非情な彼女は先輩のカノジョ

山神まつり

第1話

東条先輩が向こうの誰かに大きく手を振っている。

今日は二度寝をしてしまい、慌てて家を出たのでコンタクトを入れる時間がなかった。予備で持ってきた眼鏡は背負っているリュックの中にあるので、わざわざリュックを下ろして出す手間を考えるとそのまま裸眼でいることにした。

「あ、旭、紹介するな。実は三か月前ぐらいから付き合い始めたんだ、俺のカノジョ」

カノジョの言葉が何だか上ずっていて、可愛らしいなと思ってしまった。

「お待たせ、叶多!……その人は?」

「あ、部活の後輩だよ。ほら、前に話してた高校選抜大会でダブルスを組んだ里中。つかさに会わせたくってさ」

(……つかさ?)

どこか聞き覚えのある名前に、俺は目を細めた。

だけど、目の前の女性の姿はやはりぼんやりとしていてよく見えなかった。

でも、何故だろう。初対面の女性からはこれ以上何も言うなと言わんばかりの見えない圧が感じられた。

「―――初めまして、里中くん。叶多とお付き合いさせてもらっている夜空つかさです。よろしくね」

フルネームを聞いた瞬間に、すべてを思い出した。


夜空つかさは俺の家から50メート先くらいの家に住んでいた。小さい頃、病気がちだった俺はよく二階の窓から夜空つかさが男子を追っかけまわしているのを見つめていた。少し元気になったからと学校に行くと、すぐに熱を出して次の日は休んでしまうという日々を送っていた。

母は、体の弱い俺のためにフリーランスの仕事に切り舞えて、家にいてくれるようになった。

申し訳なかった。

だから、あんな元気に走り回っている夜空つかさが心底羨ましかった。

「つかさちゃん?元気ねー旭も、いつかつかさちゃんみたいに元気に外で遊べるようになるよ」

母はよくそう言って励ましてくれた。

そんな日が本当に来るのだろうか。不安と焦燥感に日々苛まれながら、俺は窓の外を見続けていた。

段々と体の調子が良くなり、学校に通えるようになると何となく夜空つかさの話が耳に入ってくるようになった。

夜空つかさは良く言えば正義感が強く、悪く言えば体のいいガキ大将だった。

女子が男子にちょっかい出されているとどこからともなく飛んできて滅多打ちにして、女子たちから黄色い声援を受けていた。先生が男子間のいじめに黙認していると、率先してそれはおかしいと声を上げた。

それはおかしい、これは正しい。

自分の信条を曲げない、そんな強い女の子だったらしい。

学校の帰りに夜空つさかの家の前を通ると、駐車場の奥の犬小屋の前に赤いランドセルが転がっているのが見えた。夜空家の愛犬、風丸は凛々しい名前だがあまり吠えない。小屋の中ですやすやと眠っているのが見える。

ランドセルの持ち主が見当たらないが、ランドセルを放って家の中に入ったのだろうか。俺はそのまま素通りしようとすると、犬小屋の隣に両足が見えた。

ぎょっとしながらもその両足を凝視した。

当時、俺はすでに目が悪くなっていて、眼鏡を掛けていた。だから、その両足が微動だにしないことも鮮明に映っていた。

(どうしよう、どうしよう、もしかして死体とか?)

