ホテル・カリフォルニア

屑木 夢平

第1話:かび臭いセックス




 ホテル・カリフォルニアは県道から細い道へ入った少し先の、この世の終わりみたいに暗くて寂しいところにある。いわゆるラブホテルなのだけれど、古臭くってかび臭くって、およそ愛なんて生まれそうにない。もしもこんな場所に連れこまれたら、きっと百年の恋も冷めるね。そんな口コミを書きたくなるような、素晴らしいホテルである。掲げられたネオンが光っていなければ廃墟と見紛うようなボロボロの外観は、愛とは対極の、いわば退廃の原風景だ。名前にカリフォルニアとついているがカリフォルニアにあるわけではなく、栃木の外れに人知れず建っている。


 二年前の八月、私は初めてそこを訪れた。煮えたぎるように暑い夜だったのをいまでもおぼえている。私はパステルイエローのタンクトップを着ていて、あなたはふざけたデザインの猫がプリントされた白いTシャツ一枚だった。車のエアコンが途中で壊れてしまい、かといって虫が大量に飛んでいるから窓を開けるわけにもいかず、二人ともサウナに入ったかのように汗だくだった。


 私たちは友人たちとバーベキューパーティーを楽しんだ帰りだった。たぶん、きっと、楽しんだのだ。炎天下で虫がたかるのを我慢しながら肉を焼き、その熱でさらに暑くなって化粧が崩れるという地獄のような状況を差し引いて、そこに最後に残った黒焦げの肉みたいな思い出を楽しみと呼ぶのであれば。職場の同期によって企画されたそのパーティーは、社内外から参加者が集まって、最終的には十二人の大所帯になった。


 しょうじき、こういう場は好きではない。参加したのも幹事の女の子にどうしてもと頼みこまれたからで、そもそも私は屋外で飲み食いをすること自体に抵抗をおぼえるタイプである。建築は人類最大の発明だ。食事は空調が効いた屋内で座って食べるほうがいいに決まっている。


 あなたもまた、望まずして招かれた者の一人のようだった。じかに確認したわけではないけれど、少し退屈そうな顔を見た瞬間に、きっと同じ種類の人間なのだという予感がはたらいた。


 バーベキューが始まってしばらくして、もともと顔見知りらしい七、八人の仲良しグループができあがるのを見た私は、数合わせのために呼ばれた人間特有の窮屈さを感じながら、たくさんの野菜と少しばかりの肉を食べつづけた。さらに、私とあなた以外の残りメンバーもその輪に加わり、私たちとそれ以外とのあいだに国境が引かれた。


「二人は帰る方向も同じでしょう。車で送ってあげなよ」


 パーティーが終わり、片付けも終わりかけたところで、幹事の女の子が品のない笑い声とともにあなたへ言った。でもあなたの青い軽自動車は足立ナンバーで、私の家は町田にあった。足立区と町田が同じ方向というなら、東京へ帰る十二人みんなが同じ方向になるのじゃないか。私は言い返そうか迷ったけれど、あの人たちと一緒に帰るよりはあなたと二人きりのほうがマシだと思って、開きかけた口を閉じた。


 車のなかで、私たちはほとんどなにも話さなかった。あなたは黙ってFMラジオを流していて、車内には知らない洋楽がずっと響いていた。私は洋楽を知らないから、たまにあなたが歌詞を口ずさむと、誰のなんという曲なのか質問した。あなたは気恥ずかしそうに答えてくれたが、何度目かの質問のときにラジオをAMに切り替えた。少し雑音が増したスピーカーから、遠い国の戦争を報じるニュースが流れてきた。


 そんな、決して打ち解けたともいえない二人がラブホテルに入るのはどうしようもなく滑稽な話だ。もちろん入りたくて入ったのではない。エアコンが壊れて死にそうになっていたところにたまたまラブホテルがあっただけ。でも、駐車場の入り口にかかったビニールの暖簾をくぐるとき、私はこれから起こるかもしれないことを想像してどきどきした。私たち以外の浮かれた十人のうち、いったい何人がホテルに向かうだろうと想像した。きっといないだろう。どの車も三人以上で乗っていたし、それに翌日は月曜日だった。


