第6話 始まりの村(4)

 二人は手近なホテルの一階にあるラウンジに入った。テーブル席で向かい合い、ユーゴが先に口を開く。

「ルチアーノの居場所だが、どこにいるかは本当に想像もつかない。本人は国内にいると言ったが、それも今となっては嘘かもしれない。彼は俺に、手紙とこの本を残して姿を消した」

 古書を見たエマは、ほうと感嘆の息をついた。

「個人所蔵では初めて見たわ。クラナッハ印刷工房の、『ハムレット』ね」

「素人にもわかるように教えてほしいんだが、やはり貴重なものなのか?」

「ええ、オークションで出品されたら、相当の額になると思うわ。その印刷所はドイツのワイマールにあって、私家版の印刷で有名だったの」

 現代で私家版といえば営利を目的としない個人的な出版を指し、自費出版に近いものも含むが、ヨーロッパで伝統的に作られていた私家版は、それとは少し趣が異なるという。

「愛書家が、採算を度外視して作らせる本のことよ。だから元々冊数も少ないし、印刷も装丁も、とことんこだわって作られているの。出版当時でも、高値がついたんじゃないかしら」

 エマは目を輝かせて、丁寧にページを捲っていく。

「ほら、活字も綺麗だし、一ページごとにこんな風に挿絵がついてる。これは舞台上で演じる様子を描いているんだわ」

「確かに、かなり手が込んでいるな。シェイクスピアならではの表現の仕方だ」

「本当に。素晴らしい仕事ね」

 エマは名残惜しそうに、本を閉じた。

「なぜ彼がこの本を俺に託したのか、さっぱりわからないんだ。ただ、手紙を読むとどうにも不穏でね」

 ユーゴはエマに、彼からの手紙の内容を説明した。

「あなたの言うように遺言ともとれるけど……。彼は危険な場所に敢えて向かったということ?」

「昨晩の出来事が関係しているなら、やはりリンフレスキ家の執事だったクリストフォロを追ったんだろうな。危険だから首を突っ込むなと、わざわざ俺たちに言ってきた」

「その男の行き先は?」

 ユーゴは力なく首を振った。どうにか手がかりを得ようと考えてか、エマはタブレット端末を出し、何やら検索を始めた。

「SNSに本人のアカウントはなさそうね。あとは……ううん、さすがにまだニュースにはなっていないか」

「何を調べたんだ?」

 エマは端末の画面を見ながら、さらりと答えた。

「あなたの話だと、クリストフォロは古書泥棒でヘマをした人を粛清しているはずでしょう? どこかの山や海にそれらしい死体が出てるか調べたけど、見つからなかったわ」

 ユーゴはぽかんとしてしばらく言葉を失っていた。少し経ってエマが再び声を上げた時は、恐る恐るどうしたのかと尋ねた。

「ねえこれ、ヴィト・カレッリって、ルチアーノの叔父よね。大変!」

 エマはタブレット端末をユーゴに渡し、ニュース記事を見せた。イタリアではなくイギリスのニュースサイトのものだ。飛び込んできた見出しに動揺し、ユーゴはテーブルに膝を思い切りぶつけた。

「ホテル王ヴィト・カレッリ氏、交通事故で重体」とある。記事によれば、つい数時間前の出来事のようだ。世界的に影響力のある人物ということで、海外にも広まったのだろう。

「この件、ルチアーノは関係しているのかしら。彼、叔父さんを恨んでいたの?」

「仲が悪いというか、徹底的に嫌っていたが……しかし、まさか」

 ルチアーノが叔父を殺そうとしたなんて、ユーゴには信じられなかった。だが、あまりにもタイミングが合い過ぎている。

「彼が叔父を殺すつもりだったなら、手紙の内容もまた違った解釈ができるわね。計画を実行した後、叔父の取り巻きに報復されて死ぬか、自殺を選ぶか、あるいは逮捕されて塀の中か。どの道あなたと再会はできないじゃない?」

