無縁:満願と終段、而して俗談

 死にかかった病人の手に撫で回されているような生温い闇の中、俺はベッドに掛けたまま、一際黒いそいつの目を見た。


「俺の番、というか幕間とか言われんのもな、その……結局喋ることはお前についてのことなんだよ、当たり前だけども」

「それでも構わんさ。聞きたいことがあるのだろう。それを吐いてもらわなければ、こちらとしても具合が悪い。一方の口を封じて勝手をするのも成程愉快ではあるかもしれないが、どうにも行儀が悪いだろうよ」


 それだけのことだとも、そう嘯く口元の闇が泡でも爆ぜるように捻れた。

 相変わらず闇夜の沼を見るような有様ではあるが、そののっぺりと暗いおもてに何が浮かんでいるのかはぼんやりと見当がつくようになってしまった。これは俺が慣れたからなのか、それともこいつがこちらに分かるような表し方を覚えただけなのか──どちらにしても馴染むほどにはこの胡乱な夢を重ねているという証明になると気づいて、今更背筋が冷えた。

 どう切り出したものか、と少しばかり躊躇したところで、生白い指が突きつけられた。そのまま目の前でふらふらと振られてから、声が続いた。


「それにお前、この先家に帰るのだろう」


 ここを空けるということだな、とざらついた声が静かに闇を打った。目は逸らさないまま、俺は一度だけ頷く。


「お盆が、あるから。あとは夏休みくらいは顔を出さないと、駄目だろ、家族のとこには」

「そうとも、家族というのはそういうものだな。勿論お前の行動を咎めるでもないが、ただ──覚えているな、約束というより説明の、予告の、つまるところは忠告のひとつだったと思うが」


 ずるりとそいつの顔が俺の眼前まで近づいて、巻き戻るように離れた。首が蛇の這うように伸びて見えたのは錯覚だろう。生白い首は夜闇にぼんやりとその肌の境を滲ませている。


「あまりに戻らなければ、夜を過ぎれば、捨て置かれれば、いかな俺でも見逃せなくなる。何しろもう時間がないからな。俺としてはお前の実家についていけなくもないが──そら、その顔だ。嫌だろう」


 お前の嫌がるような真似はしないともと何度も聞いた台詞を吐いて、そいつは蜘蛛の巣でも払うように手を振った。

 こいつを実家に連れて帰るのは嫌だった。叔父の家のようにこいつ自身が嫌がってくれればいいが、変に気に入られたとしたらものすごく困る。あとは──俺の因縁をよそに持ち込むのも、行儀の悪い話だろう。いつまでも約束とやらを宙ぶらりんにしておくのも落ち着かない。

 それならやはり今日で最後にすべきだろう。どう転がるにしても、その先の吉凶が未だ判断がつかないにしても、どのみち俺には選ぶことしかできないのだ。

 あの夜にこいつと出遭って、逃げも死にも忘れもできなかった時点で、後悔するべき時期はとっくに過ぎている。

 一度だけ、瞬きより長く目を閉じる。煙草の煙を吐くように、短く深く息を吐いた。


「質問、というか大雑把に聞くけど──お前、どれになりたいの」


 双眸が細められ、顔らしき闇が沸いた鍋を掻き回したように蠢いた。

 こいつの顔に口があった見えたなら、裂けるくらいはやってのけただろう。そんなことを思うくらいに、満面の笑顔だった。


「やはりお前に任せて良かった。選ぶという役目を理解した上で、俺の意見を容れるような寛大さを見せてくれるとは、そこまでとは」

「理解つうか、分かるだろ誰だって。あれだけ露骨にやられたら」


 大仰にこちらを褒めそやす口ぶりに馬鹿にされているのかと腹立ちを覚えかけて、別にこいつの口調が大袈裟なのも鬱陶しいほどのおべっかの類が差し込まれるのもいつものことだと納得する。

