第17話 時間がいる




         ***




『次は~瀬辺地、瀬辺地です。お降りの際は――』


 車掌が告げ、やがて電車が止まる。あの頃から何ひとつとして変わり映えのない光景に自分を重ね、あの時の雪や風と同じように嘲笑った。繋がりを失い、さまざまなものを見聞きしてきた今だからこそ出来る、過去の僕に対しての唯一の答えがそれだった。所詮あの頃描いていた理想や純粋さは、この広く大きく深い現実の前では無力であり虚像だったのだ。春を待った彼女も、僕が見れなかった瑠奈も、見ようとして見られなくなったヒトも、全ては現実であり、僕がただ見れなかっただけなのだ。それを知っている僕はなにも不幸ではないし、過去に囚われてなどいない。


 駅のホームに降り立ち電車を見送る。見上げれば青く澄んだ夏空に穏やかに膨らんで飛ぶ雲。しかし田園風景と丘の間にひとつ、何やら不穏に映る黒々とした雲……思わず視界からその雲を外し、小さな駅舎の中に入ってベンチに座り、安物のライターと残り数本になった煙草のボックスを取り出して、口に煙草を咥えて火をつける。……立ち上がって駅舎を出て、以前歩いた道をふたたび歩く。


変わらない民家があれば、取り壊されてしまったであろう家の空き地。舗装された道が増えていたり、前より色褪せた標識があったりしたが、あの時吹いていた風のように、ここの風は依然として心地の良いものだった。防波堤に座って海を見れば、太陽に反射してキラキラと波が煌めき、海鳥が群れを成して鳴き、大間の地がぼんやりと浮かんでいた。暗かった海がこんなにもハッキリ見えるのは、闇がいないからであり、晴れて大気が澄んでいるからでもある。その心地良さにあくびと眠気が誘われてしまったが、眠るわけにはいかないのでグッと伸びをする。


 少しお腹が空いたので近くのコンビニを探して見たが――


「……コンビニないじゃん」


 スマホをスリープ状態にしてポケットにしまう。同時に吸い切った煙草を防波堤に擦り付けて火を消し、持ってきていた携帯灰皿の中にしまう。……しばらくのんびり風を感じていると、鼻腔に雨を感じた。振り返ると、先ほどまで風景として見ていた黒々した雲が頭上まで来ていた。慌てて防波堤から降り、駆け足で駅舎に向かっていると、道中で一気に大粒の雨が降りだしてしまったので、駅舎に着くころには髪も服もぐっしょりと濡れてしまった。引き戸を開けて駅舎の中に入ると……これまた、ぐっしょりと濡れている女性がベンチに腰掛けていた。


「どうも」


「えっと横、どうぞ?」


 どちらも濡れた状態で、並んでベンチに腰掛ける。……ボブカットされた金髪、整った顔、白いシャツが透けてうっすら下着が見えている。彼女は小さい鞄から小さなハンカチを取り出して、身体に纏ってしまった雨水を拭き取っている。


僕が自然と、彼女という存在に引き寄せられていると、パッと目が合う。彼女は怪訝そうな顔をしてこちらを見ており、僕は慌てて視線を逸らす。


「女の濡れた身体は、ジロジロ見てもいいのかしら?」


「い、いやぁそんなつもりは」


「……そう。だと良いのだけれど」


 彼女はそう言って肩をさする。それをなんとか出来ないかと考えた僕は、自分の着ている黒の半袖シャツを見て、それを脱いだ。


「え、何してるの?」


「君、寒そうにしてるしそれに、ほら……あんまり見えてるのも良くないんじゃないかと思って」


「なに、気を遣ってるの?」


「いや、僕の小さなプライドみたいなもの。ほら、これ着て。君のシャツほどは濡れてない」


 そう言って脱いだ黒の半袖シャツを彼女に差し出すと、彼女は「ありがとう」とだけ言って、着ていた白いシャツを脱いで、僕のシャツに腕を通した。僕はと言うと、スマホで次の電車の時刻表を調べて彼女の着替えを見ないようにしていた。依然として雨は降っているし、ついでに天気予報を見てみればこの後1時間ほどは降り続く予報だった。


 ――電車が来るまで大人しく待とう。そう考え、ポケットに入れていた煙草を取り出し、咥えてライターで火をつける。一度肺に入れて、煙を吐き出す。そこでふと横を見ると、こちらをジッと見つめる金髪の女性。……まずかったか?と思っていると、彼女は左手をこちらに伸ばして、変わらずジッと見てきた。無駄に燃焼していく煙草を持ちながら困惑していると、彼女は「ばか」とだけ言って立ち上がり、僕がもう片方の手で持っていたライターと煙草のボックスを奪い、一本取り出して火をつけ吸い始めた。


「へぇ、吸うんだ」


「ふぅ……たまに。今日はそういう気分だっただけよ」


「……そりゃ良いね」


 彼女は座り直し、僕もその横に座り直す。並んで紫煙を吐き出し、何も言わずただ吸って吐いてを繰り返す。あの日と被るけれども違う、なにか非日常を感じる瞬間だった。やがて地面にフィルターを擦り付け、携帯灰皿に吸殻を入れる。彼女も吸い終わったのか、横から吸殻をこちらに渡してきた。


「私、青野 理香あおの りか。あなたは?」


「トモ……いや、黒田 智樹くろだ ともき


 僕の名前を聞いた彼女――理香は微笑み、えくぼを作る。瀬辺地駅舎は、煙と湿気が立ち込めていた。

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