第6話 始まりの村(9)
「わあ、助けてくれえ!」
先ほどまでの諦観はどこへやら、アドルフォが叫び、長椅子の陰に身を隠そうとした。腹がつかえているのか、うまく屈めずにもぞもぞと動いている。
「止まれ、クリス!」
大声で命じたが、武器のないユーゴの制止に意味はなかった。彼は一歩ずつ恐怖を煽るように近づき、震えて丸くなるアドルフォを見て嘲笑した。
「無様ですね。でも、心の準備ができるというのは幸せなことです。お二人には、そんな時間はなかったのですから」
クリスの指が、引き金にかかった。怒りに燃え、ぎらぎらと光る眼がアドルフォに向けられていた。彼の本気を認識したユーゴは、気づけばアドルフォを庇うように立ち塞がっていた。間髪入れず、低い銃声が教会にこだまする。
「え……?」
気の抜けたような声を出し、ユーゴは自分の腹を探った。どこにも痛みはない。正面を見れば、クリスは銃口を明後日の方向に向けていた。
「優しいですね。帽子くらい弾いてやればよかったのに」
ここ数ヶ月で聞き慣れた声が、ユーゴの耳を打った。
「ルチアーノ!」
ルチアーノはまるで少し散歩に出かけていたかのような軽い足取りで、こちらにやって来た。見たところ、怪我はないようだ。ホッとした反面、拍子抜けしたような思いだった。
「無事だったのか? 電話に出られない状況と聞いたからてっきり……」
「ああ、ちょうどうたた寝していたみたいで。僕たち、モンテレッジオ近くの村に滞在していたんです」
ユーゴは非難するようにクリスを睨みつける。彼はわざとらしく視線を外し肩をすくめたが、唇の笑みは抑えられていなかった。
ルチアーノは長椅子の陰で震えているアドルフォに近づき、顔を覗き込む。
「ちょっと師匠、いつまで丸くなっているつもりですか」
「そんなこと言って、頭を出した瞬間にズドンとやるつもりだろう。お前も私を恨んでいるんだ、騙されないぞ!」
ルチアーノは伸ばしかけていた手をぴたりと止め、呆れたように言った。
「それが突然よそよそしくなった理由ですか? 馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しいわけあるか! 私はお前の両親を殺したも同然だ! お前が成長していくにつれ、自分のしたことが恐ろしくなってきて……」
「でも僕は、そのことをあなたに会う前から知っていましたよ」
「……は?」
アドルフォはがばりと顔を上げ、口を開けたままルチアーノを見上げた。
「義務教育が終わった年に、叔父から聞きました。あの人も、早く吐き出してしまいたかったのでしょうね」
「知っていたのに、私の弟子になったというのか?」
「そうです。隙を見て、殺してやろうと思って」
満面の笑みと共に放たれた言葉に、アドルフォは声にならない悲鳴を上げた。
「でも皮肉なことに、古書を求めてあなたと世界を巡るのはとても楽しかった。それに、あなたの口から語られる、両親の話をずっと聞いていたかった。いつか、もう教わることがなくなったら復讐しよう。そう誓って過ごしてきたんです」
アドルフォの正面に回ったルチアーノは、彼を見下ろして言った。
「どうです? 僕は勤勉な弟子だったでしょう」
アドルフォはのろのろと立ち上がり、せめてもの抵抗のように顔を背けて鼻を鳴らした。
「ふん、覚えが良すぎて可愛くない弟子だったよ」
それからちらりとルチアーノの顔を窺い、ぼそぼそと尋ねた。
「“煉獄”の旅は、どうだった?」
ダンテの「神曲」になぞらえての質問だと、今のユーゴには理解できた。ルチアーノは薄く笑みを浮かべ、ユーゴに目配せをしてから答える。
「浄化されるような、良い旅でしたよ。一冊の本が過去と現在を繋ぎ、罪や過ち、後悔が許されていく。そんな奇跡のような光景を幾度も目にしました」
「そうか、それは素晴らしいな。私もこの目で見たかった」
「また、探しに行けばいいじゃないですか。あなたが怯えるものは、もうありませんよ」
「……お前は、私を許すというのか?」
アドルフォはハットを歪むほど強く握りしめ、絞り出したような声で問いかけた。明り取りから射す陽の光が、頭垂れるアドルフォと柔らかな眼差しのルチアーノをスポットライトのように照らす。
