第1章
第1話
アイゼン王国。八英雄の国随一の職人国家。
アイゼン王国南東に接する、同じく八英雄の国バーディアとの国境付近に位置するザフィア辺境伯領。その最南端にある、人口5,000人程度の古いレンガ造りの町、〝アハート〟。
時はベル歴995年、風の月。初夏に近い春の夕刻。
母親に頼まれた買い物からの帰路に、不可思議な現象に出くわした銀髪の青年――レオ――は、思わず足を止める。
夕陽で橙色に染まる南区最大の商店通りの街並みだったのだが、急に自身以外のヒトがいなくなり、全てがまるで無彩色に染まったかのような世界に変わったのだ。それと同時に、世の中が反転したかのような感覚を覚えた。
精悍ではあるが、まだ若干の幼さを顔に残すレオは、買い物カゴを握る手に力を込めた。
「なに?」不安な表情を隠しもせずに辺りを見回しながら言った。
「ご主人様」
狼狽していたレオの後方から唐突に、若そうな、それでいて紳士的な優しい男性の声が聞こえた。振り向くと、いつの間にかそこには黒猫がおり、お座りをしてレオを見ている。どこか値踏みでもしているかのように、その愛らしい顔ごと深淵を湛えているかのごとき紫色の瞳を、上へ下へと巡らせていた。
「猫?さっきの声は――」
「わたくしでございます」
疑問の言葉を遮るように、黒猫が答えを言った。レオは目の前の〝猫が喋る〟という事象に目を見開き驚いたが、逆に、ですよねぇ、という想いで平常心を保とうとすぐに表情を戻す。
「レオ様でございますね?」黒猫が言った。
「そうだけど……君は?」
「ああ、名乗るのが遅れてしまい申し訳ございません。わたくしの名前はノワル。大聖霊様より加護をいただいた〝
「なるほど……?」
黒猫―――ノワルから告げられても今一つ要領を得ないレオではあるが、大聖霊様の加護を得ただ何だと言っているのを訊いた限り、ただの猫ではないということは理解できた。
まぁ、猫が喋っているという時点でただの猫ではないのだが。
かぶりを軽く振り、とりあえずまだ冷静だ、と言い聞かせたレオは、ふうと一息吐いてから頷いた。
「今のこの空間は、君が――」
「わたくしのことはノワルと」
「あ、ああ。それじゃあ、ノワル。この空間はノワルが作り出したのか?」
「左様でございます」
ここはアハートの南区。その南区で最も大きい商店通りである。街の喧噪が忙しなく聞こえるはずの夕方のこの時間。無彩色の世界という不気味さも相俟って、まるで営みが消えてしまったかのような静けさである。ノワルは何でもないように答えたが、レオとしては先程から自分の身に起きている事象に狼狽しきりだ。ふざけんな、と言ってやりたい気分だが、そこはグッと堪え、言葉を飲み込む。
「何をしたんだ?」レオが言った。
「これは聖霊魔法の闇結界の一つ、≪オンブルモンド≫。わたくしを中心として、マナの続く限り、もしくは解除するまで、指定した生物を指定した範囲内の影世界に一時的に引き込み、潜ませることが可能でございます。失礼かと存じましたが、勝手ながら、レオ様をこちら側へお連れ致しました」
「影世界?」
「ええ。影の中……まあ、簡単に申し上げますと、現実の世界とは違う、裏世界のようなものです」
「う、裏世界……か。どおりで周りにヒトの気配が無いわけだ」
「さあ、どうでしょう。ヒトの…生物の気配といった意味では、どうぞ、足元をご覧になってください」
「足元?」
レオは自身の足元を見た。一見何の変哲もない道だが、よく凝視すると地面の向こう側、地中と言って良いかは分からないが、そこには何かが蠢いているように見える。
「これはっ」レオが、本日何回目かの驚愕の表情を浮かべる。
「ええ。お察しの通り、影世界の外……所謂、現実世界が逆さに見えております」ノワルが足元を右前脚で軽くつつきながら「結界の解除タイミングや影内の移動はこれで判断しております」と言った。
「そ、そうか……」
