待ち合わせ
「八雲さん! よかった、ちゃんと来てくれたね」
「……オマタセシテスイマセン」
ああ、明日が来てしまった。
新村先輩が青みがかった瞳を輝かせたのとは対照的に、私の目はそれはもう死んでいたと思う。
彼が指定したブックカフェは、駅から少し歩いた路地の中にあって、ぱっと見ではカフェとは分からない民家のような風貌だった。事前に聞いていた店名と外に置かれたスタンド看板がなかったら、通り過ぎてしまっていたかもしれない。
けれど恐る恐る入ってみると思いの外中は広く、まずは落ち着いたジャズと共に、持ち帰りのお菓子や書籍を販売しているスペースが出迎えてくれた。その向こう側にカウンターがあって、カップやコーヒー豆を詰めたボトルが品よく並んでいる。
そこから左に抜けた空間にはゆとりを持って曲線状のテーブルとソファが配置されていて、数組見える先客たちが居心地がよさそうに寛いでいた。何よりも、壁一面を占める本棚は圧巻の一言に尽きた。
「ほあ……」
そしてそれを目の前にした私の感想はといえば、すごい、お洒落だし居心地よさそうだし本がいっぱいある、という語彙力の欠片もないものだった。……あと正直、高校生にはちょっと敷居が高い。
外の看板にはコーヒーの種類がびっしり並んでいて、値段までは書いてなかった。でもこういう本格的そうなところって、コーヒー一杯で千円とかするんじゃないだろうか。バイトしているわけでもなくお小遣いの全てを本に注ぎ込んでいる私からすれば、それはかなりの痛手だ。
お財布の中身を思って冷や汗をかいた私は、どうしようやっぱり帰ろうかな、もしく連絡入れて場所をその辺のファストフード店とかに変えてもらって……とじりじり後退りながら算段を始めたけれど、その前に入店のベルの音に反応してか、カウンターの奥の扉から店員さんらしき人が出てきてしまった。
四十代半ばくらいで落ち着いた雰囲気の、まさしくマスターみたいな風貌をした男性が私を見て目を瞬いたものだから、居心地が悪すぎて走って逃げ出したくなる。子供っぽい私じゃ、明らかに場違いだ。ごめんなさい間違えちゃって、と口から飛び出す前に、マスターらしき男性がふわりと目尻を緩めて口を開いた。
「ああ、薫坊ちゃんのお連れ様ですね。奥へどうぞ」
なん、なんて?
思わずそのまま口から出そうになったのをなんとか飲み込んだけれど、間違いなく顔に出ていたと思う。しかし向こうも接客のプロ、笑顔で押し切られ流れるように店の奥にひっそり位置する扉の前まで案内され、ご注文がお決まりの頃また伺います、という声が聞こえた次の瞬間には扉の中に放り込まれていた。
そして先に中で待っていたらしいニッコニコの新村先輩に出迎えられたわけだけれど。
「家まで迎えに行くことにならなくて良かった。お昼は食べてきた? とりあえず座って、何か飲み物でも──」
「あ、あの! 先輩、この個室は一体……」
締め切られた扉に背を付けるようにして、私はまともに耳に入ってこない彼の言葉を遮って声を上げた。きょろきょろと見回す姿は挙動不審の一言に尽きただろうけれど、それも致し方ない。
私の部屋より体感少し狭いくらいのその空間は、先ほどまで見ていた店内を、個人のために誂え直したような造りになっていた。
壁一面の大きい本棚に、木製のテーブルを挟むようにして置かれた、柔らかそうなクッションが敷き詰められたソファ。小ぶりなシャンデリアが暖かに室内を照らしていて、小洒落た雰囲気を際立たせている。壁に掛けられた絵画ひとつ取っても、なんというかこう、高そうだ。
私が尻込みしていると、ああ、と新村先輩が何でもないように応えた。
「この部屋? マスターの趣味で一人でゆっくりしたい時のために誂えたものらしいよ。稀に予約制で貸し出しもしてるみたいだけど。マスターとは昔からのちょっとした知り合いでね、こういう時は融通してもらえるんだ」
「ひぇ……」
私は思わず頬を引き攣らせた。軽く言っているけれど、一介の高校生は普通そんな伝手を持っていない。さっき坊ちゃんとか呼ばれていたし、もしかして新村先輩って、所謂上流階級の人間なんじゃなかろうか。元々全く近しくは感じていなかったけれど、本当に住む世界の違う人だ。