 立派な社会人が日曜日の夜になにをやっているのだろうと、ふいに理性的になったりもした。でも、そうした考えはすぐさま酔いと暑さに押し流されてしまう。運転席のあなたは素面だったが、私はバーベキューのときにそこそこ飲んでいた。もしもこれからなにかが起こったとしても、アルコールか、もしくはあなたのせいにしようと思っていた。


 受付でややもたついたすえに、いちばんシンプルで味気ない部屋に案内された。


「こりゃ、ひどいな」


 あなたは部屋を見るなり眉をひそめた。たしかに室内はひどいありさまだった。天井のいたるところに雨漏りの跡があり、壁のクロスはところどころ剥がれかかっていた。しかも、剥がれたクロスの奥にはかびの生えた下地が顔を覗かせている。念のために浴室を確認すると、ちゃんと動くかどうかもわからないジェットバスがあって、底の部分に水垢がこびりついていた。


「本物のカリフォルニアはこんなにかび臭くないよね」


 私は長いソファに座った。いきなりなんの話をしているのだろう。意味のないことを言っている自覚はあったが、そもそもこの状況のほうが意味不明なのだからどうしようもなかった。


「行ったことあるの?」

「ない。でもわかる」

「行ったことないのに?」あなたはそう言って、そのあとで一人納得したように頷いた。「でも、たしかにそうかもね」

「行ったことあるの?」

「ない。でも、ここよりかび臭い場所なんてあると思う?」


 あなたは声も表情も落ち着いていた。私と違って、酒を飲んでいないから理性的であり続けようとしているのだろう。それを不公平だと感じた私は、むりやりビールを勧めた。あなたは車を運転しないといけないからと断っていたが、ついに押し負けて冷蔵庫のなかから缶ビールを二本取り出した。


「お酒、強くないんだ。運転できなくなるかも」

「大丈夫よ。寝ればアルコールなんてすぐ抜けるんだから」


 私はあなたから一本を受け取り、プルタブを引いた。そうしてビールをほとんど一気に流しこんだ。さらなるアルコールが体内を回り、思考が鈍くなっていく。


 酩酊のさなか、あなたに抱かれることを想像した。次に、なぜ抱かれなければならないのか想像した。私を仲間外れにした人たちを見返してやりたいからかもしれないし、心の隙間を埋め合わせたいからかもしれないし、とくに理由はないのかもしれなかった。


 あなたは信じられないほどお酒に弱く、缶ビールを半分飲んだだけでうっとりとした眼差しに変わった。また、そのあいだに二本を飲み干した私もそうとう酔いが回りはじめていた。


「あなた、真っ赤よ」

「きみも真っ赤だ。肩まで真っ赤」


 あなたはそっと私の肩に触れた。その手つきにいやらしさはなく、まだ理性が名残を留めている。その理性を、積み木を崩すように壊してしまいたい。意地悪な企みが脳裏をよぎった。


「これは日焼けのせい」


 あなたの熱くなった頬にそっと手を触れ、静かに後ずさって、そのままベッドに倒れこむ。あなたもまた引力に引き寄せられるように私の上に覆い被さり、そっと口づけをした。私たちは終始ぎこちなかった。二人とも経験が少なかったし、それに誰かに触れられるのを極度におそれていた。


 あのとき私たちは大きな川のなかにいて、抗いがたい流れに身を任せていたのだと思う。流された先にたどり着く場所はわかっていても、それが自分の望む結果なのかがわからなかった。私はずっとあなたのからだに抱きついていた。流されないようにではない。あなたを道連れにするために。


