第八話 『泉の秘密、友人の秘密』7
樹壱は、スラムの雑踏を歩いていた。手には粗末な麻袋を提げ、目に映る貧困な者達は暗く淀んで俯いていながらも、日々の不満を抱えて尚浅ましく生きる品のない命の活力を備えているように思えた。
湿った土の匂いがし、誰もが知る雨のあの前兆に、彼らなりに準備をしているようだった。
「──どうしたものか。穏便に収めるのが一番だろう……だが、下手すればここの政治まで動かす事になる。
俺がそこまで手を出してよいものか」
樹壱は少々悩んでいた。
というのも、事態は思ったより深刻だからだ。もし樹壱が何もせず放置すれば、この地域の一大事になる程度には。
正直に言えば、樹壱にとってスラムの再開発という話はアデリーらには気の毒だが、重大な話ではない。
冷たいようだが為政者の勝手で踏みにじられた民が迷惑するというのは、悪いがこの世界では、ありふれた光景だったからだ。
どれほど悪辣な君主だろうが、旅人である樹壱は現在この国の支配者ではない。従って、権利も責任もなく世直し人のつもりもない。今は個人的な友人さえ守れれば良いし、そうあるべきだ。
そこに一線を引かなければ、行く先々で樹壱が支配者として振る舞わねばならなくなる。
だが、問題は、泉の扱いだ。為政者達が歴史を忘却し、あまりに軽んじている……。
「全く。ここもずいぶん変わったものだ。たった50年、高々半世紀で、重要な泉への信仰も失って……。いや」
50年。半世紀。
それは普通の人間の感覚では、恐ろしく長い時間の事だった。つい自分のうんざりするような時間的感覚でいたことに、樹壱は今さら気づいた。
斜面にあるスラムから、新市街地の栄えた街を望む。そして少し呆然と呟いた。
「──そうか。もうこの地には兵も要らず、良馬もほとんど生産していないのか……。セディプスの騎馬と言えば、精強な騎兵の代名詞だったが。
北の防衛はヴィッツ共和国が固め。今重要なのは、街道がもたらす通商と富であり。
父祖からの言い伝えなど、当代の者には話半分であろうし万が一本当であっても構わない、という事か……」
人々で賑わう新市街の場所には以前、数え切れない程の馬を養う広大な牧場と、遥かな緑の牧草地があったはずだった。
時は過ぎ去っていた。樹壱は寂しいような気持ちになった。
太陽の下に長閑に過ごし、土に親しみ豊富な水の恵みに生活を営み。しかしひとたび馬を駆れば、奔る北風の如くに──そんな人達はもう、ここにはいなかった。
思えば、古い話だった。古い話になってしまった。
少し振り返り、泉のある方角を眺めた。以前このあたりから望む泉は、よく整えられ広場の祭壇の前には祈りの灯が耐えなかったが、今やバラックに埋もれ、姿すら見えなくなっていた。
「そうなのか。お前達はもう、泉を要らないと言うのだな──」
ならば、穏便に事を収めようと樹壱が悩む必要もないのかも知れない。
その一大事を、起こしてしまえばよい。
誰もが忘れ、50年前に見た光景がもうここにないのなら──
「──分かった。彼女は『
歩き、樹壱は廃教会へ帰ってきた。
傾いでまともに明け閉めも困難な扉を抜けると、リビング代わりに使われている礼拝堂に人影があった。赤髪の女が小剣の柄を握って座っていた。
アデリーが番をしていたようだ。毒が盛られた日以来、彼女はこうして住み処の警戒をしていた。樹壱の姿に気づくと、柄から剣を離して顔を上げる。
「……あんた。どうだった」
「ああ。以前、セラフィナが住人に鉢植えを落とされたという場所に行ってきた。マフィアに脅され、金を積まれて引き受けたと吐いた」
「やっぱり本当なのか。くそっ」
アデリーは吐き出すように大きく息をつく。
「はあぁ……どうして。子連れのこっちが犯罪組織と争えるわけないだろうに、あいつらもそこまで本気なら先に言ってくれれば。私らはただ細々暮らしてただけで、毒やら暗殺紛いやらめちゃくちゃだ」
