第4話 彼女の笑顔を守りたい

「ふー」


 滴る汗を袖で拭い、呼吸を整える。

 早朝のランニングは毎日の日課だ。


 騎士家系のヴァルディ家に生まれ、幼い頃は小等学園に通いながら鍛錬を積んだ。

 両親に言われるがままの道を歩み、十五歳で騎士団に所属。

 そして二十歳で近衛騎士団長になって三年が経った。

 危険で大変な仕事ではあるが、やりがいのある、誇れる仕事だと思っている。

 

 そして宿舎に戻る途中、食堂を覗く。これもまた毎日の日課になっている。


 まだ薄暗い食堂で一人、彼女は床を磨き、規則的に並んだいくつものテーブルを拭く。

 そして俺たちの朝食を作りはじめる。


 以前は何人もの従業員がいて手分けしてこなしていたが、今は彼女が一人でほとんどの仕事をしている。

 広い食堂の掃除、大人数の食事の準備は大変だろう。

 けれど彼女は文句の一つも言わず、いつも楽しそうに料理をしていた。


 だが……。


「今日はどこか表情が暗いな」


 ◇ ◇ ◇


 彼女がこの食堂で働き始めたのは三年前、俺がちょうど騎士団長になった頃だった。

 当時は騎士団長という立場に対するプレッシャーと、ヴァルディ家の跡取りだという重圧で気が滅入りそうになることもよくあった。

 ただひたすらに剣を振り、身体を鍛え、無我夢中に鍛錬を積むばかり。

 与えられた場所に立っているだけの自分が滑稽に思えることもあった。


 そんな時、彼女と出会った。

 

「アネシス・マドリーノです。幼い頃から料理が大好きでした。よろしくお願いします」


 あどけなく笑いながら自己紹介をする彼女がなんとも可愛らしいと思った。

 慣れない仕事を一生懸命こなす姿を無意識に追ってしまう。

 理不尽に責められることがあっても、誰かのせいにすることもなく真剣に仕事に向き合っている。


 けれど同時に自分の無力さも痛感した。

 ベルデの横行によってついに働き手は彼女だけになってしまう。理不尽な扱いを受けていることも分かっている。

 一度、彼女たちの間に入ろうとしたこともあったが、キースに止められた。

 余計に彼女の立場が悪くなるからと。


 ある日、騎士団長としての不甲斐なさや、彼女になにもしてあげられないもどかしさから、思わず盛大なため息をついてしまっていた。


「クラージュ様? どうかされたのですか?」


 声がして振り返ると、ベンチに腰掛けサンドイッチを食べている彼女がいた。

 食堂と宿舎の間にある花壇の花を見ていて、気がつかなかった。


「あ……いや、なんでもないんだ」


 騎士たるもの、弱みを見せてはいけない。

 ましてこんな情けない姿を晒してはいけない。そう思った。

 だが、彼女は穏やかに微笑み、自身の隣をとんとんと叩く。


「よかったら、一緒にサンドイッチ食べませんか?」

「え?」

「余りもので作ったサンドイッチなんですが、味にはけっこう自信があるんですよ」


 無邪気に笑う彼女に抗うことなどできず、俺はベンチに座った。

 手渡されたサンドイッチを口に運ぶ。


「……美味い」

「お口に合って良かったです。ニシンの切れ端と山菜を少し酸味のある調味料で和えて、パンに合うようにしているんですよ」


 本当に、料理が好きなんだ。彼女の表情からそう感じた。

 つらいこともあるはずなのに、それを感じさせない姿がとても逞しく思えた。

 うじうじしている俺なんかとは全然違う。


「アネ、シス……」

「はい、なんでしょうクラージュ様」


 初めて、彼女の名前を呼んだ。

 柄にもなく緊張したが、笑顔で返事をしてくれる彼女を守りたい、漠然とそう思った。

 

「何か、困ったことがあればいつでも言ってくれ」

「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。それより、クラージュ様も何かあれば言ってくださいね。聞くことしかできなかもしれませんが、話すことで気が楽になったりしますし。この料理が好きだ、あの食材は苦手だ、とかでもいいですよ」