 思い返せば全くあからさまだったと言うほかない。そもそもこいつには隠すつもりも、かといって説明する気もなかったのだろう。およそその辺りを話せば余計なことをつつかれるとでも思っていたのだろうか。恐らく人間ではない相手の理屈を考えるだけ無駄かもしれないが、こちらから予測できることと言えばその程度だ。


 選べということは選択肢があるということだ。こいつが延々と胡乱な思い出話に曖昧な怪談を聞かせていたのは、要はサンプルの提示のようなものだったのだろう。


 どの位置になら自分怪異が馴染めるか。どの話なら、どの経験を経たとするならば、受け入れられるのか。兄に父や叔父や先輩など、俺に繋がる関係とそこに置かれる存在として認識されるためだけに、こいつはこの薄闇に充ちた曖昧な夢を語り続けてきたのだ。

 過去の記憶を騙ることで俺の認識に押し入って居座ろうとするくせに、その場所の許可を取ろうとしていたのだから、ある種真摯ではあるのだろう。過剰なまでに誠実で律義で横暴だ。──以前、先輩が話してくれた短編小説にそんなものがあったなとどうでもいい記憶が脳裏に過ぎる。あれは頭数合わせで参加した飲み会が案の定どうにもつまらなくて、OB連中が来て日本酒やらが飲み放題になるまでの場繋ぎにと喫煙所に二人で逃げ込んでいたときに、雑談として教えてくれたはずだ。孤独な青年のところに何の由縁もない家族が闖入し、そのまま居座ってしまう。見知らぬ他人に自分の日常が冒され支配されていくことを誰に訴えても取り合ってはもらえず、青年の生活はなすすべもなく侵食されていくという筋だった。結末については先輩は教えてくれなかったが、どうせろくなことにはなっていないだろう。あの人が真っ当に大団円で終わる話を読むわけも、ましてや人に勧めるわけがない。

 ふ、と笑いとも吐息とも曖昧な音が聞こえた。仏壇の蝋燭じみて白い首が、ぐねりと傾いてから元に戻った。


「分かっているなら具合がいい。さて、どうする、どれを選ぶ。父か、兄か、叔父か、先輩か。お前に関わるどれかしら、お前に選んでもらうのが筋だろう」


 いつにもまして口早なのは高揚しているからなのだろうか。穴ぼこじみた黒い目には相変わらず俺も何も映ってはいないが、その奥にちらちらと刃物じみた不穏な色がぎらついているような気がした。


「……やってほしいことは分かったけど、父ってなれんの、お前」

「どうしてなれないわけがある」

「なれないっていうか、その選択肢の中だとちょっと事情が違うだろ、父さん」


 父さん、と呼んだその一瞬だけ、胸が痛んだような気がした。あまりに呼び慣れていないせいだろう。それだけのことだ。

 最初からいない兄に、いるけれども遠近の曖昧な叔父に、幾らでもいるからこそ希薄で親密な先輩。その三者と比べれば、父に関しては明確な相違点がある。


「お前はさ、俺の父さんが死んでるのは知ってんの」

「死んでいる、そうだな。けれどもここにいるだろう。俺だ」

「あー……」

「お前の兄は俺で、先輩も俺で、叔父も俺だ。それなら父も俺だろう。夜毎に語って聞かせた話だ、道理だろうよ。──いないのなら重畳、欠けたが埋まるはおよそめでたいことだろう、違うかね」


