第31話 3番Cメロ 5

 現実に目を背けた日常がやって来た。雨の少ない梅雨が終わりを迎えようとしている。アスファルトの照り返しにうだるような夏が目の前に迫っている。相も変わらず、カズフミは、お気に入りのロックギターを目覚まし代わりに朝からかき鳴らしている。最近は、歌詞も一緒に口ずさんでいるから、それすらも覚えてしまいそうだ。


「ちょっと、今のフレーズおかしくない?」


 若干あやしい英語歌詞に突っ込みを入れると、雰囲気で聴けよと子供みたいに唇を尖らせる。英語は不得意のようだ。泣きのギターを聴かせたあとは、枕元に置いたまま忘れそうになっているスマホをゆらんと目の前に翳してくれる。


「これ大事だろ」

「サンキュ、助かる。スマホがないと、仕事の連絡が取れなくて困るのよ」


 スマホを受け取りバッグに入れると「俺が選曲した着信音を聴かせられないのは、残念だからな。絶対に忘れんな」とサムズアップされた。


 外は好天気で真夏日だった。あともう間もなくすれば梅雨明けだろう。空は青く、カラッと晴れ渡っている。


「薄着の季節なのに、いいのか?」


 鼻歌まじりで隣を歩くカズフミが、私の体を上から下まで眺めてからボソリと呟いた。言いたいことはよーくわかっている。事故以来、スーツがサイズアップしたままだけれど、それでいいのか。ダイエットしなくていいのかと、このおせっかい幽霊は言いたいわけだ。


「レディに対して、なんてこと言うのよ」


 周囲に人がいないのを確認してから文句をぶつけた。


「俺はな、こうぽちゃっていうのが好みだから、全然気にしねぇけどな」


 体のラインを作るように両手で丸みを作ると、全然と言うところを強調するようにしてわざと顔を覗きこみニヤニヤとする。


「エロ幽霊」


 言い返されているのに、カズフミは嬉しそうにケタケタと笑う。そんな私も、同じように嬉しさで笑みがこぼれた。私たちは笑いあうことで、向き合わなければいけない現実から目を背けていた。そうする以外の方法を思いつくことができなかった。


 仕事もかわりなくこなし、宮沢ともこれといったことはなく同僚としての日々を過ごしていた。休憩室で部長から事故の話を聞いたあと、突然会社の休憩室を飛び出して行ったことが未だに気になってはいるみたいだけれど、その後の様子が普段と変わらなく見えるのか訊ねてくることはない。


 あの日から、頭の中では何度も同じ質問が繰り返されていた。私の父親がカズフミではないだろうかということだ。知ることが怖いと思いながらも、真実を知るべきなのではないかという正義感のようなものに突き動かされて母に連絡を取ろうともした。けれど、そばにいてくれるカズフミを見てしまえば、疑問に手を伸ばす勇気はあっという間になくなった。


 七月初旬の晴れ間が続いていた金曜日。


「澤木。前に言ってた約束。そろそろどうだ?」


 就業時間になり帰り支度を始めていると宮沢がやって来て訊ねる。


 約束?


 訊ねられても、なんのことなのか直ぐには思い出せない。疑問を浮かべていると宮沢が苦笑いする。


「ストーカー騒ぎで、一緒に飯食う約束が飛んでただろう」


 そうだった。ストーカー騒動のあったあの日、宮沢との約束があって着替えを取りに自宅マンションへ帰ることにしたのだ。それが突然現れた小池博に追いかけ回されて、食事どころではなくなりそのままになっていた。


「うん。そうだね。ご飯に行こう」


 宮沢はあと少しで終わるからと、以前と同じように休憩室で待っていてほしいと自席に戻って行った。


「あいつ。やっと夏奈のこと誘ってきたな」


 バッグを手にしてフロアを出ると、カズフミが傍に来てわざとらしく嘆息した。


「どんなところで飯食うんだろうな? 折角だから、たっけぇ店に連れて行ってもらえよ」


 カズフミは、無理にはしゃいだようにはやし立ててきた。


 国立国会図書館の帰り道。カズフミは、悔しいけれど、この世に存在しない自分よりも、現実として存在する宮沢と一緒にいた方がいいんじゃないかと言った。あの日以来、時折宮沢のことをけしかけるような言い回しをする。自分はそばにいて会話するだけで満足だから、自分の存在など気にするなとでも言うように、宮沢との仲を取り持とうとしてくるのだ。カズフミの健気な思いを感じ取るたびに、切なくなってしまう。けれど、明るく接してくるカズフミの気持ちを汲み、私もそのノリに合わせていた。


