第16話
「――おい、起きろ。起きろ!」
バケツをひっくり返したように頭に水がかかって、藍は目が覚めた。薄目を開けると、そこは石壁で囲まれた、納屋のような場所だった。ぼんやりと働かない頭で少し前の記憶を辿った。今日は菊花に頼まれて買い出しに来ていて、ついでに気晴らしに街を見て回っていたはずだ。そして路地に入ったところで、誰かに殴られ――。
そこで藍はハッとして顔をあげた。
「やっと起きたか」
目の前にいたのは、皺だらけの顔をした老爺だった。鉤鼻が目立ち、小柄で、童話に出てくる魔女を彷彿とさせた。漆黒の袍がまるで魔女が纏うローブのようだった。
「……ここは、どこだ」
藍は老爺を睨む。今すぐにでも殴りかかってやりたかったが、それは憚られた。その場にいたのは老爺だけではなかった。何人かの宦官に藍は羽交い締めにされていた。その中に一人に見覚えのある宦官がいた。
「お前は、武安! なんでこんなことをする!」
武安はにこりともせずに言い放った。
「陛下が青色をご所望されたからでございます。金糸雀妃はそれを受け入れ、貴方のその青色を取ってくるようにを私どもに言いつけました」
「な――」
「貴方は妃のことを随分と憐れんでいらっしゃる様子でしたが、あれも後宮の女。建前は大の得意なのですよ」
藍は愕然とした。まさかそんなはずがないと思いたかった。しかし、この状況が何よりの証拠だ。藍は悔しげに唇を噛み締めた。
老爺は藍の前髪を引っ張るりあげると、その青い瞳に顔を近づけた。
「おお。これは素晴らしい。確かに私も調色師として長年生きてきたが、これ程見事な青色は見たことがない」
「……離せ!」
藍は身を捩るが、今はがっちりと固められていてびくともしなかった。
「調色師。早く終わらしてしまえ。また皇帝の気が変わるとも知れない」
「わかっておる。ひ、ひ」
宦官たちに瞼を無理矢理あげられる。調色師は藍の目に手をかざした。やりきれない感情が溢れてるせいか、それとも単に乾いているせいか。藍の瞳から涙が零れ落ちた。
燈夏の顔が思い出される。
昨日の今日、聞いたばかりだというのに。燈夏にもう大丈夫だと言ってやりたいのに。もう色に振り回される必要なんてないと言葉をかけてやりたいのに、いつまでたっても世界が藍たちを許してくれない。
「その青、私が取ってやる」
猩猩が手をかざす。
藍は身構えた。わずかな恐怖と反抗心に身を固める。
「……くそ……くそくそくそ! 俺だって、こんな色、いらねぇよ……! こんな最低な色なんて、こっちから願い下げだ!」
一瞬、目の奥をいつかの思い出がよぎった。
――その青色は自由な空の色。そしてどこまでも広がる深い海の色。君だけが持つ特別な色。僕は君のその青色が大好きだ。とても綺麗だと思う。
藍は、あの美しい思い出を否定し、ずたずたに切り裂いたのだ。それは藍自身に同じ傷を与え、全身が引き裂かれるような痛みを感じた。
しかし、調色師が突然、狼狽えはじめた。
「なんだ……私が、調色できない……?」
藍の瞳は光を帯びていた。しかしそこから色が抜け落ちていくことはない。藍の瞳の中に収まったまま、宝石のように輝いていた。まるでそこ以外では色褪せてしまうのだと訴えているようだった。
怯えたように、調色師が後ずさった。
「な、なんだお前は……! 調色師が調色できないなんて……! お前はなんだと言うのだ!」
藍を押さえつけていた腕が緩んだ。その隙に藍は腕を振りほどいて、一目散に走り出した。
「逃げたぞ! 追え!」宦官たちが背後で叫ぶ。逃げるとは言っても、どこに行くべきかもわからない。外へ転がり出た藍は、この世界にやってきた日のように路地という路地を曲がりながら、追ってから逃れようとした。
その時、遠くでピーっという甲高い警笛の音が聞こえた。
――もしかしたら。
藍はその場で立ち止まって、胸元のロケットペンダントを手繰り寄せた。仄かな暖かさを感じる。ロケットの中に燃えるような星の光が詰められている証明だった。
路地の向こうから武安たちが現れた。
「一か八か……っ!」
藍はロケットのコルクを開けて、勢いよく地面に向けて振った。星屑が零れる。眩しくて、全てを焼き尽くすような一等星の黄金色。それは圧倒的な光を放ち、辺りを真昼のように照らした。
藍は眩しくて目を瞑った。
武安たちが追い付き、立ちすくむ藍を目掛けて、こん棒を振り下ろした。
「……あ゛あぁ!」
しかし痛みに呻いたのは武安の方だった。
「藍」
温もりを感じて目を開けると、目の前で清霞が剣で武安の腕を切りつけているところだった。そして傍らには燈夏が守るように藍を抱きしめていた。
「……燈夏」
「遅くなってすまなかった」
燈夏は安心させるように微笑んだ。
さらに背後から清霞の引き連れた刑吏たちがなだれ込んできて、あっという間に宦官らを捕縛していく。星の色液はすでに地面に吸収され、辺りは再び真っ暗な夜道に戻っていた。清霞が剣を収めて駆け寄ってきた。
「燈夏。こっちは任せろ。藍を連れてってくれ」
「わかった。金糸雀妃のことも頼んでもいいか?」
「ああ。そのことだけど」
清霞がこっそりと藍に耳打ちした。
「さっき、後宮の方で金糸雀妃が死んだ」
燈夏は顔をしかめた。「なんだと?」
「体内に色を入れすぎたせいだ。どうやら彼女の調色師は加減を考えなかったらしい。奴の腕を信じた彼女の自業自得だよ」
冷たく言い放つ清霞に、燈夏は心配そうに見た。それに気づいた清霞は呆れた顔で燈夏の顔をつつく。
「とにかく、お前はそんなことを気にしてる場合じゃないでしょ。ほら。早く連れてってやんな」
燈夏の隣で呆然とする藍は心ここに非ずと言った様子で、完全に抜け殻のように黙り込んでいた。清霞は安心させるように柔らかい笑みを浮かべて、藍の頭を撫でた。
「あとはこっちに任せて。今日はよく寝な。藍」
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