俺はおそるおそるつま先立ちで敷地内に入り込んだ。死体なら、ちゃんと確認した上で警察に連絡を入れなくちゃならない。

足元に近づくと、見覚えのある黒のスニーカーが目に入ってきた。

「―――おい、何勝手に人の家に入ってんだよ」

「ひ、ひいいいいっ」

勢いよく後ずさり、そのままよろけて盛大に尻もちをついてしまった。

死体だったその足の持ち主はゆっくりと上体をあげた。ショートの髪の毛に土や葉っぱが付いているが、本人は払うこともせずに不機嫌そうにこちらを睨んでいる。

「よ、夜空つかさ!」

「あ?何呼び捨てにしてんだよ。あ、あんた里中さんのところの旭だろ?年下じゃんか」

「……な、なんでこんなところで寝てるん、ですか?」

「別に、自分の家の敷地内なんだから問題ないじゃん。あ、もしかして死体とかだと思ったとか?ばっかだなードラマとか漫画読みすぎだろ」

はあぁーと俺は大きく息を吐いた。緊張感で強張っていた体から一気に力が抜けてしまい、すぐに立てずにいた。

夜空つかさは俺に近づくと手を差し出した。

意図が分からずその手を凝視していると、「手!」と言われ思わず手を伸ばした。その瞬間、ぐいっと強い力で体が一気に引き上げられた。

「誤解させたみたいだけど、別に何でもないから。父ちゃんとかに言うなよ」

「う、うん」

夜空つかさは父親と風丸とこの一軒家に住んでいる。母親は弁護士らしくて、東京で単身赴任という形をとっているらしい。

「私はさ、母ちゃんみたいになりたいんだ。良いことは良いこと、悪いことは悪いことってはっきりさせたい。だけど、白黒しっかりつけることがすべてじゃないだな。嫌な思いをする人もいるって分かった。それに気づかずに、私はずっと自分の信念をまわりに押し付けてきたんだな……」

どこか遠くの方を見据えて夜空つかさはそう呟いた。

「べ、別に自分の信念みたいなものは持っていいと思う!夜空つかさ、さんはそうあるべきだと思う!」

いつの間にか、俺はそう叫んでいた。

隔絶された部屋の窓から見ていた。夜空つかさは、自分のためではなく常に誰かのために動いていた。そんな確固たる信念を持っている彼女の姿を見ていた俺は心底かっこいいと思っていた。

夜空つかさは一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐにいつもの不機嫌そうな顔に戻り、ふんっとそっぽを向いた。

「別に、あんたに言われてもうれしかないし」


それから学校の帰りに夜空つかさの家の前を通ると、風丸の小屋の前でにやにやしながら彼女が待っていた。そして、しばらくは彼女の遊び相手をしていた。むしろ俺が遊び相手をさせられていたというところか。

夏にはいきなりガレージのホースから水をかけられたり、秋には段ボールを被せられてロボットになり無理やり戦闘ごっこに巻き込まれたり、冬は顔だけ出して雪で体を固定させられたり、春には風丸と相撲させられたり様々なことをやらされた。一緒に遊ぶというより、俺が悲壮な声を出すのを夜空つかさは面白がって笑い続けるという日々が続いた。

非情な彼女は、やさしさの欠片もなく、悪魔のようだった。

でも、そんな彼女に懲りもなく付き合っていた俺も大概だなぁと思うけど。


「だから、あれは友達がいなさそうなあんたを救ってあげようと思ったんだよ」

「……そんなやさしさは全く感じませんでしたよ、夜空先輩」

「いやー先輩なんて照れくさいなぁ」

「ていうか何の用ですか?そろそろ帰ってくれませんか?」

「あ、そうそう、あんたに会いに来たのは口止めのためだよ。やっとイケメンの彼氏が出来たんだからさ、昔の私のこととか話すなよ?」

「別に、話しませんよ。東条先輩を悲しませるようなことしたくないですから」

東条先輩と夜空つかさと別れ、家に帰ると別れたはずの彼女が門のところで不敵な笑みを浮かべて仁王立ちして待っていた。

くるりと踵を返そうとすると、思い切り首根っこをつかまれた。

「おい、何で避けるんだよ」

「鬼のような形相で家の前で立っていたら誰だって逃げるでしょう!」

「誰が鬼だこら!」

「あ、東条先輩」

「え、やだー叶多ーって、いねぇじゃねえかよ!」

「そんな猫かぶって先輩と付き合ってたって、いつかボロが出ますからね」

「ふん、私はそんなヘマはしねぇよ。せっかく掴んだ幸せだ、絶対ものにする。だから、邪魔するなよ旭」

胸の前で拳を作って断言する夜空つかさに、俺は大きなため息が出た。


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