第30話 偽りの希望、真実の絶望

 ベル歴995年、水の月23日。王族配信当日の昼。


 旧館の奥まった、陽の当たらない一室。昨日の祝祭の賑やかさとは対照的に、そこには重い沈黙が満ちていた。


 薄暗い部屋の中央の台座に、意識を取り戻した第三王子ハンスが拘束されていた。


 彼の両手足は、分厚い鉄の鎖で台座に固定され、頭部以外は僅かな身動きも許されない。


 顔色は蒼白で、やつれ切った様子は、彼の苦痛を物語っていた。


 彼の記憶は、水の月17日の夜、深い眠りに落ちた瞬間から途切れていた。彼は自分が何者かに拘束され、この部屋とは別の場所に監禁されていたことを、台座の鎖と肉体の極度の疲労から理解するしかなかった。



 扉が静かに開く音がした。


 ハンスはゆっくりと顔と視線を扉の方に向ける。そこに立っていたのは、第一王子オリバーだった。


 彼の顔には、微かな疲労と、深く沈んだ悲しみが刻まれている。しかし、その瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。


 オリバーは、ハンスが拘束されている台座の傍に置かれた椅子に、音もなく腰を下ろす。


「ハンス……」


 オリバーの声は、静かだったが、その響きは部屋の空気を震わせた。


 ハンスは何も答えない。ただ、虚ろな視線をオリバーに投げかけるだけだ。


 彼は、今が何月の何日で、どれほどの時間が経過したのか、まったく見当がつかなかった。全身に残るマナを絞り取られたような極度の疲労感と、体についた鎖の痕だけが、彼が長期間にわたって拘束されていたことを示していた。


「なぜだ、ハンス。なぜ、このようなことを……」


 オリバーは、絞り出すような声で言った。その言葉には、偽りの苦悩がにじんでいた。ハンスは、オリバーの言葉に、反吐が出そうになった。


「……兄上、なぜ私はこのような場所に」


 ハンスの声は、鎖の擦れる音にかき消されそうになるほどか細かったが、その中には燃えるような怒りが宿っていた。


 オリバーは、ゆっくりとハンスの前に歩み寄った。そして、膝をつき、ハンスの顔を覗き込む。その表情は、まるで深く傷ついた兄のようだった。


「お前は、この国の、そして民の希望だった。そのお前が、なぜ……父上を、殺めるなどと……」


 オリバーの声は、涙に震えているかのようだった。その言葉が、ハンスの心の奥底に眠っていた怒りを呼び覚ました。


「父上を…? 私が…?なにを言っている」


 ハンスは、嘲るように言った。彼の瞳には、怒りと、そしてオリバーへの軽蔑が浮かんでいた。


「このような状態の私が何をできるというのだ!私は、父上のそばにはいなかった! 貴様はいったいなにを言っている!?」


 ハンスは、全身の力を振り絞り、鎖を軋ませながら、オリバーに向かって叫んだ。鎖が彼の腕に食い込み、血が滲む。しかし、痛みなど感じない。彼の心には、オリバーへの疑念が満ちていた。


 オリバーの顔から、一瞬、冷静な仮面が剥がれ落ちる。彼の表情に、かすかな動揺が走った。しかし、すぐに彼は冷酷な笑みを浮かべた。


「ほう…随分と元気になったな、ハンス。だが、残念ながら、お前の言葉を信じる者など、誰もいない」


 オリバーは、静かに立ち上がった。彼の背中からは、冷たい威圧感が漂っている。


「父上の遺体からは、お前のマナ反応が検出された。そして、王の寝室に侵入し、父上を殺害した現行犯として捕らえられたのは、第三王子ハンス、お前だ。更に、取り調べにより、お前は既に犯行を認める供述をしている」

「なにを云ってっ――」

「あの祝祭で民衆の前に姿を現し、父上と肩を並べたのも、お前だ。監視結晶の記録も、全てを物語っている。私が、お前と争った後、お前が父上の寝室へと入っていく姿と父上と争った声が、鮮明に…」


