第23話

「ここ、いい景色よね」


 二年前――


〈レヴォルト〉から救出されたレイニアはウィズダム邸に保護された。

 彼女は娼婦の腹から生まれた。粗野な男、質の悪い酒の匂い、けむったい煙草、耳障りな笑い声。物心ついたころから汚いものであふれていた。

 金の尽きた母親に売り飛ばされ、レイニアは実験体になった。そこに清潔感はあれど、人権がなく。欲しくもない『眼』を押し付けられ、大人たちはその特性を伸ばすよう命令した。

 実験の日々の中、レイニアは何度も自殺する未来を描いていた。こんな眼、要らない。


「同い年くらいの女の子が来ているって聞いたのだけど、あなたのことよね? 初めまして、あたしはウルスカーナ」


 そして今、それが叶う。一番高い建物の頂上。ここから真っ逆さまに落ちれば。

 その一心で昇りきったものの、生まれて初めて見下ろす地面の遠さは無機質にのっぺりと広がっていた。


「あなたの名前は?」


 望んでいたはずの死に足をすくませていた女の子の後ろから、花畑を付き従える少女が声を掛けた。もちろん花畑が動くはずがない。しかしレイニアは、初めてそのご令嬢と出会った瞬間、訪れたこともない花畑の光景を思い浮かべていたのだ。


「……レイニア」

「レイニア。良い名前ね」

「……はぁ」

「高いところから見る景色っていいわよね。いつも見てる街並みだって別の国に見えるもの。でも足を滑らせたら死んじゃうわ。嫌よね、そういうの。薔薇の棘みたいな。どうして良いこと尽くしじゃないのかって思ったことない?」

「……べつに」


 この時のやり取りを、レイニアは忘れたことはない。思い出すたびに過去の自分を殴りたくなる。


「あなた、ここから飛び降りようとしてたでしょ?」

「……なんで」

「わかるのかって? わかるわ。こんな景色を見てもぜんぜん楽しそうじゃない。綺麗なものの、暗い部分を見つめてたわ。……昔のあたしみたいに」

「……え?」

「でもね、死ぬのってもったいないのよ。やりたいことがまだまだ残ってるのに、未練を残して死んだら魂だけが土地に縛り付けられて、楽しそうにしてる人たちをずっと眺めてなきゃいけないんですって」ウルスカーナは眩しそうに空を見上げながら続けた。

「あたしね、色々あるの。やりたいこと。一人で街に出かけて、美味しいもの食べて、買い物して、演劇も飽きるくらい見たいの! あたしが出かけたいって言うとね、絶対誰か大人が付き添うのよ。もう堅苦しいったらありゃしないの! あなたは? ねえ、レイニア。あなたはなにかやりたいことないの? それとも満足したから死にたいの?」

「……あたしは……」


 救出された件は他言してはいけないという決まりだ。そもそも満足という概念からほど遠い人生だった。満たすべき器すら持っていないような。そして、いざ来てみれば。


「……生きるのは面倒で、でも、死ぬのも怖い……」


 目を伏せながら精一杯呟いてみた。生きるのも死ぬのも嫌なら、この先どうすればいいのか。畑に佇む案山子にでもなってみようか。

 足元を見下ろす視界に、磨き上げた宝石のような白肌が映りこむ。顔を上げれば、大自然を閉じ込めた硝子が輝いていた。


「なら、あなたの命、あたしにくれない?」

「……は?」

「あなたをここで殺してあげる。そして生まれ変わるのよ。ただのレイニアから、そうね、メイドのレイニアに!」

「……メイド?」

「そう! あたしの周りにいる人ね、その……あー、そう! 大人ばかりなの! 同じくらいの歳の子が一緒にいてくれると気が楽なのよ!」

「……あたし、働いたことなんてないし……」

「もちろん他のメイドが教えてくれるわ。それに住み込みだから食事もベッドもお風呂もついてくるわよ。給料も! あっ、でもね、あなたにはあたしの身の回りのことをしてほしいから、自由だけは保証しないわ。あなたの自由はあたしのものよ」


 傲慢不遜な物言いでありながら、なぜか反論の余地がないようにレイニアには聞こえた。体の内側からなにかが鼓膜を叩いているせいで。


「人間ってね、ないものねだりなんですって。逆に普段あるものにはありがたみを感じなくなるってお母さまが言っていたの。だからあなたの自由を奪ってあげる。あなたが心の底からやりたいことを見つけられるその日まで。あなた、行く当てないんでしょ? 悪くない話だと思うのだけど」

「…………」


 当時のレイニアにとって、ウルスカーナの喋っていることは半分も理解できていなかった。心臓が痛む。屋敷も、そこに住む人も、食事も、支給される服も、見たことないものばかりで。現実感がなかった。握ってくれる、人生で最大級の美しさが、紛れもない真実に思えた。


