第18話 闇色のドレス


「あら? ミリア、このドレスって」


 今夜は、カイルとミランダの成婚パーティーが行われる日だった。つまりはエリザベスが社交界へ復帰する勝負の日でもある。


 数日前から、ミリア他、沢山のメイドによって全身をくまなく磨かれていたエリザベスは、最高の出来に仕上がっていた。ピカピカ艶々のお肌に、銀色の髪はサラサラで指通りも滑らかだ。光があたれば天使の輪っかですらあらわれる。


 そして数週間前から準備していたドレスは、社交界復帰に合わせ、勝負色である瞳の色と同じ青色のドレスのはずだった。しかし、目の前に準備されているドレスは、闇夜を思わせるほど深い黒色の生地に、ドレスの縁には銀糸の刺繍がふんだんにあしらわれている豪華なドレスだ。


「はい、お嬢様。シュバイン公爵家のハインツ様からの贈り物でございます。ドレスに合わせて素敵なアクセサリーも一緒に届いております」


「素敵なドレス……」


 エリザベは、壁にかけられたドレスに近づき、そっと表面を撫でる。手のひらに伝わる滑らかな感触に、光の当たり具合で表情を変えキラキラと輝く漆黒の生地は今まで見たこともない代物だった。


 ほーッとため息をこぼし、エリザベスは漆黒のドレスに見惚れる。


「綺麗……」


「アクセサリーもとても素敵ですよ。お嬢さまの瞳の色と同じブルーサファイアのネックレスとイヤリングです」


 ミリアにドレスを着付けてもらい鏡に写る自分を見て、心臓が跳ね上がる。


 闇色のドレスを纏ったエリザベスは、まるでハインツに抱かれているように見える。


 いないはずのハインツに背後から抱きしめられているのではと、エリザベスは鏡に写る自分を見て幻想していた。


 跳ね上がった心臓の鼓動が早くなり、落ち着かない。


(何を考えているのエリザベス! 今夜は闘いの日なのよ。ハインツ様に心を乱されている場合ではないわ)


「お嬢さま、こちらを。ハインツ様からです」


 ミリアに手渡されたカードを見つめ、エリザベスの瞳に涙が込み上げきた。


『エリザベス、会場で待っている』


 一人で闘うしかないと思っていた。ただ、ずっと怖かった。足元から崩れ落ちそうなほど怖かったのだ、一人で闘うことが。


「ミリア、闘ってくるわ!」


 途切れそうになる緊張の糸を、この漆黒のドレスがつなぎ止めてくれる。


 エリザベスは決意を胸に歩き出した。



♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢



 スバルフ侯爵家の夜会会場は、たくさんの貴族で溢れかえっていた。


(さすが、スバルフ侯爵家の成婚パーティーね。規模が違うわ)


 王宮の夜会並みの人の多さと豪華さに、エリザベスは感嘆の声をもらす。


(今夜の主役であるミランダ様は緊張を強いられているわね。ただ、あのカイル様のことですもの、完璧なエスコートで、周りを圧倒していそうね)


 カイルの溺愛ぶりに、ミランダが緊張する暇もないかもしれないと考え直し、笑みをこぼす。


「エリザベス、そろそろ向かうぞ」


 兄リドルのエスコートを受け、会場内へと一歩を踏み出したエリザベスだったが、どこからともなく聴こえるヒソヒソ声に、緊張が高まっていった。


 会場の中心へと進めば進むほど大きく、数を増していくヒソヒソ声にエリザベスの足がすくみそうになる。クスクスと笑いながら言われる嘲りの言葉やあからさまな中傷は、小さな声であろうと刃となりエリザベスの心に突き刺さる。


(覚悟はしていたけど、辛いわね)


 枷をつけられた囚人のように足が重く、一歩を踏み出す事でさえエリザベスには辛い苦行のように感じられた。


(エリザベス、こんなところで挫けていてはダメよ。どんなに辛くとも闘うと決めたじゃない)


 自分を叱咤しながら進み、やっとの思いでスバルフ侯爵夫妻、カイルとミランダへの挨拶を終えたエリザベスは、壁の花となることに成功した。


「ここなら、あまり注目されずに済むかしら」


 独身貴族のリドルは早々に沢山の貴族令嬢に取り囲まれどこかへと消えてしまった。あとは、パーティーが終わるまで、ここでジッとしていればいい。ゆったりと流れるワルツの音に、会場の中心では、独身の男女がダンスを踊る。そんな華やかな会場を右へ左へとエリザベスは視線をさまよわせる。