「ハリウッド映画顔負けの展開だな」

 茶化して軽口を叩くのが精いっぱいだった。ユーゴの心臓は先ほどから、暴れるような鼓動を刻んでいる。

「ねえ、これはちょっと考えすぎかもしれないけど」

 エマの声で、ユーゴは我に返る。

「ハムレットは、主人公ハムレットが叔父に復讐しようとする話でしょう。もし二人の間に何か遺恨があるとしたら、この本はそれを暗示するためだったんじゃないかって、ふと思いついたんだけど……」

「遺恨か……。ルチアーノが叔父を嫌っているのは自分の仕事を邪魔するからだと思っていたが、もっと根深いなにかがあるのか……?」

 少年時代の恨みから叔父に復讐しようとしているのであれば、捨て身で臨むこともまあ納得できる。

「その辺りのことは、少し聞いてみるか」

「聞いてみるって、ルチアーノ本人に?」

「いや、電話もメールも反応はない。事情を知っていそうな人間が、もう一人いるんだ。ただ、会ってくれるかはわからないが」

 しかし、他に手は思いつかなかった。ユーゴはその人物に接触するため、スマートフォンを手に取った。



 イタリアの首都、ローマ。ユーゴが話を聞きたい人物、べルティーナ・カレッリとは、この街で会う約束をしていた。

「ようやく着いたわね」

 高速鉄道に揺られていた四時間のうちほとんどを寝て過ごしていたエマは、小さくあくびをしながら言った。

 ユーゴとエマが降り立ったローマ・テルミニ駅はイタリアの玄関口で、パリやミュンヘンなど海外の都市を繋ぐ国際列車も発着している。

 ルチアーノが姿を消した日、ユーゴは彼の従妹、べルティーナと連絡を取る方法を模索した。

 彼女自身が発信したSNSによれば、彼女は一週間後にミラノで行われるファッションショーに出演する予定で、それまでは自宅のあるローマ市内でゆっくり過ごすとあった。その予定はおそらく父親の事故によって変わったはずだが、彼女の所属するモデル事務所を通じてユーゴの名前を伝えてもらうと、あっさり本人から連絡があった。市内のレストランの個室を取るので、そこで会おうとのことだった。

「父親が生きるか死ぬかって時に、よく人と会うのをオーケーしたわね」

「その辺りの事情はわからないが、もし事故にルチアーノが関係しているなら、彼女にとっても俺と接触することに意味があるはずだからな」

 事故から二日経つが、故意に引き起こされた可能性を指摘する声はあるものの、犯人を捕まえたという報はなかった。どんな情報でも欲しいと考えているのかもしれない。

「そういえばそのレストラン、調べたら二つ星の有名店だったわ。さすがセレブは違うわね」

「モデルとして活躍しているようだからな。確かに一般人とは違うオーラがあった」

 エマはふうんと気のない相槌を打った。彼女も顔立ちは整っているのだが、大きな眼鏡で顔を覆っているあたり、あまりファッションに興味がないようだ。

 時間には余裕があったので、列車旅で固まった体をほぐすのも兼ねて、二人で市内を散策した。途中、カフェが並ぶ通りではジェラートやティラミス、カンノーロなどが売られていた。ルチアーノがいたら、目を輝かせたことだろう。

 エマは文学少女然としている割に体力があるようで、せっかくだから有名な場所を見たいとユーゴを引っ張るようにして歩き回った。トレビの泉からパンテオンに向かい、最後はイタリアの下院にあたる代議院議会議事堂、モンテチトーリオ宮殿へ。スマートフォンのカメラを構えながら、エマは言った。

「この遺跡が次に来る時までずっと同じ姿のままでいる保証なんてないのよね。大英図書館の所蔵品もそう。傷みを修復して、どれだけ丁寧に保存しても、いずれは朽ちてなくなる日が来る。だから、できるだけたくさんの時間を残して、次の代に渡さなくちゃって思うの」

「確かにそうだな。どんなものもいつかは風化して消えてしまう。誰かが守らなければ、本もあっという間に埋もれてしまうんだろうな」

 エマは真剣な表情で、ユーゴの言葉に頷いた。

「だから私は、アドルフォ・カッシーニを尊敬しているし、軽蔑もしているの。彼は長い間、本を守り続けていた。でもせっかく守ってきたそれを、あんな方法で手放した。私はその理由を、自分の手で直接暴きたいのよ」

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