第35話 3番Cメロ 9
バスに揺られること数駅。窓の外は交通量の多い、大きな道路になっていた。税務署や区役所を通り過ぎた先で見覚えがある場所に気がついた。カズフミに降りるよう促された。
ここは、あの日焦る気持ちでタクシーに乗り、得意先に急いでいた私が初めて走馬灯をみた事故現場だ。そして、カズフミが三十年ほども浮遊していた場所。
「どうして、ここ……?」
訊ねる声が微かに震えた。けれど、交通量の多いこの場所では、そんな些細な声質の変化など、飲み込まれて消える。
「俺な、夏奈に自分の好きなロックを聴かせて悦に入ってたけど。少しずつ夏奈が気に入ってくれたり、時々口ずさんでくれたり。タイトルやメロディを覚えてくれるのが本当に嬉しくてな」
スピードを上げて走り去る沢山の車両。合流地点で上げるウインカーの明滅。それらを脇目に走り去る自転車や、歩道を行く歩行者たち。あの事故現場から数十メートル離れた場所に、私とカズフミは佇んでいた。
今朝から感じていた思い出すことのできない大切なものがなんなのか、わかりかけている脳内が理解することを拒絶している。いつもと違う朝のメロディ。いつもよりも明るく言ったあいさつ。つけて行けと指をさした宮沢からの指輪。グルグルとめぐる脳内に食い込むように、往来する車の音が耳の奥をこじ開けるように聞こえてくる。
「あの部長さんが言ってただろ。楽器を背負った若者が、バイクに乗って合流してきた車にはねられて死んじまったって。あれは……きっと俺のことだと思うんだ」
まるで地面とでも会話しているように俯きながら話したあと、カズフミはゆっくりと顔を上げた。
「夏奈の事故と、俺の事故は似てる。だから、きっと俺は夏奈のそばにいることになって、夏奈には俺が見えて、声も聞こえるようになったんだと思うんだよ」
カズフミは、事故のあった場所に視線を向けた。
「交通量ばっかり多くて、誰も立ち止まることのない場所で、俺は三十年も誰にも気づかれずに浮遊してきた。毎日は、何の変化もなくて。腹が空くわけでも、眠くなるわけでもない。雨が降ったって濡れやしないし、寒いのも暑いのもわかんねぇ。会話する相手もいねぇし、暇でつまんねぇから、暇だーって叫んだことも数知れない。けど、だーれも気づきやしない」
少し嘲るような笑みを浮かべている。
「奇跡だって思った。こんなことってあんのかよって。俺のことが見えて、俺と話せるやつが現れるなんて夢でも見てんのかと思ったよ。心臓もないのにドキドキしちまったし」
そこであの、私が好きな笑みを浮かべた。子供みたいにはにかむ笑顔だ。この笑顔が大好きなはずなのに、今は切なさが募っていくだけだった。
「何も変わらなかった毎日が、突然一変して。最初は、俺もパニックだった。けど、俺のことを怖がりながらも、夏奈は少しずつ受け入れてくれて。気がつけば、なんだかいい友達みたいになって。んで、気がつけば……」
車の走り去る音はとても大きいはずなのに、カズフミの声は私の耳に鮮明に届いていた。どんな音も、カズフミの話す言葉を邪魔してはいけないみたいに耳にしっかりと届くんだ。はっきりと聞こえるカズフミの声は、愛おしくてたまらなくて。この声をずっと繋ぎ止めておきたくて、どんなことをしてでも縋りつき放したくないと強く思った。
「俺はさ。事故の記憶を未だに思い出せねぇ。けど、夏奈と今日まで一緒にいた記憶は、どうしても忘れたくないんだ。あんなに楽しかったことなんて、死んでから一個もなかったんだぜ」
カズフミは、わざとおどけて笑った。
「夏奈に音楽を聴かせることも。スマホやテレビを操ることも。憎まれ口を叩かれながらも、一緒になってゲラゲラ笑うことも。ストーカー騒動で、死に物狂いで逃げたことも。あ、俺は既に死んでんだけどな」
クツクツと笑ってから、カズフミがキュッと口角を上げた。
「夏奈。俺は、お前のことが大好きだ。口の悪いところも、寝起きが悪いところも。ちょっと太ったって、あんまり気にしないところも。仕事ができるところも。人にやさしくて、子供が好きなところも。母親を大切に思っていて、情に厚いところも。全部、全部大好きだ」
「……カズフミ」