「どこかにいるのかしら……」


 こんなに沢山の人がいるのだもの。ハインツ様が私を見つけられるはずないわね。


 そんな事を無意識に考えてしまっていた自分に苦笑がこぼれる。一人でこの場に立ち続けねばならない現実が、想像以上にエリザベスを追いつめていた。


「こんな時こそ、いつもみたいに現れなさいよ。もう一人はいや……」


 壁の花になる度に、いつの間にか現れてはニヒルな笑みを浮かべ側に立つハインツを思い出し、エリザベスは泣きそうになる。


 ウィリアムが他の女性の手を取るたび不安で不安でたまらなかった。壁の花となるたび、周りから向けられる憐れみの視線と嘲笑に、ひとり耐えねばならぬ時間は、エリザベスにとって永遠とも思えるほど長く、辛かった。


(なぜ、今まで気づかなかったのよ。孤独に押し潰されそうだった私を救ってくれたのは、いつだってハインツ様だったじゃない)


 ハインツと言い合っている時だけ、周りの目を気にせずにいられた。


 今だったら分かる。揶揄い混じりの言葉の節々に散りばめられた優しさに、エリザベスは救われていた。


 ハインツが隣に居てくれたからこそ、楽に呼吸が出来た。


(彼が側にいないだけで、こんなにも心細いだなんて知らなかった)


「エリザベスなのか? はぁぁ、見違えたよ。とても綺麗だ」


 突然かけられた声にエリザベスは慌てて顔をあげる。すると、そこにいたのは、ピンクブロンドの髪を緩く巻いた可愛らしい令嬢を連れたウィリアムだった。


「ウィリアム様、お久しぶりでございます」


 元婚約者の登場に動揺したエリザベスだったが、なんとか笑みを浮かべ礼を取る。


「ウィリアム様、そちらの方はどなたですの? マリアにも紹介してくださいませ」


「あぁ、すまないマリア。こちらはベイカー公爵家のエリザベス嬢だ」


「ベイカー公爵家の意地悪令嬢ね。ふふふ、王子様に婚約破棄された。お可哀想に。わたくしマリアよ。今のウィリアム様の婚約者なの」


 ウィリアムの腕にしな垂れかかり甘えるように言葉を紡ぐマリア・カシュトル男爵令嬢。彼女とは、婚約破棄を言い渡されたあの日、顔を合わせている。それなのに知らないふりをすると言う事は、マリアにとってエリザベスは、覚える必要がない無価値な存在だと言っているのと同じだ。


 たとえマリアがウィリアムの婚約者になろうとも、結婚が成立するまでは男爵令嬢と言う立場は変わらない。本来であれば、一度でも顔を合わせた格上令嬢を前に、知らないふりなど出来るものではない。


 しかも、階級がものをいう上位貴族の中では、公爵令嬢が発言する前に、格下の令嬢が勝手にしゃべるなど言語道断とみなされる。


 固唾をのんで様子を伺っている貴族の中には、自身の家名すら名乗らないマリアに非難の目を向ける者もいたが、苦言を呈するつもりはないようだ。


(舐められたものだわ……)


 ただ、ここで目くじらを立てれば彼らの思う壺だ。


 冷静になるのよ、エリザベス!


「申し遅れました。ベイカー公爵家のエリザベス・ベイカーと申します。以後お見知りおきを」


 屈辱でエリザベスの手が震えていた。それをなんとか抑え、エリザベスは屈辱の時間を必死に耐える。それを嘲笑うように、延々と居座りしゃべり続けるマリアとウィリアム。


 とうとう耐えきれなくなったエリザベスはその場から離れようとして、ウィリアムに手首をつかまれたことに気づいた。


 つかまれた手首を認めた瞬間、嫌悪感がエリザベスの全身を駆け巡り、身体が震え出す。とっさに手を引き抜こうとしたエリザベスだったが、反対にウィリアムに引き寄せられていた。


(やめて……離して……)


「ウィリアム様、私の婚約者に何をしているのですか?」


 背後から響いた声に泣きそうになる。


「婚約者だと!?」


「えぇ、エリザベスは私の婚約者です。その手を離してください」


 手首を握る手が緩んだ一瞬の隙に、ウィリアム殿下の腕に囚われていたエリザベスの身体は、ハインツの手に引かれ、彼の腕の中へと収まっていた。


『ひとりでよくがんばったな……』


 強い力で抱きしめられ、耳元でささやかれたハインツの言葉に、エリザベスの涙腺はとうとう崩壊した。

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