閑話 九九二
三年前。
ベル歴992年。火の月。
王都にあるシュタール宮殿。
現王であるニクラウス・クライノート・アイゼンが、娘である元第一王女エリーザを、王の私室に呼び出した。
ローテーブルを挟んだ二脚のソファに、それぞれ腰を掛けている二人。テーブルの上にはティーセットが置いてある。
ソファに深く腰掛けたニクラウスは、純白の豊かな顎鬚と、威厳に満ちた銀髪をきっちりと整え、高齢ながらも長身で堂々とした風格を漂わせている。彼は、深紅の毛皮付きのローブを羽織り、その下には金色の刺繍が施された濃色の正装を着用していた。彼の紫がかった鋭い瞳は、時折、目の前の娘に優しげな光を向ける。
王であるニクラウスの後ろには、側近である執事長トーマス・モントシュタインが立っている。彼は、白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけ、口髭と顎鬚を綺麗に整えている。細身で引き締まった体躯は黒の完璧な燕尾服に包まれ、揺るぎない姿勢で控えている姿は、厳格な品格と忠実な有能さを感じさせた。
「急に呼び出してすまんな、エリーザよ」
「いえ。お父様からのお呼び出しでしたら、いつでも」
「ありがとう」
2人が微笑み合う。
エリーザが18歳の時にクロース家に降嫁してから約十七年。クロース侯爵家は王都に屋敷があるものの、それなりに離れており、更に二人の子供を儲けたということもあって、父であるニクラウスと娘のエリーザとの間で、特段用向きがない限りは、会話することも少なくなっていた。
「家族ともども息災であったか?」
「ええ。おかげさまで、心穏やかに過ごさせていただいております」
「一番の心配のもとだったレオも、頑張っているようだな」
「そうですね。レオは強い子ですから」
「そうだったな」
属性を持たず生まれてきたレオ。まだレオが幼かった頃にエリーザは、そのことについてしばらく思い悩んでいた。そんなエリーザにニクラウスは助言を与えたこともある。
二年前。未成年でかつ、高等部1年生の少年レオが、アイゼン王国の武闘大会に出場し、挙句の果てに優勝までしてしまった時には、流石のニクラウスも目を丸めて驚いた。
その時のことを思い出し、ニクラウスは苦笑しながら、目の前のティーカップの紅茶を口にした。
エリーザも紅茶を口にしていたが、ティーカップをテーブルへ静かに置き、姿勢を正す。
「それで、お父様。本日はどのようなご用向きなのでしょう?」
「ああ……それなんだが」
ニクラウスが自身の影に目を向ける。すると、ニクラウスの影から黒猫が飛び出してきた。
「ノワル様……」エリーザが言った。
「お久しぶりでございます、エリーザ様」
「え、ええ。お久しぶりです」
エリーザは少々動揺した。若かりし頃にノワルと出逢ったのだが、そのことは秘密だとノワルに云われ、今の今まで黙っていたからだ。
「エリーザ。ノワル殿は当代の王の秘密。この場におるトーマスを含め、認めた者にしかその存在を明かしておらぬ」
「え、ええ、ノワル様から伺っております」
「はっはっはっ。まあ、エリーザ。お前がノワル殿と面識があることは訊いておる。そのことについて特に咎めることなどないうえに、問い質す必要も感じなかったからの」
「そうだったんですね。もうっ、ノワル様もいじわるですね。もっと早くに教えてほしかったんですけどっ」
「申し訳ございません」
「はっはっはっ。まあまあ、エリーザよ。お前が立派にノワル殿との約束を果たしておったのなら、尚のこと信用が生まれる。我が子のなかには、何を考えておるか分からん者もおるからの。お前になら安心して話を勧められるというものだ」
「話……?ですか?」
「ああ。ノワル殿」
「ええ。わたくしからお話しいたします。エリーザ様、実は――」
そうして、ノワルからエリーザへの説明が始まる。
二週間後にゲンマで行われる魔道具の発表会に、エリーザの夫であるオスヴァルトが、審査員として呼ばれている。その発表会には八英雄の国以外の国からも多数の出席者いて、そのなかに〝聖匠〟オスヴァルトの技術を欲している国があるという。
オスヴァルトの強さを疑うわけではないが、どんな手段を用いてくるか予想がつかない。
事故を装い、姿をくらませてほしい。
エリーザは、ノワルにしてはだいぶ