 そして少女は。令嬢の付き人メイドになった。


  ◇


「綺麗なアメジストを見たの。冷たくてそっけないのにね、でも、あたしを見てくれたのよ」


 一年前――


 自由を求め、一人で屋敷を抜け出したウルスカーナはマフィアに誘拐された。ヴェルディが救出し、こっそりと屋敷に送り届けることで事態は収まった。裏門で二人が別れる瞬間を、レイニアは目撃していた。両親による長い説教を耐えた後、高揚感の余韻めいた熱を帯びたご令嬢がそう打ち明けるのを、メイドは焦がれるような胸を抑え込んで聞いていた。

 言葉の端々から感じる憧憬。

 昨日までとは異なる気配を漂わせる所作。


 その熱の名前を嫉妬と呼ぶのだと理解したレイニアは、銃の扱いを習いたいと申し出た。

 あの時、あたしはお嬢様を助けられなかった。

 その不甲斐なさを自覚してやっと、メイドは気づいたのだ。

 自分のやりたいことを。


 誘拐事件から、わずか半年。

 その身体にメイドらしかぬ物騒な知識と技量を詰め込んで。

 令嬢の付き人メイドは、令嬢の護衛メイドとなった。


 ――「君の眼は強力だ。だが肉体強度も攻撃手段も常人と変わらない」

 ――「敵の攻撃はすべて回避し、弾丸は必ず敵の眉間に命中させなさい」

 ――「できるか?」


 ――「まかせてくださいっす、マスター」

 ――「お嬢様の為ならあたし、流れ星だって撃ち落とせるんで」


  ◇


 レイニアとユリアリスの距離はさほど離れていない。レイニアが全力で距離を詰めれば十秒もかからないだろう。

 一直線に走れれば、の話であるが。


「ほらほら、さっきまでの威勢はどうしたの?」


 大気が呼吸をするたびに見えない火薬が爆ぜるようだった。

 執拗な爆撃の中では標準を合わせる余裕などなく、レイニアは回避に徹する。左右に避けてから大きく後ろに飛ぶ。さらに側転。今度は連続で前方倒立回転。急停止して上半身を仰け反らせれば、頭があった辺りの空間が割れた。脳があちこちに揺れて方向感覚を失いそうだ。


「…………」


 しかしレイニアは敵を見据えている。二丁拳銃はホルスターに仕舞い、代わりに手に握るは肩に背負っていたはずの散弾銃ショットガン

 茶色と黒のオーソドックスな水平二連銃もまた、メイドとともに多くの障害を排除してきた。その真価を発揮するには距離が遠い。


「近づいたところで意味ないわよ!」


 ユリアリスの嘲笑に呼応するように透明な火薬が連続して爆ぜる。二連続、三連続……単発だった爆発は火力を増していく。炎が葉に燃え移り、枝を橙色に染め上げ、幹を覆うように。


「調子こいてられんのも今の内だぞクソアマ!」


 連続する不可視の爆発を避け切るのは常人には難しいだろう。

 ヴェルディであれば、死にながら強引に突き進むに違いない。

 ガルガラであれば常に腕の壁を展開しながらゆっくり接近できる。

 レイニアにそのような武器はない。だから彼女は、すべてを避ける。避けながら進み、進みながら避ける。今までそうしてきた。これからもそうしてゆくのだ。

 主の道を切り開くために。


「しね」


 敵との距離、およそ数メートル――

 爆発の隙間を縫うように突き出した散弾銃の引き金を引く。

 内臓を震え上がらせる雷鳴の如き咆哮が轟いた。


  ◇


「レイニアの奴、苦戦してんな……」

「扉を爆破してこじ開けるのは駄目ですか?」

「んなことしたらお嬢が大怪我しちまうかもしれねえぜ、ハンナ」


 キオの耳では詳細な位置情報を掴むことはできない。だからこそ、彼の情報をもとに最悪の状況を想定しながら事を運んできた。その最悪を上回る現実が彼らを悩ませる。


「大丈夫だ。レイニアを信じよう」


 ディルファイアの言葉は自分に言い聞かせているようでもあった。

 しかしキオはその言葉に対し何を言うでもなく、ただじっと命の恩人の視線を見つめ返す。

 椅子に座ったまま、ディルファイアは懐かしむように天井を見上げて呟く。


「以前の模擬演習を……ああ、そうか。二人は見ていなかったか」

「懐かしいですね。屋敷全体を使って、遮蔽物を用意して」

「たしか、それに合格したからレイニアは銃を持つようになったんですよね」

「そうだ。敵は屋敷の使用人総勢五十名。誰もが過去に傭兵や軍人などの経歴を持つ」

「皆さん、優しいんですけど……時々怖いんですよね」ガルガラが苦笑した。

「癖は抜けないものだ。そして……情けないことに惨敗したのだ。誰もレイニアに一撃を与えることはできず、あの子の弾丸は一発も外れず眉間に命中した。見事な身のこなしだった、それに……あれほど的確に地形を利用した射撃は誰にも真似できないだろう」


