#21「もう帰るの?」
絢斗が自分のことを好きだと知って、絢斗を意識せざるを得なかった。
社内にいるときは、必ず様子が気になって、気づけば目で追っている自分に気づき、仕事に集中しろと自分に言い聞かせ、戒めることを繰り返した。
これほど誰かのことを思い、心を乱されるのは久しぶりで、どうしていいか分からなくなる。
好きだと知った後では、絢斗に今まで通りに接することは難しそうだった。
好きだとは言われたが、まどかの気持ちを問うことはされていない。
普通に考えれば、まどかの答えが必要になってくるはずだが、まどかと絢斗はすでに付き合っているのだ。その事実が、ことを難解にさせる。
まどかは打ち合わせのため、立ち上がる。
チェアにかけたままだったジャケットを羽織ると、ふわりと鼻腔をくすぐる香りが舞った。
絢斗の香水の香りだと、すぐにピンときた。
絢斗の家で香水を吹きかけられたときに着ていたジャケットだと思い出す。
背中を押してくれるような気がして、心強かった。
なずなが用事があり、本社にやって来ると聞いていたので、昼の休憩時間に休憩スペースで落ち合った。
自動販売機の前に立ち、「奢るよ、何がいい?」となずなに問う。
しかし、答えは返ってこない。
「……いい香りがする」
まどかはどきりとした。
それを悟られないよう、平静を装う。
「……中埜の匂い」
振り返れず、「コーヒーでいいかな」と言って、ボタンを押した。
そして、屈んで取り出し口に手を伸ばし、缶コーヒーを手に取る。
「匂いがつくってよっぽどだよね? やっぱり付き合ってるの?」
何も答えないでいると、このまま質問攻めになりそうだ。
意を決して振り向いて、コーヒーを差し出す。
「どうぞ」
なずなは眉尻を下げて、まどかを見つめている。
動く気配が微塵もないので、まどかはなずなの手を取り、缶コーヒーを持たせた。
「……いずれ話すって言ったのに、訊いてごめん」
「……うん。待ってほしかった」
なずなの顔色が曇る。
なずなに心配させているのはよく分かる。
しかし、自分の中でも決着がついていないのに、他人に説明できるはずもなかった。
「――付き合ってるかって?」
ざわめきとともに降ってきたのは、絢斗の声だった。
顔だけ振り向こうとしたら、すでにまどかの横に立っていて、腰に手を添えられ、グッと引き寄せられた。
「付き合ってるよ」
まどかは唖然として絢斗の顔を見上げる。
驚きすぎて、拒否も否定もできなかった。
とにかく、耳を傍立てていた周辺の社員たちの、悲鳴にも似た声を聞きながら、またとんでもない爆弾を投下したなと、妙に客観的に思った。
その後、なずなを宥めるのはとても大変だった。
何とかまた話すからと言いくるめて、その場を逃げるように立ち去った。
「……何であんなこと言ったの?」
「まどかも拒絶しなかったでしょ?」
「……拒絶したら中埜が悪く見えたかもしれないでしょ?」
「俺の心配してくれたんだ? 俺が嫌がる同期に無理矢理迫ってるように見えたらいけないって?」
クックッと笑う絢斗を睨むように見返した。
そんなに外堀を埋めなくたって、自分は絢斗と向き合えるのに。
そう思いながらも、こんなことでもなければ、後回しにしそうな自分もいて、絢斗のことを悪くは言えないと、何もかもを呑み込んだ。
それから、まどかと絢斗が付き合っているという噂が広まるのは早かった。
数時間後には、いつもと違う視線を感じるようになった。
ただ、信憑性はそれほど高いと思われていないらしく、探るような視線だ。
自分が何か訊かれたら、適当にかわせるが、絢斗はどんな話をするのか、気になって仕方がなかった。
今も、絢斗は2人の先輩に囲まれていて、その先輩たちは明らかにまどかをチラチラと見て、意識している。
「そう言えば、前に家で待ってる人がいるって言ってたよな?」
「え、同棲してんの?」
「誰に聞いたんですか? してませんよ」