他国から多数の出席者が訪れるとしても、事前にそのような情報が入っているのならば、何もしないわけがない。何よりこの場には、ノワルを含め、執事長兼〝諜報部トップ〟のトーマスがいる。その国、人物、組織を特定し、事前に対処できるはずである。
もしかしたら真の理由が別にあるのではないか、と考えたからだ。
ノワルが説明を終えると、ニクラウスが改めて口を開く。
「これはお前たち家族を守るためのものだ。了承してくれるか?」
「かしこまりました」
「え?今の説明で納得できるのか?」
「お父様のお言葉もそうですが、その内容に違和感があったとしても、ノワル様がわたしに冗談をおっしゃるとは思えません。夫には、わたしから上手く伝えておきますので」
「そ、そうか」
「その際に、信憑性を持たせるためにも、ノワル様のお名前をお借りしても?」
「ええ。結構でございますよ」
「すまんな、エリーザ。難儀を掛ける」
「いえ。いずれ真実を打ち明けていただければ、それで結構です」
「な、なんのことかな?」
「いえ、こちらの話ですよ、お父様」
エリーザが微笑む。ニクラウスの額から一筋の汗が流れた。
その一週間後。
アイゼン王国北部に、八英雄の国「ゲンマ」との国境を跨るように、オツィオゼ山脈がある。
ゲンマへと続く、アイゼン王国側にあるサルドニクス山の峠道が、土砂崩れによって塞がれていた。
大柄で、無精ひげ。白髪混じりの茶髪頭で、てっぺんが円形に禿げた五十代半ばくらいの男性と、やや細身で、金髪ミドルヘア。糸目で、一見やる気のなさそうな男性。お互いが傘を片手に、並んで被災現場を眺めている。
四日間も続いている雨。勢いの弱まった昨日、サルドニクスの峠道で足止めを食った商隊により、土砂崩れの報が齎された。
一報を受け、ディアマン辺境伯領都ソリーダより、アイゼン王国交通省、ソリーダ支局の災害課課長――てっぺん禿げの男性――オーラフと、その部下である――金髪糸目――フォルカーを含めた職員と、作業員の団体が、現場視察及び、復旧作業に訪れたのだ。
二人は、未だ弱く降り続く雨の中、二次災害を留意しつつ、被災現場周辺を見渡す。
「こいつは骨が折れるな……。おい、フォルカー。どれぐらい掛かりそうにみえる?」
「うーん、どうっすかねえ。優秀な地の魔導士でも、この量の土砂を除去しようするとなると、……最低でも三日は必要じゃないっすか?そこから整地や補修工事っすからね。ただ、この雨の中じゃ二次災害が怖いっす。雨があがってからと考えれば、二週間から三週間ほどほしいところっすかね」
フォルカーが、頭を掻きながら、復旧の目途を見立てた。
「ああ、俺の見立ても大体同じだな。東は?」
「今んとこ被害報告はないっすね」
「そうか」
よし、とオーラフは振り返り、他の職員や作業員たちを見る。
「雨があがってからの作業にしよう!第三班は周辺の安全な場所に野営の準備を!魔獣が出るかもしれないから戦闘班も何名か連れていけ!それと連絡係!しばらくこの峠道は通行禁止だ!ソリーダ支局長にその旨を伝えたのち、王都に報告!少し遠回りになるが、東のインカパクス山の峠道を利用するようにと伝達するように!」
「了解です!」
「他の班は、もう少し現場検証を!なにか気付いたことがあったら報告してくれ!」
「了解しました!」作業員たちが声を揃えて応えた。
それにしても、とオーラフが振り向き、土砂崩れのあった崖の先を見下ろす。それに気付いたフォルカーも同様に振り向いた。
「誰も巻き込まれていなければよいのだがな……」
「そうっすね」
雨が止んだ二日後。オーラフたちの心配事は現実となる。
崖下の現場の土砂の下から、車体にアイゼン国旗を描いた
995年。風の月。ザフィア辺境伯領「アハート」
クロース家の自宅「修理屋オスカー」
八匹の聖猫を迎え入れ、一段落した時に、エリーザが黒猫に声を掛ける。
「ノワル様」
気付いたノワルがエリーザに顔を向ける。
「エリーザ様。今のわたくしは真の主であるレオ様の従属獣。そのレオ様の母君であられるエリーザ様から、様付けで呼ばれるのはどうも落ち着きません。どうか、わたくしのことはノワルとお呼びください」
エリーザが一瞬目を丸め、すぐに泣き笑いの表情をみせる。
「出来れば今まで通りお呼びしたいんですけど……」