「成果を急ぐ奴がいたんだろう。今のところ連中は互いに殺し合って、こちらを犯人と疑ってはいない」
数日間に渡って街中を監視したところ、マフィアは樹壱の仕業に全く気づいていないようだった。
殺した男は組織の幹部だったらしく、偽装に引っ掛かり、夜間には組織同士の報復の小競り合いが各所で繰り広げられている。
街の衛兵が動いて事態を納めようとはしているようだが、こちらからこれ以上の手出しは必要なさそうだった。
樹壱は懐から紙を取り出しアデリーに見せた。
「『アブサン・ファミリー』とかいう組織のアジトから持ってきた。市長や侯爵の関与を示す証拠にはならないが、計画全体の覚え書きだな。
各マフィアごとに地区を割り当てて、住人を追い出し最終的には城塞を含むスラム全域を取り壊し、一から街並みを建てる気らしい」
「ここらでも一番でかいマフィアだ。嘘だろ、それじゃどうにもならない。いくらこの教会を買おうとしても、土地代の問題じゃないじゃないか」
アデリーら個人では、街や国の意思に敵うわけもない。アデリーが肩を落とした。
「はあ。──だけど、あんたは一体なんなんだ? 突然ここに来て、ふらっと出ていって簡単に連中を始末して。今日はそんな紙まで持ってこれて、どうせ傷一つ負ってないんだろ」
アデリーが睨むような上目遣いで樹壱を見ていた。
「……数日、ここで番をしながらあんたの言葉や行動を思い出してみたし、私なりに考えたよ」
「……」
「セラフィナなのか? あんたの言ってた、ある人物の『要求』って」
アデリーは決意したように言った。そして樹壱に相対する。
「あいつが『泉の女神』だって? そんなはずない。あいつは暢気なただのバカで人間で、私の大事な親友だぞ。
言うこと聞いたら変なマジック・アイテムを生み出すところなんて見たことないし、得意な事と言えば、料理と草むしりくらいだ」
「……彼女の今の状態では生み出せないな。『還元』する必要がある」
「還元だか何だか知らない! それに──思い出したんだよ。あんたの名前だ。傭兵稼業をやってた時に聞いた、あの中でもクソ中のクソ野郎が、酒場でビクビクしながら囁いてた名前だ……!
【十字路の死神】とかいう、傭兵どもを殺して回る凄腕暗殺者の名前だよ。アンバー」
アデリーの指先が震え、ゆっくりと腰に提げた小剣の柄を握ろうと伸びていった。
息を荒げ恐怖に抗うように、彼女の瞳はウィッチの能力で強い不安に染まりながらも、だが勝ち目などなくとも家族を守ろうとする毅然とした意志が表れていた。
しかし……柄に触れる前に、アデリーの手は下りた。
「──でも、分からないんだ。あんたは……私の家族の命を救った。近所の年寄り達も。あのままじゃ毒入りのスープで、みんな死ぬところだった。
賞金首の金だって譲ってくれた。いや、あの時セラフィナに刃物が向けられる危険も先に教えてくれて、すぐ守れた。
私の感じてる不安とは別に、頭で考えたら、あんたのやってる事は全部私達の助けになってる。だから分からない……」
「ふむ」
樹壱は手に持っていた麻袋の荷物を長椅子に置くと、腰かけた。瞳に壊れた教会の中を映して、言った。
「そこまで推察しているのなら、説明するか。まず俺は前も言ったように、補給品とマジック・アイテムの入手の為にこの街に寄った。
今はどちらかと言えば、古い友人のために動いている。……実は当初、迷いがあってな」
「迷い……?」
「お前は友人が気持ちよさそうに昼寝している時、敢えて起こそうとするだろうか。幸せそうに微睡みの中にいるのに、わざわざ叩き起こしてやろうとは思わないだろう」
謎かけめいた樹壱の言葉に、アデリーは意味を掴みかねているようだった。
樹壱は黒水晶のアクセサリーを取り出し、摘まんで透かすように眺めた。
「本当は、今回はこれを手に入れなくてもいいか、と思ったんだ。これの当てが無ければ無いで、南へ行って修理してもよかった。
だが彼女が、俺を強引に捕まえてまでも呼んだ。その結果が、昨日の毒スープだった。
