそんな提案をしてきたか、だ。
都築さんにとって、私はただのアルバイトのひとりでしかない。私のことを悪く言っていたあの子たちと同じ括りに属している人間のはずで、それなのに、彼が貴重な休日を割いてまで私を連れ出す理由が分からない。
仮に私が可愛くなれたとして、それで? 都築さんになんのメリットがある? 私があの子たちを見返して、その先に、この人はなにを見出せるというのか。
『昨日、嫌なことを思い出させちゃったお詫びだよ』
車を発進させる直前に、彼はそう口にした。その本心がどこにあるのか、それがどんな形をしているのか、私にはさっぱり見えてこない。
私が一番不安に感じているのは、そこなのかもしれなかった。
*
辿り着いた先は、高層マンションの一室だった。
車での移動時間はほんの五分程度。駅からなら歩いてでも向かえただろう場所にあるそのマンションで私を出迎えてくれたのは、ひとりの綺麗な女性だった。
頭の高い位置でおだんごにされた、明るすぎない茶色の髪。サイドにまとめられたそのおだんごからは毛先が幾筋か緩くはみ出しており、それがふわふわと揺れている。とても可愛らしい。
それから、白いブラウスに腰に巻いた黒いエプロン。エプロンのポケットからはハサミやら櫛やらが覗いており、ひと目で美容師さんだと分かる。
「はじめまして、海老原 真由さん。
深々と頭を下げた女性が口にしたその挨拶に、一瞬、目が点になった。
ようすけ、とは誰だ。ここまで私を連れてきた張本人を、弾かれたように見やった。都築さんはやはり、えらく爽やかな笑顔を浮かべて私を眺めている。
「……都築さん、そんなお名前だったんですね」
「え、そこ!? マジでか……まぁいいんだ、俺の名前なんかどうだって。郁、後は任せて大丈夫? 俺はいないほうがいいだろ?」
「うーん、どっちでもいいよ。けど女同士でゆっくり話ができたほうがいいかも」
「ん。じゃあ海老原さん、また後で迎えに来るから。終わったら連絡寄越してくれ」
「はい了解」
玄関先でにこやかに交わされる会話に、ついていけていないのは私だけだ。
分かったことは、都築さんの下の名前と、目の前の女性が都築さんのお姉さんだということ。後は、連れてくるだけ連れてきておいて、どうやら都築さんは出かけてしまうらしいということくらいか。
また後でね。
ひらひらと手を振りながら、都築さんは今来たばかりのエレベーターのほうへ去っていってしまった。
「……あ……」
どうしよう。なんなんだろう、この展開。
途方に暮れかけたそのとき、茫然と立ち尽くす私の視界に、細い指がそっと差し伸べられた。
「じゃあどうぞ上がってくださいな、真由ちゃん。私のことは郁って呼んでね」
にっこり微笑まれ、その笑顔が都築さんのそれとどことなく似て見えた。
ああ、この人たちは、本当に姉弟なんだ。場違いとも思える考えが、妙にはっきりと私の脳裏に浮かんだのだった。
*
「わぁ……!」
思わず、感嘆の声をあげてしまった。
足を踏み入れた先――普通ならリビングと呼ばれるはずのそのスペースは、通常の居住空間ではなかった。
一見、美容院風だ。向かって右側に、大きな鏡と、くるりと回る椅子が設置されている。奥側にはシャンプー台の設備も見えた。
それだけではなかった。さらに室内の左側に目を向けると、色とりどりのネイルアイテムが並ぶガラス棚が覗いている。棚の前には対面用のダイニングテーブルが。さらに手前の背の低い棚には、きらびやかなつけ爪の見本が、いくつか額に入って並べられていた。正面の大きな窓には薄いレースのカーテンがかけられており、その隙間から差し込んだひと筋の日差しが、淡い色の床板を走って細いラインを描いている。
隠れ家みたいな美容院。
ひと言で例えるなら、まさにそんな印象だった。
「ふふ。私ね、元々美容師だったの。結婚して仕事は辞めたんだけど、趣味が高じてこういうことをやってるのよ。たまにね」
「……趣味で、こんな立派なマンションに?」
「うん。その、主人がちょっと大きな事業をやっていてね。そんなに構ってやれないからって、買ってもらっちゃったの」