ひやひやしていたが、絢斗はまどかの関係について明言するつもりはないようだ。
とりあえず、休憩スペースでの出来事は冗談で片付けるつもりらしい。
ホッとしたような、寂しいような、複雑な気持ちになった。
絢斗がどうしたいのか、いまいちよく分からない。
絢斗へと接し方が分からないまま時間は過ぎ、あっという間に夕方となった。
絢斗の姿が見えなかったこともあり、自席で仕事に集中できていた。
そんなとき、不意に後ろから肩を叩かれた。
勢いよく振り向けば、絢斗が立っていた。
「……先に声かけてって言ってるでしょ」
「ごめんごめん」
いつものように、全く謝っているようには思えない謝罪を聞く。
完全に分かった上でわざとやっている。
「今夜、時間ある?」
絢斗は身を屈めて、ひそひそと訊いた。
噂されているのに、と周囲の反応が気になる。
「俺、直帰予定だから、外で待ち合わせしようよ。実はもうお店予約してるんだ」
お店を予約しているとまで言われてしまったら、断る理由になる重要な予定もなく、まどかは頷いて受け入れるしかなかった。
***
絢斗と待ち合わせして、連れてこられたのは、夜景の見えるレストランだった。
ガラス張りで開放的な空間で、街を見下ろす眺望はまさに絶景である。
全面全席窓際なので、遮るものもない。
絢斗と向かい合って着席し、夜景を見ながら、絢斗の横顔を視界に入れる。
気づいたら、絢斗の横顔に見とれていた。
今までは端正な顔に見とれていたはずなのに、今は純粋に絢斗に見とれている。
向かい合って何を話せばいいのかと不安に思っていたが、絢斗はいつもと変わらない調子で、変な間もなく、会話は進んだ。
「新商品が発売されるし、忙しくなるだろうから、その前にゆっくり食事できたらいいなって思ってたんだよね」
絢斗は好きとまどかに言う前からお店を予約していたらしい。
そう言って微笑んでいて、まどかとの時間を作ろうと、いつも主導で動いてくれているのだと実感した。
食事はとてもおいしく、お腹は幸せで満たされた。
特に、鶏もも肉のコンフィはほろほろとしていて、とてもおいしかった。
お店の外に出て、さっきまで見下ろしていた景色の中に足を進めた。
当初は並んで歩いていたはずが、まどかは絢斗より半歩ほど遅れて歩くようになる。
その遅れがますます開いていきそうになったとき、絢斗は足を止めて、まどかの顔を覗き込んだ。
「どうした?」
心配の色が浮かんでいる。
別に心配させたいわけではないのに。
「……ううん」
まだ話したい。話したいことがある。
そう言えばいいのに、その言葉が喉に張りついたように出てこない。
それはきっと、自分の中で何からどうやって説明したらいいのか、気持ちがまとまっていないからだ。
「送るよ。どこか寄る?」
このままではそのまま帰ることになる。
自分がどうしたいかを伝えるのは得意なはずなのに、どうして絢斗を前にしたら、言えなくなるのだろう。
言葉が出ない代わりに、また歩き出そうとする絢斗のジャケットの裾を、とっさに掴んでいた。
絢斗は掴んだところに目をやってから、まどかの顔を見た。
「……もう帰るの?」
絢斗は目を見開いて、ひどく驚いた顔をする。
それから、大きなため息を吐いた。
「まどかはずるいね。……家に来ないか、誘われるとでも思ってた?」
図星で黙るしかない。
当てが外れたから、焦ったのだ。
「俺、好きだって言ったよね? 覚悟してるってこと?」
絢斗の声には怒りの色が滲んでいて、まどかは息を呑んだ。
「そうじゃなかったら、中途半端なことしないで」
絢斗の言う“覚悟”は、確かに今のまどかにはないかもしれない。何もかも中途半端だ。
たった2文字。されど2文字。
どうして“好き”と言えないのだろう。
まどかは結局言いたいことを何も言えないまま、絢斗に家まで送ってもらったのだった。
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