若い頃から付き合いがある者の、呼び方を変えるのは存外難しい。ノワルの要求に、今までの関係が壊れるようで、エリーザは心なしか寂しく感じた。
ノワルはエリーザの機微に気付き、察する。
「かしこまりました。では、今までどおりでお願いいたします」
「ありがとうございます、ノワル様」
エリーザが笑顔を浮かべた。
「ところで、ノワル様」
「なんでしょう?」
「あの時……、三年前にお父様とともに、わたしにおっしゃった真の理由は、これだったんですね」
エリーザが愛おしい笑みを浮かべながら、猫と戯れるレオを見遣った。
「その節は、
「いえ。ただその、虚飾……マタド・ク・シア?の脱獄でしたっけ。もっと早く教えていただけていたら、ということだけですね。八大罪のマオンが聖霊様たちにとってどれだけ悪い影響を与えるかを知っていれば、私たちのほうでも準備出来ましたのに」
「それは申し訳ございません。相手は約千年前の元凶の一人。マオンのなかでも一際狡猾な存在。そして、未だその行方が分からないときております。念には念を入れよ、とはオスクネス様、ひいてはベル・ラシル様のお言葉でございましたので」
「それなのに、あの内容だったのですか?」エリーザが苦笑した。
「ええ。エリーザ様なら理解していただけると確信しておりましたので」
「すごい信頼のされようですね、わたしって」
「実際、そうであったではございませんか」
「たしかに」
一人と一匹は顔を綻ばせた。
「ところでエリーザ様」
「なんでしょう?」
「ご家族にはなんとお伝えしたので?」
「ええ。強大な組織に命を狙われているので身を隠すように、とノワル様に云われた、と」
「ふっ。わたくしとあまり変わらないではありませんか」
「ふふっ、そうですね」
「レオ様やマルクス様たちにも?」
「ええ。そちらは諜報部からと」
「なるほど」
エリーザは「でも」と、なにかを追懐するように上を見上げる。
「最初、夫とマルクスは迎え撃つつもりでいましたね」
「ほう。どのように?」
「魔道具を駆使して防犯システムの構築を強固にする、とか云ってましたね」
「レオ様は?」
「レオは……」エリーザが眉をひそめる。「すごく悔しがっていましたね」
「なぜでしょう?」
「あの頃のレオは、武術において素晴らしい成績を収めておりましたが、本当の意味での命のやり取りという経験が乏しく、魔道具師としても未熟でしたし、更にマナの扱いも……」
「左様でございましたね」
「ええ。でも――」
エリーザは、改めて猫と戯れるレオを見遣り、優しく微笑む。
「――今はとても頼もしくみえますね」
ノワルもエリーザの視線を追うようにレオに顔を向ける。
「ええ。まことに……おっしゃるとおりでございますね」
ショウの記憶が刻まれ、レオに残っていた技術面の不安要素が潰えた。今のレオからは、わずかだが、自信のようなものが溢れ漏れているような感じまでする。
だが同時に、新たに生まれた不安もある。
レオは、どんな運命を背負ってしまったのだろう、と。
エリーザの表情が、わずかに曇る。一人の母として、レオの将来を憂うのだった。
「ご心配なようでございますね、エリーザ様」エリーザの機微に、ノワルが言った。
「ええ。少しだけ」
「安心して下さい、とまでは云いませんが」ノワルが真剣な表情をエリザに向ける。 「わたくしどもが、可能な範囲でお守りいたしますので」
表情に出ていたのか、とエリーザは、ノワルに顔を向け目を丸める。数秒後、エリーザは先程までの優しい表情に戻す。
「それは非常に頼もしいお言葉ですね。でも、わたしはレオを信じています。だって――」
エリ-ザが再びレオに視線を向ける。
「――わたしの子ですもの」
愛おしい家族が、歴史に巻き込まれていく。だからこそ、エリーザは想うのだ。自分がレオのために出来ることを。愛し続けることを。
そんなエリーザを見てノワルは問い掛ける。
「エリーザ様。結局三年前にどのように伝え、今のようになったのでしょうか?」
「あーそれは」
「それは?」
「〝王命〟だ、と云ったからです」
エリーザが苦笑する。ノワルはその解答に、珍しく、右前脚をカクンとさせ、愕然とした。
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