第15話 限りなく深い穴
入学から1年が経ち、後輩たちが学校に慣れ始めた初夏。僕は以前よりもさらに忙しくなり、毎日が目まぐるしく過ぎていくようになった。そこには以前、付き合っていた彼女もいたし、1年の間で友達になった人々もいた。そんな人たちのおかげか、僕は負った傷を完全に忘れられるようになっていた。あの時感じていた不安も、一過性のもののように綺麗さっぱり無くなっていた。……あの子を目にするまでは。
その子は――
後々、彼女は不思議な価値観があり突飛な行動をとること、そして病気がちであまり人と関わった経験がないことがわかったとき、やはり似たような感覚に陥った。明らかに本人でないことはわかっていながらも、僕の視界の端には常に彼女がいた。そんなある日、部活が終わり周りがいそいそと身支度をしている中、僕は瑠奈に呼ばれ、グラウンドの端で話を聞いた。
「実は……なんだか最近、嫌がらせをされてるみたいで」
よくよく聞けば、最近部活中に先輩や同期のマネージャーから冷たくされていること、選手である僕たちの中の何人かに変な誘われ方をしているとのことだった。彼女は涙こそ流さなかったものの、その瞳は潤み、すぐにでも壊れてしまいそうだった。両親にはこのことを伝えていないらしく、どうやら心配をかけたくないようだった。どうして僕にそれを言うのか疑問だったので、聞いてみた。
「……なんだか先輩は、大丈夫だと思えたんです。不思議ですよね、まだ入って1ヶ月ちょっとなんですけど」
それから僕は瑠奈の相談を聞いたり、彼女が嫌な思いをしないよう周りにもそれとなく言ってみたりした。それに加えて彼女には、周りとどう接していけば嫌な思いをせずに済むかということを教えた。上下間の付き合い方や、僕たち選手間との付き合い方も。
そうしていれば自然と距離も近くなるし、接する回数も増えていくのが常だ。ときには一緒に出かけたり、勉強をしたりすることもあった。そうしているうちに自然と付き合うことになった。どちらからも提案や告白をしたわけではなく、本当に自然と。
僕が高校生活2年目の冬を迎えるころには、瑠奈はすっかり周りとの息の合わせ方や空気の読み方を熟知し、険悪だったマネージャーたちとの関係も、変な詰め方をしていた選手たちとの関係も、適切で不快のない距離感となっていった。彼女は以前よりよく笑うようになったし、付き合ってからはより僕と大胆に会うようになっていた。そしてスキンシップも当然のように多くなったし、大人に近づいていった。
手を繋いで寄るコンビニも、帰路で別れる前にするキスも、都合を合わせて出掛けて、ホテルに泊まって一緒のベットで寝たことも。全てが緊張と高揚の連続で楽しいことだった。それでも――繋いだ手の温もりも、交わした唇の柔らかさも、飾らない腰に触れた時のびくつきも。僕が真っ先に感じたものは虚無感だった。触れる前の昂りはどこか遠くに消えていき、虚しさと無くしたはずの想いを覚えるのだ。その度に目の前にいる彼女がこのことに気分を害するのではないかと不安を覚えた。
そんな不安は後に明らかとなった。僕が最後の夏の大会を終え、受験勉強をしつつ、瑠奈とも会っていた晩夏の第3日曜日。いつものカフェに呼び出されて会話もせずアイスコーヒーを飲んでいると、やけに重苦しそうな顔をしていた瑠奈が別れを告げてきた。それまで賑やかだった店内も、その背後で静かに流れていた流行曲も、僕の耳には届かなくなっていた。ただ後から来るコーヒーの苦味だけが舌をつたって脳に思考力を与えてくれた。振り絞るようにしてわけを聞くと、彼女はこちらをジッと見てから諦めるように下を向き、口を開く。
「……智樹さん昔に、私によく似た人はいませんでしたか?」
「いや……いなかったと思う」
嘘をついている。そんなことは、彼女にはお見通しだったのかも知れない。彼女は僕の言葉を聞いてからまた続ける。
「……私は、智樹さんに救われて、恋をして。そうしてここまで来ました。でも……そうして私が近づいていけばいくほど、智樹さんは寂しそうな顔をするんです」
「そんなこと――」
僕は言いかけ、しかし言葉は出ず、漏れ出る息に焦りと後悔が混じる。
「もう……私には、耐えられないんですっ。私にはっ、なにも、できないからっ……」
今まで我慢していたのか、じわじわと瞳に涙が溢れていき、やがて彼女は身体を揺らしながら泣き始めた。僕は手を伸ばして――やめた。向かい合う椅子の横に行くでもなく、彼女に手を差し伸べるでもなく、ただぼう然と彼女の嗚咽をジッと目に焼き付けていた……。
それから僕は受験を終え、3年間通った高校に別れを告げた。瑠奈からはたった一言だけ、卒業式終わりに告げられた。
「先輩……先輩なら、きっと大丈夫なんだと思います。どうか、お元気で」
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