夏の路上、父の話
酔いに沈みもせず、眠りに融けもせず、そうしてただ俺を見る目というのは存外に心地のいいものだな。
こうして夜闇を隔てて語りを重ねることにお前も慣れてくれたのだろうが、一方俺もようやく馴染んだということだ。夜を介して互いを曖昧にしながらも、それでも浮き上がる境目を見逃さずにいられるのは辛抱のいることだからな。
とはいえ気づいてはいるだろう、そうとも、覗き込むのはよくない。眺めるだけなら互いに踏み止まっていられる。間合いというのは大事だな、踏み込んだら死ぬか殺すかしないとならない──剣呑な物言いなのはその通りだが、大概のことはそうだろう。境界、閾値、分水嶺、ここから先は立ち入り禁止と道端の看板が告げるように、線引きというものはどうしたって存在する。お前や俺が、俺にお前が、翻っては世界の全てが混ざらないためには必要な区分けだとも。夜に紛れて夢に沈もうが、日に晒されて影に溶けようが、陽の
さて、そう知ったような
さて。
俺がお前を心配するのは不自然なことでもないだろう。だってそうだろう、俺はお前の父なのだから。
俺のことを、父のことを呼んだ覚えもお前にはあまりないか。けれどもそう後ろめたい、傷すらない肌を恨むような目をするものでもない。覚えていないだけならば、忘れているだけならば、今こうして思い出せばいい。雪の夜に遠くを彷徨う吹雪の悲鳴に怯えるお前を抱いていた腕の持ち主を、神社の夏祭りのその人混みの中ではしゃぐお前の手を繋いでいた相手を、墓場の桜を見に行って、本堂の地獄絵に怯えてしがみついたお前の頭を撫でていた手の主を。お前を見ていたはずのその視線を、確かに覚えているだろう。
お前を連れて歩くのは、
そうして色んなものを見たな。
温い風に吹き散らされる鱗のような桜の花弁、眩い日に跳ねてさざめく川の飛沫、血の滴るような微かな音を立てて積もる落葉、白々と頬を打つ吹雪と黒々と世界を充たす夜──どれもこれも、お前と眺めた景色だとも。そうとも覚えているだろう、倦むほどの柔らかい春の遺恨、眩むだけ烈しい夏の執着、悼むより疚しい秋の物陰、朽ちてさえ麗しい冬の断絶、全てその脳髄の奥にしまい込まれた情景だとも。
だからひとつ、これも覚えているはずだ。
お前、
幼稚園の夏休み、母さんの実家に、
ともかくそうした事情も相まって、何もすることのないお前と散歩に出たな。連れに誘ったときでさえ、お前は二階の洋間の隅で読み飽きた絵本を眺めていたな。駄々をこねないのは手がかからないかもしれないが、かえってそれがいじましい。だからこそ構う甲斐があると言う奴もいうだろうが、つつく側の理屈ではあるか。ふふ……。
玄関を抜けて門を出て、公道に跳ねて散る日射しの眩さを覚えているだろう。
足元から熱に焙られながら、道の端に溜まった影を踏んで歩いたな。もうすぐ日暮れが近い頃ではあったが、それでも夏の午後だ。茹だるような焙るような炒るような、熱に焼かれる肌の感触を覚えているだろう。
散歩といっても、出歩く範囲もたかが知れている。そもそも子供を連れて遠くに行けるものでもない。家から少しばかり離れた神社まで、そこに行ってゆっくり戻るだけの往還だ。
名前も知らない白い花の咲く生垣、時折傍らを走り去っていく軽トラの低い唸り、
諸々を見過ごしてそろそろと歩いて、あと一息で神社が見える、その手前の十字路。暈けて光る赤信号に立ち止まった、塗装の所々が痛ましく剥げた横断歩道。そこでお前は見ただろう。
赤信号の灯る最中、お前が両手で俺の手を掴んだ。小さく息を呑む音は、どこかの家の網戸から漏れる
何があったかと俺はお前を見た。けれどもお前は俺を見なかった。──お前は俺の、父さんの足元から目を逸らせずにいただろう。
どんな阿呆でも、それこそ子供であっても見て分かるような有様だった。何しろ影がなかったからな。
作り物じみて青々とした空から降る獰猛な日に焙られても、俺の足元からは僅かな影も伸びはしなかったな。前にも後ろにも横にも、陰りというものがどこにもない。灼けて黒々と照るアスファルトと靴の隙間はどうにもならないくらいにがらんどうで、その合間に白い日が溜まって滲んでいるばかりだった。
