第12話 川のほとりで
いばら城に戻ってきたレゼフィーヌは、乱暴に荷物を置くとぐしゃぐしゃと前髪を搔きむしった。
「ただいま」
「お帰りレゼ。何かあったのかい?」
エマ婦人は帰ってきたレゼフィーヌの顔を見るなり尋ねた。
レゼフィーヌが明らかにいつもの冷静さを欠いているような気がしたからだ。
「いいえ、何でもないわ」
レゼフィーヌは動揺を隠すように笑顔を作り、買ってきたパンをテーブルの上に置いた。
「そうかい?」
「ええ。気にしなくても大丈夫よ」
レゼフィーヌはひらひらと手を振ると、自分の部屋に戻った。
部屋のドアを閉め、息を整える。レゼフィーヌは魔法書を開いた。
今まで辛いことがあっても魔法の研究をしているとすべて忘れられた。
継母や妹に虐げられても、自分が魔女になり一人森で暮らす妄想をするだけで現実世界から離れられた。
だけど今はどうだろう。
魔法書を読ん新しい知識を得ようとしても、物語を読んで空想に浸ろうとしても、ふと気が緩んだ瞬間に、シルムの顔がレゼフィーヌの頭の片隅にちらつく。
「はあ」
レゼフィーヌは小さく息を吐いた。
実際のところ、最初、魔法学園の話を聞いたとき、レゼフィーヌは少しだけ心惹かれていた。
面白い試みだと思ったし、何より男女の区別なく教育を受けられるのが良いと思った。
この地に来る人の中にも、度々「魔女になるにはどうしたらいいのか」「学校はないのか」と聞いてくる人がいる。
その度に、レゼフィーヌは「誰か弟子を探している魔女に弟子入りするしかない」と答えてきたが、魔女のための学校があればいいと常々思っていた。
今にして思えば、シルムが手伝ってほしいというのならば、講師の仕事を引き受けても良かったようにも思う。
でも妃となると話は別だ。
レゼフィーヌが城から追放されて以来、今まで一度も会いに来ることもなかったくせに、あっていきなり「妃になれ」だなんて厚かましいにもほどがある。
シルムは、レゼフィーヌは病で臥せっていると聞かされていたと言っていた。
けれど、それにしても手紙を送るなり使者を送るなりして、レゼフィーヌがどんな状態なのか自分で調べるなりすればいいのにとレゼフィーヌは思う。
とてもじゃないけどシルムが本気で自分のことを王妃にと望んでいるとは思えなかった。
恐らく、シルムは久しぶりに会って舞い上がってしまっただけだろう。
あれだけきっぱりと断ったのだから、甘ったれたお坊ちゃまのシルムはこれ以上自分を追いかけてくることはないはずだ。
明日にはきっと、シルムたちは王都に帰るに違いない。
レゼフィーヌは窓の外を見た。
空を覆う薄暗い灰色の雲。
魔女の森には、しとしとと小雨が降り始めていた。
夜が更け太陽が昇っても、レゼフィーヌの心にはシルムのことが引っ掛かっていた。
「レゼ、顔色が悪いけど、大丈夫かい?」
エマ婦人がレゼフィーヌを気遣うように声をかける。
「ええ、大丈夫よ」
レゼフィーヌは軽い口調で返事をした。
朝ご飯を食べ終わると、レゼフィーヌとエマ婦人は村人に頼まれていた回復薬作りに取りかかる。
煎じた薬草を聖水に溶かし、網目の違うフィルターで何度もろ過をする。
複雑な工程ではなく薬自体はすぐにできた。
けれど、これから冬になり寒くなることを考えると、もっとたくさん薬を用意しておくべきかもしれない。
レゼフィーヌは聖水を保存している水瓶の中を見た。今のうちに大量に聖水を汲んでおかなくては。
聖水とは、魔力を大量に含み不純物の少ない水のことだ。
薬づくりには欠かせない最も基本的な材料なのだけれど、聖水が湧く場所は限られている。
いばら森の奥にある神秘の泉もその一つだ。
「ちょっと泉に行ってきます」
レゼフィーヌはエマ婦人に声をかけると、水瓶を背負い家を出た。
泉までの道のりは三十分ほど。
そんなに遠いわけではないのだけど、水瓶を背負うとなると重みが加わるのでなかなか大変だ。
レゼフィーヌは水瓶に重さ軽減の魔法をかけると、一人で山道へと急いだ。
道の少し下には川が流れている。レゼフィーヌはそれを横眼で眺めた。
いつもはせせらぎの美しい澄んだ清流なのだが、最近の雨の影響か、川はわずかに増水し、泥水が混じっている。
レゼフィーヌはその脇をひょいひょいひょいと軽い足取りで上がっていった。
木の根が張り出し岩の転がる斜面。
ここに来たばかりの頃は辛い道のりだと思っていたけど、今ではレゼフィーヌにとってはこの道もすっかり慣れたものだ。
だけどその時、急にレゼフィーヌの視界がぐらりと歪んだ。
――えっ。
立ちくらみだろうか。昨日の寝不足のせいかもしれない。
「くっ」
レゼフィーヌは慌てて足を踏ん張ろうとしたのだが、地面がずるりと滑り、足に力が入らない。
そうしているうちに、レゼフィーヌの体はバランスを崩して横の川へと真っ逆さまに落ちていった。
レゼフィーヌはよくこの沢で蟹や魚を捕ったりしていたが、普段ならば足を滑らせても浅いのですぐに岸に戻れた。
だけれど雨で増水していた影響で、レゼフィーヌの体はどんどん流されていく。
とりあえず水瓶を浮き輪代わりににつかまって沈まないようにするのが精いっぱいだ。
どうしよう。
どんどん遠ざかっていく岸に、レゼフィーヌはどんどん不安になっていった。
「誰か――誰か助けて」
レゼフィーヌは思わず叫んだ。
こんな山奥で誰もいるはずがないのに。
その時だ。
「レゼ!」
どこからか男の人の声がした。
まさかと思いレゼフィーヌが目を凝らすと、草木をかき分け、木の葉の間から顔を出したのは、渋茶色のローブに身を包んだシルムだった。
「シルム」
レゼフィーヌは信じられない気持ちでシルムの名を口にした。
どうしてシルムがここに?
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