『ウィッチ』の話をしたな。ウィッチには複数の種類があり、能力も多岐に渡る。お前は『危機察知型』のウィッチだが、他のウィッチはまた別の特殊能力を持っている」
教会の奥に続く扉を見つめる。その先にはこの教会に寝泊まりする者の寝室があり、今は寝ているはずだった。
アデリーが、まさかという顔をした。
「はっ? あいつが」
「セラフィナも、ウィッチだ。『危機回避型』の」
アデリーが呆然とし、やがて慌てて反論する。
「あ、あいつの勘なんて当たらない。むしろ勘が悪い方だよ。私は知ってる、外ればかりでひどいもんだ」
「危機回避型の能力は、『最悪の事態を回避する』というものだ。最悪を回避するだけで、他の幸運をもたらすわけではない。つまり悪運の強さであり、最低保証の能力なんだ。
すんでの所で、という時を何度も見ているはずだ。そして何故か助かる」
「……それはっ……!」
アデリーには思い当たる節があるのだろう。
「──自ら危険に近づかない察知型ウィッチと違い、回避型ウィッチは未来に起こる危険に対処するため、無意識に必要な
だから俺が呼ばれたのだ。あの時、毒を判別できる人物が近くに必要だったからだ」
未来の事象を無意識下で感知する、かなり強力な運命干渉型の能力と言える。
アデリーのウィッチ能力では、仕込まれた毒を防ぐ事は出来ない。彼女が察知できるのは意思を持った相手の接近だけだからだ。
「このタイプのウィッチ能力は、取り扱いの判断が難しい……。本人が単純に欲しがっているだけなのか、能力によって命を守るために欲しているのか、本人すら分からない場合が多いからだ。
気に入ったから何となく欲しがる、程度の感覚でしかない。予知能力者以外に事前の判別は不可能なため、基本的に彼女達の要求は全て聞いた方がいい」
「そんなこと、私はあいつから一言も聞かされてない……」
「おそらく今の彼女は、無自覚のウィッチだ。危機回避型には元々多い。説明不能の悪運の良さにしか見えないからな。
察知型のお前でさえ、自分が特殊能力者だと気づかなかったくらいだろう」
「……」
「セラフィナはウィッチであり、そしてこの地を治める土地神。『泉の女神』本人だ」
古い礼拝堂に沈黙が落ちた。拳を握りしめ、絞り出すようにアデリーが言った。
「仮に、あいつがそのウィッチだったとしてだ。変な力を持ってても、あいつはどう見たってただの人間だ。『泉の女神』って話とは関係ない!」
「関係あるんだ。この地で信仰された『泉の女神』は、主に加護を欲した騎士達に信仰された。
試練を乗り越えた者に女神が分け与える加護とは、『戦場において一度だけ最悪の事態を回避する』というものだった」
「……あんた、あんたは、あいつの何を知ってるんだ?」
「……ウィッチという概念は元来、人間以外の特別な能力を持った、土地の神など強大な魔法生物あるいは魔物の個体の事を指した言葉だった。
後年、人間にも同等の能力を持つ者が発見された事で、言葉がそのまま流用された……」
樹壱は立ち上がり麻袋を再び手に取った。
「違う。何の証拠もない……」呟くアデリーの前で、コツ、コツと靴音を鳴らしてゆっくり歩いた。
「──正直に言えば、俺もあの酒場に彼女が突然現れて隣に座るとは思っていなかったし、驚いた。それもいつの間にか、人間のシスターになっているとは。
『
「セラフィナが、あんたの事を知っていたようには私には思えない」
「俺も覚えているようには見えなかったな。神は『化身』の際に記憶を自ら封じる事も多い。戯れだからな」
「だから! 何の証拠もないって言ってるだろっ!!」
アデリーの声が礼拝堂に響いた。
石が剥がれて蜘蛛の巣が張る天井から静寂が落ちてきた。アデリーの手は震えていた。彼女のウィッチの能力がもたらすものとは、違う意味だった。
樹壱は少し沈黙する。大切な者が人ではないと言われて、動転しないわけがないのだ。