そして二人で向かい合って話すどころか、個室で二人きりという想像の埒外の状況に逃げ出したい気持ちがどんどん膨らんでいく。しかし部屋に入ってから彼は瞬きもせず爛々とした瞳で私のことを見つめているし(とてもこわい)、お店の人もグルとなるともう諦めるしかない。
死んだ目のまま、おずおずと歩を進めて向かいのソファに腰掛ければ、身体が沈み込んでいくような感覚がした。座り心地よりもなんか高そうで怖いという感想しか出ない。
「ね、ここならゆっくりできるし、周りの目も気にならないかと思って。だから変装なんて必要ないって言ったのに……八雲さんがどうしてもって言うから、一応顔は隠してきたけど」
「……いや、そりゃ言いますよ……」
苦笑を浮かべる彼は、私の分厚いものとは違う度の入っていないメガネを掛けて、目深に帽子をかぶっている。白のトップスに紺のカーディガン、カーキのスラックスという出立ちはシンプルながら大人っぽくて、とても高校生には見えないしこのカフェに居ても全く違和感はなかった。
新村先輩と二人で出かけるにあたって、私がどうしても譲らなかった条件が変装だ。彼の人気は校内だけに留まらず、他校にまでファンクラブがあるとか聞いたことがある。
彼が二人で異性と出掛けていたなんて噂が出回ろうものなら、一瞬で私の身元が特定され、夜道を歩けなくなるどころか学校にも行けなくなるに違いない。
だからせめて顔を隠してきてほしいと渋る彼にお願いし、なんとか了承をもぎ取ったのだけれど……まさかカフェの中の個室に通されるとは思ってもみなかった。あと確かにぱっと見では新村先輩だと分からないかもしれないけれど、スタイルと顔の良さが全く隠せていないのであんまり意味がない。
いっそ全身タイツで来てくださいって言えばよかったかな、とやけくそに考えていれば、ふと彼が先程までとは違う色を宿した瞳でじっとこちらを見つめていることに気がついて、肩を跳ねさせた。
「あ、あの……な、何か」
もしかしてどこか変だったかな、と慌てて自分の服装を見下ろす。彼の隣で釣り合いが取れるように、なんて身の程知らずなことは最初から考えていないけれど、不興を買うのも怖いし最低限清潔感にだけは気をつけたつもりだったのに。
というかただの白いシャツワンピースに革カバンなので変もへったくれもあるはずない。何なら入学祝いに祖母から貰ったこの本革のカバンはオイルで手入れしたばかりなんだぞ、ぴかぴかなんだぞと謎に反抗的な思いでいれば、彼がうっそりと瞳を蕩かせた。
「ううん、私服姿の八雲さんが目の前にいるの、夢みたいだなって。そのワンピース、すごい似合ってる。めちゃくちゃ可愛いね」
「へっ」
砂糖を煮溶かしたような声で囁かれたそれが予想外すぎて、私はひっくり返った声を上げた。次いで必死で抑えるのも虚しく、じわじわと顔が熱くなっていく。我ながら簡単すぎると思うけれど、異性に可愛いなんて言われたのはこれが初めてなわけで、そりゃ照れるくらいするというものだ。
「あ、ありがとう、ございます……?」
小さく疑問符の飛んだお礼を返せば、新村先輩がまるで年相応の男子みたいな、浮かれたような笑みを見せたものだから、直視できずに視線が彷徨い落ちていく。
……あれ。脅迫されているという恐怖にばっかり目を向けていたけれど、新村先輩は一応私のことが好きらしくて、今日は彼曰くアプローチのために呼び出されたわけで。しかも、カフェとはいえ個室に二人きり。
──もしかして、今日ずっとこんな感じのむず痒い空気に耐えないといけない……!?
そう思い至った瞬間、色付いていく頬が無性に恥ずかしくなった。今更みたいに早鐘を打ち始めた心臓にぎゅっと目を瞑れば、ごく、と喉を鳴らす音が目の前から聞こえて。
「……八雲さん──」
……ぐぅ〜〜。
「………」
「…………」
……そういえば、最初に聞かれてスルーしてしまったけれど。
──先輩、お昼、私はまだです。
「ふっ、……うん、そうだね、先に何か注文しようか」
肩を震わせてそう言う彼に無言で頷く以外、私に何ができただろう。
……とりあえず、「帰りたい」から「死にたい」に感情がアップグレードされたのは間違いなかった。
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