買ってもらっちゃったの、という言葉の意味を頭の隅で考える。一拍置いてから、ああ、マンションのことかと理解が及んだ。
現実味が薄い郁さんの言葉に、住む世界の違いを強く感じ取ってしまう。しかしそれよりも、最後の言葉を口にしたときの彼女の顔が、どことなく傷ついて見えた気がして、私はそちらのほうにこそ気を取られた。
単なる気のせいかもしれない。けれど。
「じゃあ始めましょっか。ふふ、陽介が女の子を連れてくるなんて初めてよ。昨日電話がかかってきたとき、なんかすごく焦ってたし……びっくりしちゃったよね」
「……都築さんが、焦って?」
「うん、『なんでもいいから明日空けておいてくれ』って。笑っちゃうわよね、なんなのあいつ。ふふ、思い出したらおかしくなってきた……あははは!」
高らかに笑う郁さんの表情は、先ほどの傷ついたようなものでは、すでになかった。
よく通るクリアな声。穏やかな表情と物腰。全身から漂う、女性らしい雰囲気。そのどれもが、私がこれっぽっちも持ち合わせていないものに思えてしまう。
笑う郁さんを見つめ、釣られて私も笑いながら、どうしてか少しだけ悲しい気持ちになった。
*
郁さんの手は、まるで魔法をかけるみたいにして、私を根本から塗り変えていく。
バイトがあるから、髪はあまり明るい色にできない。ネイルも、綺麗に塗ってもらってもすぐに落とさないといけない。ならなにをしにきた、と言われてしまいそうな要望ばかり口にする私に、それでも郁さんは、嫌な顔ひとつせずにうんうんと頷いてくれていた。
『真由ちゃんは元の素材がいいから、絶対可愛くなるよ』
普通ならお世辞にとしか思えない言葉も、郁さんが言うから、うっかり期待してしまいそうになる。
郁さんが私の硬めの髪に触れてくれている間、いろいろな話をした。
大学のことやバイトのこと、実家の両親のこと、学費や生活費のこと、将来の夢のこと。それから、自分が本当にやりたいことがなんなのかよく分からなくなってきていることや、今日ここに来るきっかけになった昨日のできごとについても話した。
大半は、私をここに連れてきてくれた張本人である都築さんにすら話していない内容ばかりだ。
話しながら、取り留めのないことを延々と喋っているような気もしたものの、郁さんは楽しそうに耳を傾けてくれている。それがものすごく嬉しいことに思えて、私の口はますます饒舌になっていく。
こんなふうに誰かに自分の話を聞いてもらえること自体が、私にとっては随分久しぶりなのでは。
髪の手入れが終わり、今度は奥側のメイク用スペースに案内され、「ちょっと目を閉じててね」と促されるままに両目を伏せたとき、ようやくその事実に思い至った。
大学に友人はいる。ゼミの仲間と、夜遅くまで学校に残って話し込むこともある。けれど、いつだって私は聞き役だ。しかも自分からその役を望んで買って出ている。ふとした隙につい言葉の端々に滲んでしまうかもしれない心の内側を、他人に探られたくないからだ。
それなのに、今こうやって、昨日までは知らない人だった年上の女の人に話を聞いてもらっている。自分の話に耳を傾けてもらえている。それがこんなにも嬉しいなんて、すぐには信じられない気分だ。
急遽取り交わされた、突拍子もない約束。昨日まで知らなかった人、日常と懸け離れた今日という時間。きっとそういう〝非日常〟が、ある種の興奮状態を私にもたらしているのだ。
平日は学校、週末はバイト。それのみで今の私の日常は終わっている。変化に乏しい日常を繰り返しているだけだ。そんなところに突如降って湧いた特別な時間に、私はいとも簡単に溺れている。今感じている嬉しさや楽しさを、手放したくないと思ってしまっている。
楽しい。ずっとここにいたい。
そんな気持ちが瞬く間に全身を満たしていく感覚に、必死になって歯止めをかける。
……違う。今日が特別なだけだ。私には、楽しいことに時間を使っている暇はない。
両親のこと、お金のこと。それらを無理やりねじ込むようにして自分を戒める。たったそれだけで、夢心地はあっけなく霧散していった。
浮かんでしまった自嘲の笑みが、どうか郁さんにはバレていませんように。