「古代ギリシアのエピクテトスの名言に、今の僕らにぴったりの言葉がありますね」
「はて……何だったかな」
首を傾げるアドルフォに、ルチアーノは言った。
「『許すことは、復讐に勝る』。――この言葉を思い出す度、僕は思うんです。自分が選んだ道は、間違っていなかったと」
彼の言葉に呼応するように、何か重いものがごとりと床に落ちた音がした。ユーゴが振り返ると、クリスが握っていた銃が転がっていた。肩を震わせる彼の頬を、一筋の涙が流れていった。
教会を出て石畳の道まで戻ると、ルチアーノの養父、エドアルドが待ち構えていた。
「話は無事終わったようだな。せっかくだ、ウチに寄っていきなさい」
局長への報告が頭をかすめたが、エドアルドは返事も聞かず踵を返し、早足で歩いていく。一行が後をついていくと、彼は一軒の住宅の前で足を止めた。
「ただいま。お客様を連れてきたよ」
ドアが開くと、甘い匂いが漂い出てきた。鈴の音のような声が、おかえりなさいと迎える。
「ようこそ、モンテレッジオへ。さあ、座って。大したものはないけれど、味にはちょっと自信があるわ」
エドアルドはその女性を、ルチアーノの養母のクラリッサだと紹介した。導かれるままテーブルにつくと、すぐに大皿がテーブルの上に載せられた。見た目はニョッキによく似ているが、普段目にする黄色ではなく、灰色がかった薄茶色だ。オリーブオイルと胡椒がかけられただけの、シンプルな料理のようだ。
「あの、我々は……」
「ええ、わかっているわ。いろいろ事情があるのでしょう。でも、込み入った話は食べた後でもいいじゃない」
押し付けるように、皿とフォークを渡される。考えてみれば、移動続きでまともな食事は久々だ。自覚した途端、食欲が湧いてくる。隣のエマも同じようだ。
「……何これ、美味しい! ニョッキですか? でもちょっと、普通より甘いような」
エマは次々とパスタを口に放り込みながら言う。
「気に入ってもらえて良かったわ。それはね、ジャガイモではなくて栗のニョッキなの。この辺りには栗の木がたくさんあるから、私たちは栗で作るのよ」
「ああ、それでほんのり甘みがあるんですね」
クラリッサはユーゴに、どうかと目で問いかけた。とても美味しいと答えると、彼女は控えめににこりとした。
いつの間にか酒も運ばれてきて、ちょっとした宴会が始まっていた。次々に出てくる料理はどれも美味で、楽しい空気に誘われて酒も進む。一番早く潰れたのはアドルフォで、テーブルに突っ伏して時々寝言のようなものを呟いていた。
「そろそろお開きかしらね」
時計を見て言うエマも、眠そうに目を擦っている。ルチアーノとクリスはこの家に泊まることになり、ユーゴとエマは村に一件だけのペンションを紹介してもらった。アドルフォは空き家だった家を借りて住んでいるそうだが、この様子では朝まで突っ伏したままかもしれない。
「ローマ警察はいつ来るんだ?」
リンフレスキ夫妻が寝室に行ったタイミングで、ユーゴはクリスに尋ねた。彼は先ほど、直接ローマ警察に連絡し出頭の意思を伝えていた。地元の警察がすぐに来るかと思いきや、まだ音沙汰がない。
「明後日以降とのことです。明日人員を選んで、早ければその翌日にこちらに来るそうですよ」
「ずいぶん悠長だな。一歩間違えば死人が出ていたというのに」
「でもそのおかげで、気楽な逃避行でしたけれどね。叔父がごまかしたせいかもしれませんが、検問もありませんでしたし」
「どこに行っていたんだ?」
ルチアーノは数日間の記憶を思い起こしたのか、とても穏やかな顔をしていた。
「昔、家族で出かけた場所を点々と。そのうちにクリスの復讐する気が失せると良いなと思いまして」
「……それはまんまと術中にはまってしまいましたねえ。あんなに穏やかな日々は久しぶりでした」
ほんの一瞬、クリスは何か言いたげにルチアーノを見たが、秘密めいた笑みを彼と交わすにとどめた。
「しかし、どうして今になって……。アドルフォの家の放火も、あなたの仕業なのか?」
ユーゴはこの数日ずっと気になっていたことを、直接クリスに尋ねた。
「社長――ヴィトから、ここのところ付き合いが悪いカッシーニ氏に脅しをかけてほしいと言われたんです。ボヤで済ませるつもりが、つい手が滑ったようで」