背を焼く日射しで伸びたお前の影は、横断歩道の白線に首を差し出していたのに、な。
ともあれない影を生やすのはできないが、子供をあやすのは大人の仕事だ。だから泣きそうなお前を宥めただろう。影のない人だっているんだ、そもそも影だっていつもあるものでもないのだと、涙に潤む目を見つめて話しただろう。大人は尚更、影だって忙しい、父さんが普段の昼間は家にいないように、影だって父さんの足元にいないこともあるんだと。
勿論適当だとも。そんな理屈を俺が、父さんが知る訳もない。誰だって分かる訳がないと言えばそれが一等正しい物言いだろうな、この世のものに影ができる理屈は学問が教えてくれるが、その影が消えてなくなるような道理を誰が説明できるものか。精々が見た人間の目玉と頭を疑って終わりだ。
それでもお前、そんな頼りない
少なくとも泣いて叫ぶような真似はしないでくれた。ただひたすらに物も言わずに黙って俺の手に縋る掌が、首筋を灼く午後の日差しよりも熱かったのを、俺は未だに覚えている。
そのまま手を握って、横断歩道も渡らずに帰っただろう。振り払うこともなく、泣き出すこともなく、黙って
けれどもお前、影に限った話でもないだろうよ。そもそも俺たちが目を向けていないその瞬間、世界がどうなっているのかなど誰も知るまい。誰一人の目も向けられていないその刹那に、世界がどのような顔を剥き出しにしているか。纏う視線を剥ぎ取られたものの
何、そう怖れるものでもない。うわごとと聞き捨ててくれてもさして困るものでもない。──それでも耳を傾けてくれるのならば、せめてこれだけ伝えておこう。
少なくともお前が目を閉じている間は俺の目が明いている、お前の見ないものを、俺がこの双眸で見張っていよう。せめて
だってそうだろう、俺はお前の父なのだから。父というものはそうあるべきだろう、分かるだろう?
何か語るべき言葉があるのなら、喜んで聞こうじゃないか。またいつかのように眠気にその目を縫い付けられてしまう前に、その黒目がつやつやと暗がりに開いているうちに、何かしらを問うなり尋ねるなり詰るなりすればいい。
──ああ、まだ時期が良くないと、お前はそう思うのか。言葉が足りない、理屈が立たない、情が向かない、別段どれでも責めるわけがない。そう分かっているのなら、納得するまで考えればいい。俺からすれば一向それで構わない。お前の都合に馴染むがいいに決まっている。少なくともお前が約束を違えないうちなら、幾らでも便宜も義理も踏まえてやろうじゃないか。勿論お前はそうした不実を働くような真似はしないとも、分かっているとも、だからこその猶予というものだ。道理だな?
何、お前ばかりに義理を迫るわけでもない。俺とて時期が、潮時というものがあるということだ。お前は勘がいいからな、薄々分かっているだろう。夏も盛りに夜闇は深く、されどじりじりと時は焼け落ちては世間の暗渠に溶けて流れる。
言い様ばかりが派手ではあるが、話としては単純だ。
夏が終わる、夜が明ける、そうしてお前に語るための
忘れてはいないだろう、そんな愚かではないだろう、そして優しい人だろう、お前。ただ話を聞いてくれ、聞いたからには選んでもらう、そういう約束だっただろう。それだけのことではあるが、それだけのことは為してもらわねばなるまいよ。
そう構えるものでもない、ましてや怯えることでもない。どのみちもう幾夜か先の話だ。今すぐではない、こうしてのうのうと宣告じみた真似事ができるくらいには、猶予も余裕もあるということだ。ああ、あとは……信頼があるな? 冗談でもないとも、ここまでの付き合い、これだけの付き合いだ。
だからせめて、それまでどうかお前が健やかであるように──本心だとも、本性だとも、当たり前だろう?
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