耳を塞ぐ事も間違いとは一概に言えない──樹壱には、アデリーの世界を破壊する権利はなかった。
「もう止めてもいい。証拠を見せてもいい。君が選択していい」
樹壱の一言に、アデリーが息を呑む。腕を組んで俯き、悩んだ。ややあって彼女は言った。
「もし聞かなかったら、どうなるんだ……?」
……何も変わらないな。結局、聞かせないわけにいかないか。
「聞こうが聞くまいが結果は同じだ。俺はセラフィナを『泉の女神』に戻す──」
「っ!」
アデリーが飛びかかり、樹壱の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるな! あいつは、私の家族だぞっ!!」
「このままでは、セラフィナが死ぬ」
「──は? え」
「泉が取り壊されるからだ。連中の計画では、スラムごと泉を埋め立てる気だ。
そこには彼女の魂の座がある。泉が破壊されれば、彼女の魂も破壊されて死ぬ」
「あいつが死ぬ? い、泉は、とっくに枯れてるだろ。埋め立てても」
「魔術的には『そこに在る』という事が重要なのだ、水量の問題ではない……」
セラフィナの場合、今の姿は写し見として人間に具現化しているに過ぎない。あくまで本体は泉にある。
「俺もやりたい訳ではない。『昼寝の話』だ──友人はよく寝ているが、階下で火事が起きている。無理にでも叩き起こすしかない。焼け死ぬ前に」
記憶を封じているのなら、これはセラフィナが見ている夢だ。
樹壱にも何故セラフィナが人間に『化身』したのかは分からない。50年訪れない間に、泉の女神は何故自ら記憶を封じ、人間になってスラムに住んでいたのか。
その時、礼拝堂へ続く立て付けの悪い扉がギィと開いた。
話し声に気づいたらしいセラフィナが、奥から出てきた。
「ありゃ、アンバーさんおかえり? アデリーは今日も結局寝なかったの。てかなんか今、ケンカしてなかった?」
セラフィナは起床して間もないらしく、盛り上がった髪を撫で付けて欠伸をしていた。
「大した事ではない。騒がしくてすまなかったな……ところで、『今欲しいものでもあるか』?」
次の指針の参考に樹壱は聞いた。
回避型ウィッチの無意識の要求を積極的に聞き出すのは、これから起きる未来の事象を、逆算的に推測するのに役立つ場合がある。
武器や盾や安全な場所が欲しい、という要求が出るならば、つまりこれから襲撃等の事態が彼女の周辺で発生するという事になる。
「欲しいもの? んーっと」
──ぐぅ。
彼女の腹から盛大な音が鳴り響いた。
「おぅ。腹減ったわ~……」
少しだけ頬を赤らめ、セラフィナは言った。
……これはウィッチ能力にも試練にも、全く関係ないな。単に空腹なだけだ。
「ん~~肉! 肉が欲しいかなアタシ」
「そうか。ちょうど市場で買ってきたものがある」
樹壱は手に提げていた袋をテーブルに置いた。開封すると中から鶏肉等の食材が出てくる。
「宿代がわりだ。寝床を借りておいて、いつまでも無銭飲食というのもいかんからな」
「マジ!? もらっていいのこれ、いや貰う貰う! よっしゃーー!」
袋を抱え込み、近くに吊るされた古いエプロンを引っ掴むとセラフィナは教会の奥に向かって叫んだ。
「みんな起きろ~! 久々のお肉が来たぞ、お肉様だよ~! ココもサナもレンも起きてご飯の用意手伝え~!」
鶏肉を掲げ寝癖頭も気にせず、ドヤドヤと騒がしく厨房へ駆けていく。
「ぷっ。セラフィナお前なぁ。あ……コホン」
気まずそうに咳払いをしたアデリーに、樹壱は言った。
「お前も食っておけ。しばらく脅威はなさそうだが体力があるに越した事はないだろう」
「……ふん。おいセラフィナ、私も下拵え手伝うぞ!」
アデリーは友人の変わらず暢気な姿を見たせいか、少し安心した表情をしていた。セラフィナの後を追って教会の奥へ入って行った。
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