 そんな道理があるかよ。

 口にする寸前で、こちらを見る目の異様な気配に押されて言葉を飲む。

 指揮でもするかのようにそいつが手を振る。夜に揺蕩う手先は一瞬鰭めいた形に歪んでから、また人の手に似た形状に戻った。


「そうだな。お前の父はいたかもしれないし、死んだかもしれない。それが昔のことだとして、今の父に俺がなることになんの不都合がある」

「不都合はいっぱいあるだろ……咄嗟に出せないけど、何かしらはあるだろ、なんか」

「血が繋がらないからか」

「それもあるし、その、制度としても違うじゃん。お前みたいなもんに法律が通用するのかったら、分かんないけど」

「制度上の父はそうだろう。ただ、お前の父はお前が認めればいいだけだろう」


 ぎゅうと音でもしそうな程に双眸が細まる。

 こちらを見下ろしながら、目の奥まで覗き込むように、真っ直ぐ俺を見て、


「お前が俺を父だというなら、俺は父になれるのだ。お前の認識ひとつ、心がけ次第で、何にでもなってやろうじゃないか」


 無茶を言い切って、あいつの赤々とした口が笑みの形に開いた。

 これも根性論とか感情論とかになるのだろうか。明らかに人ではないものに人間の法律や規律が通用するとは思っていなかったが、そこで俺の意思を根拠にされると大変困る。

 嬉しげに顔中を蠢かせるそいつを眺めながら、とりあえず結論を出す前に、もうひとつ確認すべきことを問うことにした。


「選ぶにしてもさ、もう一つあるよな、選択肢」

「そうだな」

「お前なんか知らない、って選んだとしたら、お前はやっぱりいなくなるのか」

「お前がそれを選ぶなら、そうなるな」


 全部を気のせいにして、何もかもを嘘だと信じ込んで、こいつに関わる全てが夢か狂気の類だと仕訳けて終わる。それも選択肢としてはあるはずだ。こいつの語りも侵襲された夜も朧に重なる過去もすべてから目を背けて、幾ばくかの何かを零し落として、これまでと同じ日常を選ぶ。これも一応選んだことになる──あいつの要求に応えてはいると主張できる──だろうと考えてはいたが、あまりにあっけなく肯定されたのは意外だった。


「その場合はさ、嫌なやつっていうか、お前にとっては最悪の結果になるよな」

「さて」

「さてって答えがあるかよ」

「最悪、というかまあ……残念ではあるな。夢とはいえ俺の話を聞いてくれるようなやつは少ないし、長く持つなり付き合うなりしてくれるやつはもっと少ない。数少ない機会を逃がすのは無念ではあるだろうよ」


 だがそれだけのことだな、とさらりとした返答があった。長く持つやつが少ない、の一言に今更のように不安を煽られる。意外と危ないことをやらされていたのだろうか、それとも世間の連中が繊細なのか、あるいは俺が鈍感なんだろうか──全部当てはまる気がして、俺は結論を出すのを諦めた。


「俺はお前に選んでほしいというだけだ。選択自体に干渉するのは筋が違う。ただ俺を選べというだけだ」


 これまでの夜と語られた話で、俺はこいつを認識し続けてきた。こいつが曖昧な記憶に、過去に、あり得たかどうかすら定かではない風景にあり得ない異物として入り込み、馴染んで見分けがつかなくなる程に、夢の合間で胡乱な思い出話を語られてきた。

 その仕上げだと、最後の一手はお前が下すのだと、恐ろしいことを頼まれているのだと今更ながら認識する。目の前の曖昧な存在の割り込むべき位置を、有り様を、俺の言葉と意志だけで改竄選択しろというのだ。


「そんな大それたことが俺にできんの。その……俺が認めたから、そうなるなんての」

「常にやっているだろう。お前がそうだと信じているから世界は成立している」


 お前に認識されないものはお前にとっては存在しないのだ、と歌うような調子で怪異が嘯く。

 昔、小学生のときに、授業で日本の大まかな形を描かされたことを思い出す。俺は物を知らない子供だったので、本州と北海道だけの歪な代物が出来上がり、散々に担任に叱られた。今の俺に同じ問題を出せば、少なくとも形状としてはそれらしいものが書けるだろう。けれども、描き出した地図において本当に存在を確かめたことがある場所はほんの僅かだ。どれもこれも映像で見たか本で読んだか、知識だけで補完された代物でしかない。