「ははっ、好き嫌いはしないよ」


 自然と笑っていた。声を出して笑ったのはいつぶりだろう。


「アネシスはすごいな」

「私が、すごい? どうしてですか?」

「いつも笑顔を絶やさず、一生懸命頑張っているところとか。君の姿を見ていると元気がでるよ」

「それは私も同じです。クラージュ様やみなさんの頑張っている姿にいつも励まされています。たとえ、つらいことや嫌なことがあったとしても、私は今、好きなことができていて、こんなにすごい方たちの生活を支えているんだって思ったら、日々の悩みなんて大したことないって思えるんです。だから、クラージュ様も気負い過ぎず、自分が頑張れる分だけ頑張ったら、あとは力を抜いて今を楽しでくださいね」


 何かを深く聞いてくることはせず、それでも俺を励まそうとしてくれているのがわかった。

 彼女の優しさが、身に染みる。

 いつも、気を張っていた。自分の立場に囚われていた。けれど、それは自分の気持ち次第なんだと彼女が気づかせてくれた。

 

「ありがとう。君の言う通りだ。俺ももっと肩の力を抜くことにするよ」

「はいっ」


 それから俺は、彼女から目が離せなくなっていた。


 彼女のことが好きなんだと自覚するまで時間はかからなかった。

 ただ、だからといってこの想いを一方的にぶつけることなどできず、見ているだけの日々が続いていた。


 ◇ ◇ ◇


 いつも笑顔を絶やさないアネシスがあんな顔をしているなんて、なにかあったのだろうか。

 一人で仕事をこなして、無理がたたってきたのだろうか。心配だ。


 俺は昼休憩、いつもアネシスが昼食を食べるベンチのところへ様子を覗きにいった。

 アネシスはやはり落ち込んだ様子で大きなため息を吐いている。


「どうかしたのか?」


 彼女の様子に耐えきれず声をかけていた。びっくりしていたが、断りもせず隣に座る。

 

 そして想像もしていなかった事情を告げられた。

 

「婚約、したくないんです」

「婚約?!」


 思わず声をあげてしまう。

 慌てて平静を装い、話を聞く。それは、彼女にとってなによりもつらいことだった。

 けれど、好きな人と結婚したいという彼女の望みを俺は叶えてあげることはできない。

 自分の不甲斐なさに悔しさを覚える。

 そんな時、彼女がサンドイッチをくれた。

 以前もここでもらったニシンと山菜のサンドイッチ。

 食堂で出てくる、しっかりとした切り身が挟んであるものも好きだが、この切れ端を和えたサンドイッチも好きだ。

 こんな時でも俺のことを気遣ってくれる彼女が、心から好きだ。


 彼女を悲しませたくない。彼女の笑顔を守りたい。

 

 俺は恥をしのんでキースに相談した。

 彼女のために知恵を貸してほしいと。するとキースも気になることがあると言って、秘密裏に動いてくれることになった。


 キースとは小等学園時代からの幼馴染だ。

 誰にでも愛想がよくにこやかだが、内心、何を考えているかわからないやっかいなやつでもある。

 だが、いざという時頼りになる、俺にとっては最高の幼馴染だ。


 数日後、キースからとんでも事実を聞かされた。

 そのあり得ない事実にも、気付かなかった自分にも憤りを感じだが、これで、彼女を助けることができる。

 あとは彼女が俺の誘いを受けてくれれば上手くいくはず。

 でも、真面目な彼女がこんな誘いに乗ってくれるだろうか。

 いや、今の彼女ならきっとこの話を受けるはずだ。


 そうすれば、何もかも上手くいく。

 そして俺は、彼女の状況に付け込んで、ゆくゆくは本当に――

 だめだ。俺の邪な考えは気づかれないようにしないと。


 けれどこれは、彼女にとっても俺にとっても最高の結果になるための始まりだ。

 そのためにはまず、彼女に告げよう。


「破棄を前提に婚約してくれないだろうか」




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