この短時間で何度驚いたことか。レオの心中は、正直辟易しそうである。しかし、先程からの印象と言えばいいのか、予感と言えばいいのか判らないが、目の前にいる黒猫のノワルとは、この先もかかわっていくかもしれないのでは、と感じる。であれば、そんなことも言っていられないと、レオは覚悟を決めるように持っている買い物カゴの持ち手に、再び力を込めた。
「最初」レオは言って、言葉を切った。
「ええ」
「最初、ノワルは俺のことをご主人様と呼んだよね」
「左様でございますね」
「ノワルは俺と、主従の関係を結ぶために来た、ということでいいのかな?」
ノワルはレオの疑問に対し、訝しげに目を細めながら沈黙した。まさかの反応に「違うのか?」と言って、レオも眉をひそめた。
「あー、いえ、たしかにレオ様のおっしゃるとおりではございます。ですが、まずは確かめたいことがございまして。わたくしのマナにも限りがございますし、ここではなんですから、わたくしに付いて来ていただけないでしょうか?」
「それはっ、……いや、わかった」
出会ってまだ幾ばくもない怪しさ満点の黒猫ノワルに、今のところ心まで許せるはずもない。聖霊の加護をいただいているとは言っているが、本当かどうかも確かめようがない。聖霊魔法こそ証明だ、と考えるかもしれないが、そもそも精霊魔法自体初めて見るので同様だ。更に無彩色の世界の雰囲気も相俟って、むしろ不安の方が勝っているくらいだ。だがレオは、その気持ちを言葉にせず飲み込み、先程の予感を信じてノワルの言葉を受け入れた。
「ではこちらへ」ノワルが歩き出し、それに従いレオも歩き出す。
主線道路から外れ、連なる商店や住宅の隙間を縫うように裏路地へ入った。途中、足元を見れば、地面の裏側にいる何人かと足の裏を合わせるようにすれ違う、という不思議な体験をしたのだが、一応平静を装ってノワルに追従した。
「ここら辺でよろしいでしょうかね」
ノワルが立ち止まり、何かを念じるように眼を閉じた。すると直後、レオの視界が反転する。そして、先程までの無彩色だった世界に彩りが戻る。どこか落ち着く、仄暗い夕暮れ色が、レオの視界を染めた。思わず顔を顰める。
「結界を解除したのか?」レオが言った。
「左様でございます。あらかじめ設置しておいた幾つかの魔法陣が、間もなくのところにございますので」
「あらかじめ?」
「ええ。わたくしのマナを先程の結界に、
「あ、あぁ」
幾つかの魔法陣とは?と、ノワルの返答に釈然としないレオだったが、口を噤んでノワルの言葉に従った。
更に歩を進めると、細い裏路地の先に袋小路があった。いや、実際そこには道幅ほどの広さと、建物一階の屋根ほどの高さの縦長な楕円のように滲んだ闇があり、その先の視界を塞いでいる。その為、そこが本当に袋小路なのかは判らない。レオ自身がこの町に住んでいるからこそ、ここが袋小路なのだと知っている。そこでノワルが止まった。
「こちらに入ります」右前脚を闇に向け、ノワルが言った。
「マジかよ。これはなんだ、大丈夫なのか?」
怯むような表情になったレオの額に、じわりと汗が滲む。それを見たノワルがふっと表情を柔らかくした。
「ご安心を。こちらはあらかじめ設置しておいた≪ソンブルチェイン≫という、闇と闇を繋いだ移動魔法でございます」
「移動魔法……?」
「ええ。この場所とは違う地点にもう一つ、これと同じものを設置してございます。こちらの闇に入っていただきますと、そのもう一つの場所の闇へと移動が可能となっております」
「へぇ……」安堵の表情に若干戻したレオが、続けて「便利なんだな」と言った。
「そこまででもございませんよ。あらかじめ移動先にソンブルチェインの魔法陣を設置しておかなければならないので」
魔法の性能に少しばかり不満気な顔のノワルだが、レオとしては十分便利だろ、と感じて苦笑した。
やや間があって「それでは、参りましょう」とノワルが言った。
「ああ、わかった」
佇む闇に顔を向け、よし、と気合を入れたレオは、ノワルを伴ってその闇に足を踏み入れた。
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