「あのね。割り勘だから」

「んなことねぇだろ。あいつから誘ってきたんだぞ。男が出すもんだろうよ」


 男ならこうだろ。という毅然とした態度で、女に金なんか出させねぇだろと偉そうに腕を組んでいる。


「はいはい。そうね。宮沢のことだから、もしかしたらそうかもね」


 あしらうように返したけれど、私としては半分払おうという気持ちでいた。宮沢の部屋を出る際、真剣な面持ちで想いを伝えられたからこそ、理由もなく奢ってもらうわけにはいかない。


「悔しいが、あいつはいい男だからな。金も持ってるし、仕事もできる。子供だって、好きそうじゃねぇか」

「はいはい」


 カズフミが何を言いたいのかわかっていても、流してしまいたい自分がいた。


 呆れた返答をしながら休憩室に入ると、中にはポツリポツリとコーヒーを飲んでいる人がいたから声を潜めた。コーヒーメーカーの傍に行き、一人分のコーヒーをカップに入れて、休憩している人たちからなるべく距離をとったカウンター席に腰かけた。温かなカップを握り、暗くなったオフィス街を窓から見下ろす。


「ねぇ、カズフミ」

「あん?」


 窓の外の細かな光たちに目をやりながら、隣の椅子に腰かけているカズフミに話しかける。休憩室には緩やかな音楽が流れていて、ひそめた声くらいはかき消してくれそうだ。


「私ね。事故に遭った時、人生終わったなって思ったんだよね。結婚もしていない。まして子供も産んでいない。母親に親孝行だってちゃんとしていないし。仕事だってまだまだこれからだって思ってた。なのに、あぁ、私こんなところで全部終わっちゃうんだって」


 ぽつりぽつりと話す言葉をカズフミは黙って聞いている。


「病院で目が覚めてカズフミが現れた時は、本当に驚いたんだよ。自分にしか見えないし。自分にしか声が聞こえないなんて、絶対にどこかおかしくなってるって」


 クスクスッと笑いを零してコーヒーへ口をつけると「すまん。すまん」なんて、カズフミが苦笑いを浮かべた。


「こんな訳の分からない現象にとり憑かれてるのに、誰にも相談できないじゃないって悲観にくれそうになったけど。そんなの一時のことだった」


 再びコーヒーに口を付けた頃、気がつけば休憩室には私とカズフミだけになっていた。声を潜める必要がなくなって、ほっとしつつ話を続ける。


「事故に遭って、幽霊にとり憑かれて。命は助かったけど、仕事もなくなっちゃったら、私の人生つんだなって。そんな風に思ったけど、少しもそうじゃなかった。わけのわからない年下幽霊ミュージシャンに頭を抱えるどころか」


 そこでカズフミが「オイッ」と突っ込みを入れた。それにクスクスと笑う。


「ずっと一人が当たり前で、そんなことに寂しさなんて感じもしなかったのに。今は、こんな風にカズフミがいてくれることが当たり前になってる。だから、カズフミがもしもいなくなったら、私……」


 隣のカズフミは、どう応えるべきか悩んでいるようで、一度唇を開きかけたように見えたけれど、うまく言葉にならないみたいで黙り込んでしまった。


 カズフミを困らせている。悩ませ、苦しませている……。この気持ちのせいで自分の抱える想いよりも、カズフミを解放してあげることの方が大事だってわかってる。わかってるんだよ。でも、苦しいよ……。離れたくない。ずっとこのままでいたいよ……。


 沈黙の中、流れる音楽は穏やかで。あふれかえる感情を宥めようとしているみたいだった。


 温くなってしまったコーヒーに口をつける。カズフミの瞳は眼下に広がるビル群ではなく。遠く果てしないそらを見ているみたいだ。その景色を私は一緒に見ることができない。それがとても悲しくて、宥めようとした感情が溢れ出しそうになった時、宮沢がやって来た。


「待たせたな」


 颯爽と休憩室にやってきた宮沢の姿に、感情の流出が塞き止められる。カズフミが私たちから距離をとる。離れた場所に佇むカズフミに視線を送ると、少しだけ寂しそうな切なそうな瞳をしていた。私もきっと今、同じような目をしているだろう。宮沢が現れたことで、カズフミの存在はないものとして行動しなければならない。そうしなければならない現実が心を苦しくさせていった。


 ねぇ、カズフミ。私、周りに頭がおかしくなったって思われてもいいよ。私の傍にはいつだってカズフミがいることを、口に出してしまいたいよ。私がカズフミのことをどんなに好きかも、口に出して言ってしまいたいよ。


「んじゃ、行くか」


 喉の奥で閊える想いを打ち消すみたいに宮沢が促した。一歩先を行く大きな背中について行きながら、切ない胸の内を曝け出してしまいたくて、たまらなく苦しくなっていった。

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