 オリバーは、ゆっくりと、しかし確実に、ハンスの心をえぐっていく。ハンスは、オリバーの言葉に、目を見開き絶望が迫る。


「…まさか…貴様…影武者を…!?」


 ハンスは、息を呑んだ。立太子にいたのは、自分ではない。オリバーは、自分の身代わりを立て、そしてその身代わりを使って、王を殺害したのだと理解した。


 そして、その罪を、本物の自分になすりつけようとしている。


 オリバーは、ハンスの反応に満足したかのように、不敵な笑みを浮かべる。


「ようやく、理解したようだな、愚かな弟よ。そうだ。お前は、この国の“犠牲”となるのだ。お前は、父殺しの罪人となり、この国の希望は、私が引き継ぐ」


 オリバーの声には、微かな高揚感が混じっていた。


 彼の瞳は、冷たく、そして計算高く光っている。ハンスは、裏切られた怒りと、自らの運命への絶望に打ち震えた。


「貴様のような卑劣な者が…この国の王に…なるというのか…っ!」


 ハンスは、喉を嗄らしながら叫んだ。彼の全身から、鎖を打ち破ろうとするかのような力が漲るが、鎖はびくともしない。


「私が、この国の摂政となる。そして、お前は、“病によって心を病み、錯乱の末に父を殺めてしまった咎人”となる。そして、その悲劇を乗り越え、私がこの国を導く。それが、民衆の望む物語だ」


 オリバーは、天を仰ぐように語った。まるでこの国の未来を握っているかのように。


 ハンスの瞳には、もはや希望の光はなかった。あるのは、オリバーへの憎悪と、そして自らの無力さへの絶望だけだった。


「…貴様っ……地獄の底に堕ちろっ…!」


 ハンスは、絞り出すような声でオリバーを罵った。しかし、鎖に繋がれた彼は、何もできない。


 オリバーは、そのハンスの抵抗を嘲笑うかのように、静かに姿勢を戻す。


「よろしい。お前には、この国の未来を、私の手の中に委ねる役目があるのだ。やがて、民衆は、お前の犠牲を乗り越え、私を真の王と崇めるだろう」


 オリバーは、そう言って、ハンスの視線からゆっくりと外れると、部屋の扉に向かいドアノブに手をかける。


「貴様の処分は、追って沙汰を出す。絶望を与え、後悔をもって死という慈悲を与えよう」


 オリバーは、振り返りもせず冷酷な声でそう言い放った。


 その言葉は、ハンスの心臓を直接掴み、凍りつかせるかのようだった。


 死刑。


 それは、監視結晶の記録が公開され、民衆が「真実」を知る。


 今日、ハンスは自分がどれほど絶望的な状況にいるかを、そして彼がこの国の「希望」から「父殺しの咎人」へと転落する瞬間を、まざまざと見せつけられることになるだろう。


 その絶望の極みに達した時、オリバーは「慈悲」と称して、ハンスの命を奪うつもりなのだ。


 オリバーは、扉を静かに閉め、部屋を出て行った。


 残されたハンスは、ただ茫然と、台座に繋がれたまま、部屋の隅を見つめている。彼の心には、虚無感が広がっていた。


 過去の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。父との穏やかな日々、民衆の笑顔、そして兄オリバーとの温かい絆。それら全てが、今や血と裏切りによって汚され、偽りの幻影と化していた。


 ハンスは、自分が「希望」という名の鎖に縛られ、オリバーの野望のための生贄とされたことを悟った。


 この部屋で、彼は、これから訪れるであろう民衆からの罵声と、自分への憎悪を想像し、深い絶望に沈んでいく。だが、その絶望の奥底で、微かな怒りの炎が燻り始めているのを感じた。


 このまま、すべてを諦めて死ぬなど、決してできない。






 

 旧館の指令室に戻ってきたオリバーは、満足げにほくそ笑む。


「これで、この国の未来は、私の手の中に。そして、中央、さらには西方諸国への影響力拡大という、我らの大いなる目的も、着実に進むだろう。旧き王の時代は終わりを告げ、“クライノートの血脈”こそが八英雄の国を正しく導くのだ」


 窓の外を見つめた。彼の言葉には、揺るぎない確信が込められている。その瞳には、この国の、そして世界の未来が、鮮やかに映し出されていた。

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