 世界というのはそういうものなのだ、と今更に思う。誰かが目を明けている間、別の誰かは目を閉じているとは五木先輩に読まされた戯曲の台詞だった。あの人は本当にろくなことを教えないな、とどうでもいいことを考える。俺が認識し得ないものでも、誰かが認識していれば存在を獲得してしまう。目を明けている人間の数だけ世界は存在し、同時に閉じている人間の裡に設定された世界も存在する。認識の数だけ世界は存在し、どれ一つとして完璧に同じものなど存在し得ないのだとしたら──。

 つまり俺一人がこいつを認識する程度、世界にとっては何の影響もない、のだろう。


「……とりあえずさ、父さんは駄目、だと思う」

「嫌か」

「嫌っていうより、駄目なんだよ。感情的な理屈ではあるけど」


 思い出も面影も曖昧な父ではあるが、それでも名前くらいは覚えている。佐倉康行。俺と一字が同じなのは、意図したのかどうかなど勿論聞かされてもいない。

 名前があって、まだそれを覚えている人間がいる。そんなところに別のものを押し込むのは、どうしようもなく冒涜的なことだろうと思った。父にとっては勿論、この曖昧な夜闇の凝ったような怪異ものについてもだ。

 ついでに、というのも失礼な話ではあるが、叔父と先輩も論外だろうと思考を回す。いくらこいつの語りで掻き回されたとはいえ、既にその位置に先任がいるのだ。それらすべてがそっくりこいつに成り代わられるというのは悍ましいにも程がある。


「一応さ、候補はあるんだよ俺としても。ともかく父さんは、駄目だってだけで」

「そうだろうか」

「少なくともダブるし、カブる。叔父さんも先輩も、少なくとも俺にとってはそうだから……そこを避ければ、上書きみたいな真似はしなくて済むだろうし」

「俺はお前に倣うだけだが、お前はそれでいいのか」


 それをお前が言うのかよ、と聞き返したかった。消去法で決まった一枠があるとはいえこれとて悍ましい、というより大それた真似をしているのは確かだろう。

 この世の虚無、記述などなかったはずのところにこいつを押し込んで、さも昔から居たかのように認識する。俺の認識ひとつで、過去から現世と未来に至るまで、存在しえないこの曖昧なものに形を与えて挿入するのだ。


 夜闇の温さに慣れた背に、冷たい汗が伝った。怯えているのだということは、考えるまでもなかった。

 

 世界に異物を挿入する、過去に異形を嵌め込む、ないはずの影を認識する──それらの行為より、恐れていることがある。

 こいつの存在とでもいうべきものを、俺が決定してしまうということが、何より怖ろしかった。

 ただそう見た、そうあるべきだということが俺の意識ひとつで決定されてしまうというのはひどく傲慢で暴力的ではないか。例え相手が明らかに人ではなし、何かしら夜なり影なりの蟠ったような異形であったとしても、それの存在を俺の認識ひとつで形作ってしまっていいのだろうか──。

 人を見た目で判断してはいけません、小学校の道徳の時間で習うようなお題目だ。けれども理屈はこれと変わらない。正しくは視線の暴力性とでもいうべきだろう。こう見えるからこうだろう、ただそこに存在しているものを無作法にも知覚し、その時点で観察者による認識が存在に貼り付けられる。そうして一方的に貼り付けられた認識が、ともすれば本質を上書くことがあり得てしまう。

 人を殺しそうだと言われ続けてきた人間が本当に人を殺した場合、それは本性が顕になったというべきなのか、それとも本性が他者からの認識によって形作られたのか。それを判断する術はない。

 反応したものは二度と無垢には戻れない。反応の因果さえ書き変わり有耶無耶になるのが常なのだ。取り返しのつかない選択を、後戻りのできない道行みちゆきを、俺はこれから選ばなければならないのだ。