 やがて眠りについたあなたの腕のなかで、しだいに酔いが醒めていくのを感じた。冷房が効きすぎた部屋は裸の私にはあまりに寒すぎたのだ。そもそも、どうして裸なのだろう。私はもともとこんなふうに羽目を外す人間ではない。きっとあなたも同じはずだ。そういう人間が羽目を外すと、どうなるか。たいていの場合、取り返しのつかないことになる。


 あなたを起こさないようにベッドを這い出て、ゴミ箱を漁った。ちゃんとゴムを使ったか確かめたかった。ゴムは三つあった。私は目を疑った。三つ? 少なくとも一つは前の利用者のものでありますように。心のなかで手を合わせながら、私はもとの場所に戻った。あなたの白く細い腕の中へ。


 翌朝、家まで送ると言うあなたの誘いを断って、近くの駅で降ろしてもらった。


「いまから電車で帰っても、会社に遅れるよ」

「いいの。遅れても」

「そう。ならいいんだけど」


 あなたはそれだけ言って、口を閉ざした。


 私たちはこれからどうすべきか迷っていた。車か電車かという話ではない。二人のこれからについてである。私はあなたの胸板が実は厚いことを知っていても、あなたの好きな食べ物を一つも知らない。あなたもまた私の内太腿にほくろがあることを知っていても、私の好きな本を一冊も知らない。少なくとも、ラブホテルに入ってセックスするような関係ではなかった。あらゆる手順を飛び越え肉体的に繋がってしまった私たちは、光の速度で最適解を追い越してしまったのだ。だが、いまさら答えが追いつくのを待っていては、次の電車が来てしまう。結局、なにも話し合わないまま私はあなたと別れ、三十分後にやってきた電車へ乗った。


 車内には私以外に客はなく、冷房が弱めにかけられているのが心地よかった。朝焼けに染まるホテル・カリフォルニアを窓越しに眺めながら、私はお腹の底に冷たいものが落ちこんでいくのを感じた。


 夜はネオンの光しかなくてよくわからなかったが、明るいところで見るとホテルの外観は廃墟そのもので、よくもあんな場所でセックスできたものだと馬鹿馬鹿しくなった。それから少しだけ、気が楽にもなった。私は靴を脱ぎ、座席に横になる。世界が私だけのものになったみたいだ。


 バッグのなかのスマホが鳴った。あなたからの着信だった。別れ際、帰り道でなにかあるといけないからと言われ、私はあなたと連絡先を交換していた。


「もしもし」


 起き上がり、乱れた髪を整えながら応答すると、落ち着き払った声が聞こえてきた。あなたは電話口で少し長い話をした。その多くはすでに忘れ去られてしまったけれど、要約すれば私と付き合いたいという告白だった。私はほとんどなにも考えずにその申し出を受け入れた。だって私たちはやることをやってしまったのだし、二人とも付き合っている相手がいなかったから。友達から始めたほうがいいのではという考えも脳裏をよぎったけれど、そもそもあんなことをした数時間後に友達に戻れるほど私は器用な人間ではない。


「ねえ」私はホテルのあった方角に目を向けた。「あのホテル、どうしてカリフォルニアなんて名前だったのかな」


 するとあなたは答えた。


「むかし、ホテル・カリフォルニアって曲があったんだ。きっとそれから取ったんだろう。ぼくたちが生まれるよりもずっと前の曲」

「知らない」

「いい曲だよ」


 あなたからの告白の言葉を忘れたくせに、このやりとりだけ鮮明におぼえているのは、これが私たちの関係性を象徴する会話だったから。私たちは同じ時間を生きているようで、実はまったく違う時間軸に立っていた。あなたが知っている曲を私は知らない。私が知っている小説をあなたは知らない。もしもこれらに予め気づいていたなら、私はあなたの告白に違った答えを返したかもしれない。でも、このときの私はおろかにもあなたとの一夜に運命を感じはじめていた。


 結局、二つ返事であなたの恋人になった私は、そのまま眠りに落ち、乗り過ごして、会社を休んだのだった。

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