「俺はさ、見ての通りこんなんだし。どう頑張ったって、生き返ることはできねぇ。生き返らねぇってことは、どんなに夏奈が辛くても、抱きしめてもやれねぇし、温もりを感じさせてやることもできねぇってことだ。結構悔しいんだが、こればっかりは仕方ねぇよな……。だけど、俺にもしてやれることがあんだよ。夏奈、お前がちゃんとしたいい男と一緒になって、家族を作って幸せに暮らすことの手伝いだ」
「……いや、何言ってんの……」
「わがまま言うなよ」
わざとけし掛けるカズフミに、言い返すことができない。だって、今にも涙が零れてしまいそうになっているんだ。カズフミの言葉に、この先何を言われるのか予測ができて、苦しくてたまらないんだ。
「その指輪。めちゃくちゃ似合ってるぞ。俺が生きてたとしたって、きっとそんな高価なもんは買ってやれない。なんせこのいで立ちだ。しがないミュージシャンだった可能性の方が高いからな。寧ろヒモになりかねない。……それに。もしかしたら、俺はお前の父親かも知んねぇしな。だとしたら、いい娘に育っていて嬉しいぜ」
わざと鼻の下を人差し指でこすりいちいち笑いを挟もうとするのは、カズフミ自身も込み上げる感情を抑え込もうとしているからだろう。お互いに、必死になって感情を押し込め、堪えているんだ。
「宮沢なら、きっと夏奈を幸せにしてくれる。あいつは、子供も好きみたいだし、面倒見もいい。仕事だってできるから、将来性もあるだろ。何より、夏奈のことを……好きだ……」
最後の言葉には力がなく、悔しそうにほんの少し唇をかみ俯いてしまった。
「カズフミ……、イヤだよ。このまま消えちゃう気?」
「だーかーら。わがまま言うなって。これは、仕方のないことなんだ。夏奈は頭がいいんだから、わかるだろ」
諭すように見つめる瞳は潤んでいて、私と同じように今にも泣きだしそうだ。
「頼むよ。そんな顔すんなって……。俺は、夏奈の豪快に笑って、憎まれ口を叩いた時の狡そうに笑った顔が好きなんだぜ」
ジーンズのポケットに手を突っ込んだカズフミは、斜に構えて口の端を持ち上げている。
わかってる。わかってるよ。どうすることが一番いいかなんて、ずっとずっとわかってた。このままで良いわけがないって、ずっとわかってた。だけど、でもっ。
「……離れたくない……よ」
こぼれ出た言葉は、涙と一緒にぽたりと地面に小さな染みを作った。頼りない声に込められた大きく強い感情は、カズフミの瞳も潤ませる。
「ありがとな、夏奈。すんげー楽しい毎日だった」
「やだ……、何言って……」
縋るように伸ばした手は、カズフミに届かない。触れられないんじゃない。カズフミが私から距離を取ったんだ。
「成仏したらどうなるのか解んねぇけど。できたら、また夏奈の近くに居られるようになりてぇな……」
グズッと鼻を鳴らした声は涙に震え、泣き笑いのような顔だ。
「宮沢と仲良くやれよ」
「いやっ。カズフミッ」
少しずつ距離を取り、カズフミが事故のあった現場へと後退するようにスーッと下がっていく。追いかけ走り出すけれど、カズフミが車道へ出てしまえばそれ以上先に進むことはできない。
「夏奈の白いワンピース姿。すっげー眩しかった」
右手を上げているカズフミの姿が遠のく。口の端を必死に上げている顔が掠れゆく。続けざまに何台も走り過ぎる車に紛れるように、カズフミの姿が視界から霞んでいく。
「カズフミッ!」
叫んだ声が届いたのか、カズフミの動きが止まった。嗚咽を堪える私を見ると、クソっと悪態をついたのがこの場所からでもわかった。
「かなっ」
カズフミが叫び、勢いをつけてこちらに飛んでくる。両手を広げ、私に向かってくる。
「かなっ」
「カズフミ」
広げた両腕が私の体をふわりと包み込んだ。感じるはずなどないのに、その時の私はしっかりとカズフミに抱き締められたと感じていた。
「かな……。幸せになれっ」
吹っ切るように耳元で囁かれた声が再び遠のいていく。私を包み込んでいたカズフミの姿が薄れ消えていく。
「嫌だよ……カズフミ。いなくなっちゃいやだよ……」
泣きながらカズフミを呼んでも、姿も声も私の目には映らなくて。聞こえてくるのは、走り過ぎる車の音ばかりだった。
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