さっきまでよりも小さな鏡を通して見える、どことなく憧れの人に似た女性の横顔を見つめながら、私は誰にともなくそう願った。
*
「はい、鏡。……どう? 可愛いでしょ? コンタクトはどうしても人によって合う合わないがあるから、もし眼鏡をやめるなら、そのときは一度眼科に行ってみてね」
手渡された手鏡に映っているのは、知らない女の人だった。
微かに茶の入った髪色。艶やかに手入れされた髪は、毛先がふわりと丸まり内側に向けて巻かれている。前髪はそれほど短くなく、ファッション雑誌などでよく見かける女性モデルのように緩く横に流されていた。
胸の辺りまで映った鏡の中でその人が着ているのは、ふわりとした女性らしいラインの、ミントグリーン色をしたチュニックだ。細い銀色のネックレスのトップには、クローバーを模したモチーフ。そこに嵌ったダイヤのような石がキラキラと輝いている。それはほのかに室内のライトを反射しつつ、開いた胸元で揺れていた。
目元には、茶色と淡いピンク色が綺麗に配色されたメイクが施されている。ボリュームのある睫毛と整えられた肌色からは、それでもメイクが濃いという印象はあまり受けない。
見覚えのないその女性は、鏡の向こうでわずかに口を開けたまま、驚いた顔で私を見つめている。
顎の右下に少し目立つほくろを見つけて、あれ、これ自分にもあるはず……そう思って、ようやく鏡の中の女性が自分なのだと認識できた。
「……嘘だ……」
「ふふ、最初に言ったでしょう? 真由ちゃん、元がいいから絶対可愛くなるって」
「で、でも、こんなの」
「ねえ、真由ちゃん。いいんだよ? おしゃれしても、可愛くなっても。女の子がそうしたいって願って、悪いことなんてひとつもないの。真由ちゃんがそう思ったとして、そのことを誰も責めたりはしないのよ?」
告げられた言葉と肩に置かれた手のひらのあたたかさが、ゆっくりと胸に広がっていく。せっかく綺麗に整えてもらったメイクが落ちてしまうことにさえ気を回せない。短い時間で構わないから、今はただ、かけられた言葉の優しさにたゆたっていたかった。
鏡に映った自分を見つめたきり、ぽとりとひと粒涙を零した私に、郁さんは驚くでも慌てるでもなく、そっとハンカチを手渡してくれた。
「……ごめんなさい。せっかく、綺麗にしてくれたのに……」
「そんなの気にしなくていいのよ、お化粧なんて崩れたら直せばいいだけなんだから。頑張り屋さんなんだね、真由ちゃん。毎日毎日、一生懸命頑張って頑張って、息詰まっちゃってたんだね?」
心にしみ入る、優しい声だった。
お姉ちゃんがいたらこういう感じなのかも。不意にそう思って、その瞬間に涙腺があっさりと崩壊して、嗚咽交じりの涙がぼろぼろと流れ落ちた。
『頑張ってるね』
ずっと誰かにそう言ってもらいたかった。褒めてもらいたかった。その癖、誰にも本当のことを言わずに生きてきた。
どれほど頑張っているかなど、他の人には自慢に聞こえてしまうのではないか。それが嫌だったから、両親のことも学費のことも、友人やバイト仲間にはひた隠しにしてきた。それなのに今、予期せず抑圧から解放された私の思いは、差し伸べられた手のひらに向かって凄まじい勢いで飛び出していく。言葉に姿を変え、あるいは涙に姿を変え、堰を切ったように溢れ出す。
こんなふうに、誰かに自分のありのままの感情をさらけ出すなんて、いつ以来だろう。
「ふぅ……っく、ぅぅ……」
「好きなだけ泣いていいよ。落ち着いたらお化粧直して、それから陽介に迎えに来てもらおう?」
「う、ん……ぅうっ……」
……陽介。
それが誰の名前だったか、感情がぐちゃぐちゃに入り乱れた頭で一瞬考えて、都築さんのことだと思い出す。
そうだ。私は今日、都築さんにここに連れてきてもらったのだ。
都築さんは、別人のようになった私を見てどんな顔をするだろう。どんな言葉を口にするんだろうか。早く知りたい気がして、でも同時に知るのが怖い気もした。涙を零しつつも郁さんの言葉に小さく頷きながら、優しくてあたたかいこの場所で泣いていたいと思った。
せめて、もう少しだけ。
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