 呼吸すら忘れて目の前の夜を睨む俺に、あいつはぐんねりと首を倒してみせた。


「お前が何を躊躇しているのかはよく分からんが、俺がもとより望んだことだ。恨みも怒りも、ましてや祟りもしない」

「……酷いことを頼む気だったんだな、お前」

「どちらにも同意があるなら酷くもないだろう」


 倫理の話だと言おうとして、相手が人間ではないことを思い出す。人の倫理が人外に通用するわけがない。


「認識されたいと、形を得たいと思うことが、お前にはそこまで理解しがたいか」


 聞き慣れた、芝居がかった口ぶりとは違う、静かな問いだった。

 見えない顔を見返しながら、俺は答える。


「俺にとっては本当に分かんない、ってのはある。他人に見られて見られた通りになるっての、嬉しいもんでもないだろ」

「──ただ夜の泥のように薄闇と夢を這い淀む、視線によって形作られることすらないもの、束の間の暮明くらがりによろばい出ては影もない己の爪先を睨むもの、そうしたものの切望執着を、お前は知らずにいるのだろう」


 目の前の、亀裂のような口から、甘やかな泥のような声が零れた。


「認識されなければ存在しないのと同じ、その虚ろさに飽いたからこそこうして厄介な真似をした。だからまず、お前に見てもらおうと望んだのだ。

 そうしてお前の視線に縋って、お前のよすがを辿って、俺はようやくお前に拠って形を得る」


 つまり、と区切るようにして泥が止まる。夜の蟠る口元に死魚の腹めいて白い指が伸びて、汚れを拭うように撫でた。

 あいつはこれまでになく真っ直ぐに俺を見た。


「俺の望んだことだ。お前が気に病むものでもない」


 要は手遅れということなのだろう。逃げ出すにも投げ出すにも、既に退路はどこにもない。

 そもそもが最初、あの夜にこいつを見た時点でこうなることは決まっていたのかもしれない、と思った。


「本当にさあ……何で俺にやらせるんだよ。意味が分かんないんだよ、ずっと」

「さて。恨みも恩もないが、だからこそではあるのだろうよ。それともお前、理屈があった方がいいか」

「いい。それもあれだ──失礼だろ、多分」


 以前本で読んだ刑罰のことを思い出した。罪人を地べたに埋めておいて、近くに鋸を置いておく。通行人にその罪人の首を挽いていくように求めるという代物だ。

 鋸で首を挽くような致命的な所業を任される理由が、ただその場に出くわしたからというのも随分な理不尽のような気がするが。怪異こいつ相手に人の理屈が通らないのは仕方がないのだろう。およそこの身に降りかかる諸々に対して理屈因縁や因果なんてものは本来ならばないのかもしれない、そう言った叔父の紫煙越しに伏せられた目が脳裏を過った。

 総ては後付けの動機を以てそれらしく語られる。ならばいつか、この俺の成り行きに尤もらしい理屈が添えられることがあるのだろうか。


「了承済みなら、好きにするぞ。俺は決めることしかしないからな──兄さん」


 夜が震えた。

 吠えるような、叫ぶような、泣くような──恐らくは笑ったのだろう、と少し遅れて理解する。声というよりは闇を通じて情動を直に流し込まれたような、そんな感覚だった。


「やはりお前を頼った甲斐があった。お前に功徳があるならば、成程俺は果報を得たとも。満願成就のこの一夜、お前がけた夢の胎より溢れて零れて、ようやく俺はここに立つのだ」


 哄笑とも嗚咽とも、咆哮とも──どれとも聞こえる声が、闇に溶けては反響して蠢くように部屋に満ちていく。

 声に、音に、滲んで纏わりつく感情に耳が満ちて塞がっていく。身の内に浸みて反響するあいつの声に、蝕まれるように力が抜けていく。

 ベッドに倒れ込んだのと、瞼が縫われて融けるように閉じたのはどちらが先だったか。視界が閉ざされ、身体の端から蕩けるように感覚が遠ざかり、思考は虚ろな夜の底へと滑り落ちていく。


 ──ようやく眠れる夢が終わるのか。


 巻き取られるように、飲み込まれるように、意識は眠りに溶けてゆく。

 何もかもが闇に暈けるその中で、ただ歓喜に吠えて開かれた口、その裂かれた傷の如き赤さだけが、いつまでも瞼の裏に残った。

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