 それでも、レイニアは決まって自嘲気味に呟くのだ。


 ヴェルディさんにはまだ及ばないっすよ。


  ◇


「びっくりしたわ。でも怖いのは音だけね?」

「…………」


 レイニアの一撃が敵の守りを貫くことは叶わなかった。

 銃弾は弾かれた。それをいたレイニアは反動を利用して爆撃を回避する。


「あらあら、せっかく近くまで来たのによかったの?」


 自分の心臓の辺りで爆ぜる単発の攻撃を避けるレイニアに焦りはない。

 むしろ、予想通りと言わんばかりに。


 ――あいつが操る『音』は分散すると威力が落ちる。それは実証済みだ。

 ――そんでこの感じ。……壁を生んでる時は攻撃の手数が減る。

 ――てことは『音』の総量は決まってて、それを割り振ってるってことだとすりゃ……。


 レイニアは腰に装着する一丁のリボルバー式拳銃に意識を向ける。

 その効果を最大限に発揮するにはただ近付くだけでは駄目だ。

 脳内で算段を練り、彼女は散弾銃を平然と投げ捨てた。


「……? どうしたの? もしかして降参?」

「アホ言え。てめえにはこれで充分だってわかっただけだ」


 ケープの下、すぐに退場させてしまった二丁拳銃にもう一度起きてもらう。


「思ったより頭はよくないのね」


 レイニアが走り出すと同時につんざくような悲鳴が空気を震わせた。

 綿々と続く音の爆撃は熱こそ持たないが当たれば骨折は必至だろう。レイニアの服が煤まみれになっていないのは不幸中の幸いか。しかし一方的な連続攻撃によって照星フロントサイトを覗く暇がないことに変わりはない。

 そんな中レイニアは――やけっぱちとも見受けられる方法で発射した。

 即ち、走りながら、真上に向けて。


「ふふっ、どうしたの。ついに気が触れ――」と、馬鹿にするように鼻を鳴らしたユリアリスのすぐ傍を銃弾が突っ切ったのはその時だった。


 跳弾。

 壁などに当たった銃弾が跳ね返る現象をレイニアは意図的に引き起こした。

 彼女の『眼』には見えている。あらぬ方向に撃った弾丸がどのような軌跡を描くのか。

 頭上から弾丸が直下し、ユリアリスの足元に穴を穿つ。

 これまでのように、見えない壁に防がれることなく。


「……へぇ?」


 すかさず二発目を天井に向けて放つ。またもや跳ね返ったソレは、今度は甲高い音を立てて空中で弾かれた。頭上に音の壁が生み出されたのだ。であればと、今度は真横に向けて撃つ。カンッ、カンッ、と二度の跳躍を経て、弾丸はユリアリスの背中を掠めた。


「っ!」


 ユリアリスの強張りようから、視界外からの攻撃への対処は遅れることを確信するレイニア。

 奴は常に全方位に壁を展開しているわけではない。そして操る音には総量がある。よって壁を増やせば増やすほどに、一枚当たりの強度は脆くなる。

 好機を掴んだメイドの行動は速い。

 迷うことなく、躊躇うことなく、弾倉の中身をすべて上か横に向けて斉射する。壁や天井を削り、威力を減衰させつつも、そのすべてがユリアリスのいる座標へと集約する。

 どこから来るのかわからない鉛の息吹を恐れるユリアリスの周囲は常に音の結界が張られ、よってユリアリスの接近は容易となっていった。


「おいっ! さっきまでの威勢はどうしたぁ!」

「っ、調子に、乗らないで!」


 前回のように、壁や天井を吹き飛ばされていたらこの戦術は生かせなかった。

 相手はきっとできないのだろう。そんなことをすればウルスカーナは死ぬ。死んでしまえば、彼女の言う撒餌は失敗してしまうのだから。

 純粋な実力であればあっけなく負けていたに違いない。

 レイニアは誰よりもそれを知っていた。知っていたからこそ、僅かな勝機も逃さない。


「ああ、もうっ!」


 ユリアリスに守りを強要させるため、脚部に備えた弾倉を器用に取り出し、両方とも再装填する。そのまま楽しそうに全弾を乱射すれば、カンッ、カンッ、と軽くも心地よい音色が辺りを支配した。

 瓦礫に身を潜める主人を一刻も早く安全な場所にお連れするためだけに。

 彼女の脳は回転し、今まさに、最後のピースを嵌めようとした。


 ――ここだ。


 散弾銃を撃ち込んだ時よりもさらに至近距離――敵の懐にまで踏み込んで、彼女は二丁拳銃すらもあっさり手放した。

 そして、腰へと後ろ手を回し。


「終わりだ」


 それは一回り大きなリボルバー拳銃に見えた。

 ただの拳銃であればどれほど接近できてもユリアリスの障壁を貫きはしない。

 しかるにそれは、単なる拳銃ではない。

 獰猛な熊をも殺す――357口径マグナム弾による、凶悪な一撃。

 両手で構えたレイニアの手元にて、断罪の一撃が迸る。


 終末の日ラグナロクを知らせる角笛の音色が。

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