「手が滑ったなら仕方ないですね!」
ルチアーノが陽気に笑い飛ばす。
「君、本当はまだ師匠を恨んでいるんじゃ……」
そもそも付き合いが悪い程度で脅せと命じるのがおかしいのだが、同意してくれそうなエマは舟をこいでいる。ともかく、命令以上の大ごとになり、長年罪の意識に苛まれていたアドルフォはついに復讐が始まったと勘違いしたのだろう。結局はクリスが追いかけてきたのだから、勘違いではなかったのだが。
「ヴィトの車に細工をしようと決めたのは、坊ちゃんと会った翌日です」
既に聞いているのか、ルチアーノはクリスの告白に黙って耳を傾けていた。
「私が罪を犯せば、成功しても失敗しても、坊ちゃんに何かあった時駆けつけることはできなくなります。それが、長年思い留まっていた理由でした。でも、久しぶりに会った坊ちゃん――ルチアーノ様は、もう私の助けなんて必要ないほど立派になられていた。喜ばしいはずが、突然人生の意味を失ったかのようにショックを受けて……。その結果が“アレ”です。車の細工は得意だったはずなんですがね」
自嘲するクリスだったが、どこか嬉しそうでもあった。聞いているルチアーノの表情も。
「復讐よりも大事なことがある。それに気づけたなら、良かったんじゃないか」
幸い、ヴィトの負傷も大したことはない。ユーゴの言葉に、クリスは肩をすくめた。
二人のやりとりを眺めていたルチアーノが、クリスに向けてグラスを掲げる。クリスも応えるように、グラスを手にした。
「僕たちの、復讐の終わりに」
誓い合うように掲げられた二つのグラスが重なり、澄んだ音が響いた。
「……そうだ、忘れないうちにこれを」
ユーゴは「ハムレット」の包みを、ルチアーノに手渡した。ずっしりとした重みが彼の手に渡った時、ようやくユーゴも解放されたような気がした。
「どうしてこんな大切なものを俺に預けていったんだ。あんな、思わせぶりな手紙まで残して」
ルチアーノが口を開くまで、少しの間があった。じっと包みを見つめ、思いを噛みしめているようにユーゴには見えた。しかし目が合った時はもう、いつも通りの悪戯っぽい笑みを浮かべた彼だった。
「僕がクリスの説得に失敗した時の保険ですよ。この本を託しておけば、律儀なあなたは僕を捜して真相に辿り着く。結果的に師匠を守ってくれると思ったんです。まさかミズ・アシュトンまで一緒とは思いませんでしたが、あなたは期待通りの働きをしてくれました」
「それはどうも。意地の悪いやり口は、師匠とよく似ているな」
「師匠に似るのは嫌ですねえ」
ルチアーノが大げさに顔をしかめる。ちょうどアドルフォがもごもごと呟いたが、目を覚ますことはなかった。
「クリス、この本のことを覚えていますか?」
ルチアーノが包みを解き、私家版「ハムレット」の表紙を彼に見せた。クリスがはっと目を見開く。
「もちろんです。奥様の一番のお気に入りでしたね。挿絵を見ながら突然ご夫婦で演じ始めて、私も巻き込まれたことがございます」
「僕もよく覚えていますよ。演技だけは下手なクリスが面白くて、ずっと笑っていました」
ルチアーノが本を抱え、表紙を開く。現れたページの上で、登場人物たちの陰が踊っていた。今、二人は同じ光景を思い描いているのだろう。この本は、穏やかで幸福だった日々を覗く窓なのだ。ページを手繰れば、思い出はいつだって蘇る。
「……私は、幸せでした。リンフレスキ家に仕えられたことが。一時でも家族として、迎え入れていただけたことが」
クリスは涙を本に落とさないように、そっと顔を背ける。
「一度家族になったら、ずっと家族ですよ」
同意を求めるように、ルチアーノがユーゴを見た。ユーゴは迷いなく頷く。
「俺もそう思うよ。その本が、二人を繋げている。これまでもこれからも、家族だ」
すすり泣くクリスの背を、ルチアーノは労わるように撫でる。彼の目にも、光が見えた。
イタリアの、小さな村の片隅。本を売り生計を立てる者たちの故郷で、世界を巡る古書の物語は、静かに幕を閉じた。
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